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第3章
願いと絶望
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地下へと向かう階段に固い足音が響いていた。ひんやりと湿った空気とかびの匂いは不安な気持ちを掻き立てる。
「エレナ姫、足元に気を付けて」
前を歩いていたカールが立ち止まって、エレナに向けて腕を伸ばした。無言で会釈を返してその手を取ると、カールは満足したように微笑んだ。
地下牢の前にいた兵士がカールを見るなり背筋を伸ばして、最敬礼する。その向こうには両手両足を拘束され項垂れた姿のドールの姿があった。
「ドール…」
小さく漏れたエレナの声にドールがぴくりと反応した。上向いた顔には猿轡を噛まされているが、エレナを見ても表情を変えない。
目に見える箇所に暴行を受けた形跡がなくエレナは密かに胸を撫でおろした。
「ごめんね?自害防止のためには仕方ないんだ」
申し訳なさを欠片も感じさせない声でカールが話しかけてくる。
「姫の大切な侍女だから、姫の希望を聞きたいと思って連れてきたんだよ。ねえ、彼女をどうしたい?」
カールの問いかけにエレナは迷わなかった。
「陛下を害そうとする者は不要です。私の手で始末します」
その言葉に反応するようにカシャリと鎖が鳴った。
『いつか必ず私がドールを殺すから、その時が来るまで一緒にいてほしい』
ドールの願いを知った時、エレナはそう約束した。
『自害だけは絶対にしないでくれ』
大切な者からの最期の言葉を反故にすることができなかったドールは何も興味を持たず淡々とした日々を過ごしながら、ただ終わりを待ち焦がれていた。
その気持ちは母と師匠を亡くしたエレナにも覚えのある感情だった。
世話係として傍にいてくれる人間が必要だからと八年間引き留めてしまったのだ。終わらせるのはエレナの義務でありドールの貢献に報いる唯一の方法だった。
同行した兵士から剣を借りてエレナはドールの前に立った。ドールは相変わらず無表情のままエレナを見上げているが、言葉はなくともその瞳が雄弁に物語っているのは怒りだった。
他人から見れば殺されることへの怒りや憎しみと受け取られるだろうが、その怒りは心配していることの表れだとエレナは感じていた。
カールへの暗殺が事実であろうがなかろうが、ドールの行動が恐らく自分のために為されたことだと確信していた。
(私のためにしてくれたこと、すごく嬉しかった。遅くなってごめんね)
エレナはドールにだけ見えるように微笑んで、躊躇なく心臓を一突きにした。ドールの身体が一度大きくのけぞるが、すぐに全身の力が抜けてじわじわと血だまりが広がっていく。
最期に目が合った時、ドールが優しい目でエレナを見たのは錯覚ではないだろう。
感傷に浸る間もなく背後から不快な声がした。
「エレナ姫は本当に優しいね」
感心したような、嘲るような囁きはエレナの意図などお見通しだと言わんばかりで振り払いたくなる。
向きなおろうとした途端、腕を取られて抱きすくめられた。上着に焚き染められた花のような甘い香りに一瞬気を取られたが、顎に掛かる冷たい指先がそれを許さない。薄紫の瞳と間近に迫っていることに気づいた時には為すすべもなく、エレナはただ目を閉じることしかできなかった。
不快な行為はなかなか終わらず、ようやく唇が離れた時には目眩がしそうだった。それでも未だにカールの腕の中に囚われた状態で、逃げ出す口実も思い浮かばない。
「ふふ、姫は可愛いね。姫の望みは何でも叶えてあげたくなるよ」
髪に触れながら口づけを落とすカールはうっとりするような表情で告げる。血の匂いが充満した空間で甘い言葉を囁かれる神経が分からない。
暇つぶしの遊戯として戦争をけしかける残虐性、人命を軽く扱う冷酷さ、それでいて時折見せる無邪気な笑顔。カールの持つ狂気は知識として理解していても、傍にいるだけで当てられて指先が冷えていく。
(早くテオの元に帰りたい)
エレナの頭にあるのはそれだけだった。傍にいるだけで温かく安心できるエレナの居場所。
地下に下りて来る新しい足音に顔を向けると、フェイが現れた。
エレナと視線が合うと彼は確かに嗜虐心に満ちた笑みを浮かべ、エレナは頭から冷水を浴びせられたような気分になった。嫌な予感にエレナの頭の中に警鐘が鳴り響く。
「ご報告いたします。陛下暗殺を企て侍女に命令した者が判明いたしました」
エレナにはそれが誰なのかもう分かっていた。何とかしないといけないのに焦りと恐怖で目の前の景色がぼやけ、上手く思考することができない。
「エレナ姫付きの騎士テオ・デイビスです。既にこちらで拘束しております」
「エレナ姫、どうしたい?」
遠ざかる意識の中でカールの言葉はエレナの耳にはっきりと残っていた。
「エレナ姫、足元に気を付けて」
前を歩いていたカールが立ち止まって、エレナに向けて腕を伸ばした。無言で会釈を返してその手を取ると、カールは満足したように微笑んだ。
地下牢の前にいた兵士がカールを見るなり背筋を伸ばして、最敬礼する。その向こうには両手両足を拘束され項垂れた姿のドールの姿があった。
「ドール…」
小さく漏れたエレナの声にドールがぴくりと反応した。上向いた顔には猿轡を噛まされているが、エレナを見ても表情を変えない。
目に見える箇所に暴行を受けた形跡がなくエレナは密かに胸を撫でおろした。
「ごめんね?自害防止のためには仕方ないんだ」
申し訳なさを欠片も感じさせない声でカールが話しかけてくる。
「姫の大切な侍女だから、姫の希望を聞きたいと思って連れてきたんだよ。ねえ、彼女をどうしたい?」
カールの問いかけにエレナは迷わなかった。
「陛下を害そうとする者は不要です。私の手で始末します」
その言葉に反応するようにカシャリと鎖が鳴った。
『いつか必ず私がドールを殺すから、その時が来るまで一緒にいてほしい』
ドールの願いを知った時、エレナはそう約束した。
『自害だけは絶対にしないでくれ』
大切な者からの最期の言葉を反故にすることができなかったドールは何も興味を持たず淡々とした日々を過ごしながら、ただ終わりを待ち焦がれていた。
その気持ちは母と師匠を亡くしたエレナにも覚えのある感情だった。
世話係として傍にいてくれる人間が必要だからと八年間引き留めてしまったのだ。終わらせるのはエレナの義務でありドールの貢献に報いる唯一の方法だった。
同行した兵士から剣を借りてエレナはドールの前に立った。ドールは相変わらず無表情のままエレナを見上げているが、言葉はなくともその瞳が雄弁に物語っているのは怒りだった。
他人から見れば殺されることへの怒りや憎しみと受け取られるだろうが、その怒りは心配していることの表れだとエレナは感じていた。
カールへの暗殺が事実であろうがなかろうが、ドールの行動が恐らく自分のために為されたことだと確信していた。
(私のためにしてくれたこと、すごく嬉しかった。遅くなってごめんね)
エレナはドールにだけ見えるように微笑んで、躊躇なく心臓を一突きにした。ドールの身体が一度大きくのけぞるが、すぐに全身の力が抜けてじわじわと血だまりが広がっていく。
最期に目が合った時、ドールが優しい目でエレナを見たのは錯覚ではないだろう。
感傷に浸る間もなく背後から不快な声がした。
「エレナ姫は本当に優しいね」
感心したような、嘲るような囁きはエレナの意図などお見通しだと言わんばかりで振り払いたくなる。
向きなおろうとした途端、腕を取られて抱きすくめられた。上着に焚き染められた花のような甘い香りに一瞬気を取られたが、顎に掛かる冷たい指先がそれを許さない。薄紫の瞳と間近に迫っていることに気づいた時には為すすべもなく、エレナはただ目を閉じることしかできなかった。
不快な行為はなかなか終わらず、ようやく唇が離れた時には目眩がしそうだった。それでも未だにカールの腕の中に囚われた状態で、逃げ出す口実も思い浮かばない。
「ふふ、姫は可愛いね。姫の望みは何でも叶えてあげたくなるよ」
髪に触れながら口づけを落とすカールはうっとりするような表情で告げる。血の匂いが充満した空間で甘い言葉を囁かれる神経が分からない。
暇つぶしの遊戯として戦争をけしかける残虐性、人命を軽く扱う冷酷さ、それでいて時折見せる無邪気な笑顔。カールの持つ狂気は知識として理解していても、傍にいるだけで当てられて指先が冷えていく。
(早くテオの元に帰りたい)
エレナの頭にあるのはそれだけだった。傍にいるだけで温かく安心できるエレナの居場所。
地下に下りて来る新しい足音に顔を向けると、フェイが現れた。
エレナと視線が合うと彼は確かに嗜虐心に満ちた笑みを浮かべ、エレナは頭から冷水を浴びせられたような気分になった。嫌な予感にエレナの頭の中に警鐘が鳴り響く。
「ご報告いたします。陛下暗殺を企て侍女に命令した者が判明いたしました」
エレナにはそれが誰なのかもう分かっていた。何とかしないといけないのに焦りと恐怖で目の前の景色がぼやけ、上手く思考することができない。
「エレナ姫付きの騎士テオ・デイビスです。既にこちらで拘束しております」
「エレナ姫、どうしたい?」
遠ざかる意識の中でカールの言葉はエレナの耳にはっきりと残っていた。
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