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第2章
あの日の記憶③
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「乾杯」
対面のケイトとグラスを合わせる。
最終試験を合格したのはギルバートとケイトだけだったため、卒業祝いにと初めて二人で飲みに出かけたのだ。一週間後には拠点に向かい、恐らくはすぐに戦場に出ることになる。
「とりあえず今まで通りに接したら。ケイトは全然気にしてないし、変に気を遣われると逆に嫌がられるかもよ?」
そんなザックの助言に従ってみると、意外と普通に会話が出来ていた。ケイトを守れるぐらいの力が欲しいと以前に増して訓練に身をいれるようになると、自分を見るケイトの目も最初の頃よりも和らいできたように思う。
共通の話題が戦術や武器についてなど色気がないものばかりだったが、こうやって彼女と議論を交わすのも楽しい時間だった。
「ケイトは本当に戦場に行くのか?」
貴族令嬢なのに、という言葉は飲み込んだ。戦場に行くことになれば一緒にいられる時間は延びるが、死と隣り合わせの場所に彼女を行かせたくないという思いも強い。
「ええ、そのために訓練を積んだもの」
あっさりと頷くケイトに対しては複雑な気分だったが、それ以上深く尋ねることはしなかった。
いつもより早いペースで杯を重ねて店を出ると、冷えた空気が心地よい。
しばらく無言で歩いていると、ケイトが声を上げた。
「綺麗ね」
つられるように顔を上げると満天の星空が広がっていた。月よりも星の瞬きが明るく照らしていたようだ。
「気づかないもんだな」
「そうね、ギルは鈍いもの」
揶揄う口調に反射的に言い返す。
「そんなことあるか。回避率は俺のほうが高かったはずだ」
ケイトは困ったように肩をすくめる仕草をすると、くすくすと笑い声を立てる。
(――人の気も知らないで)
酒のせいで上気した頬、いつもよりとろりと柔らかい瞳に抑えているものが溢れそうになる。意識されていないのは分かっているが、他の男にはこんな無防備な姿を見せないで欲しい。
寮にたどり着く前に少しだけ危機感を持ってもらうことにした。周囲を確認してケイトの腕を引いて、建物の死角にある壁に押し付ける。
驚いたように目を見開くケイトを見て少しだけ溜飲を下げる。男を簡単に信用しちゃ駄目だ、そう続けようとしたのにケイトはそっと瞳を閉じた。
「な、何してんだ、馬鹿!勘違いするぞ、それ」
「勘違いさせるようなことをしたのは、ギルが先じゃない」
(――お前は婚約者がいる身だろうが!)
「残念ね」
怒鳴りつけようとした途端にぽつりと呟くようなケイトの言葉に、思わず幻聴かと耳を疑った。そのまま立ち去ろうとするケイトを無理やり押しとどめた。
こんな乱暴なことをしてはいけないと冷静な自分が叫んでいるが、ケイトの言葉の意味を知りたかった。
「勘違いしていいのか?」
ケイトは無言のまま静かな瞳でギルバートを見ている。先ほどまでの酔いが回ったような表情とは一転して、ギルバートの心を見抜くような真っ直ぐな顔だった。
「俺は……ケイトのことが好きだ。お前が嫌がることはしたくないし、迷惑なら酔っ払いの戯言だとなかったことにしてくれていい」
「本当に鈍いわね」
そう言うとケイトはギルバートの首に手を回して、唇を重ねた。
窮屈なベッドの中でギルバートは好きな女の寝顔を見つめていた。
もう少し見ていたいが、そろそろ時間だ。
名残惜しい気持ちを抑えて肩を軽く揺すると、ヘーゼルの瞳がギルバートの姿を認めて柔らかに細められる。
衝動的に何度も口づけを交わしているとノックの音が聞こえた。
ザックが戻る前にケイトを部屋に戻そうと思っていたのにと焦るギルバートをよそに、ケイトは冷静に身だしなみを整えている。
「ザックよね?話したいことがあったからちょうど良かったわ」
貴族にとって婚前交渉は不名誉なことだったはずだが、ケイトが気にしていないならとドアを開けた。入ってきたザックは苦いものを飲み込んだような表情でケイトと俺を交互に視線を動かす。
ケイトはザックの正面に立つと信じられないことを言い出した。
「殴っていいわよ」
「ケイト?!」
「そんなことしたらギルに殺されるだろ。代わりにギルに殴られないよう庇ってくれよ?」
疲れた表情でザックは溜息をつく。
「一応、昨日成立したらしいから不貞行為には当たらない」
「思いの外早かったのね」
二人の会話についていけないものの、嫌な予感が膨らんでいく。
「ギル、ザック・ターナーは私の婚約者よ。もっとも昨日婚約破棄されたから、元だけど」
ザックとケイトは遠い親戚で幼少の頃から交流があった。代々近衛兵や文官を輩出している家系でありザックも近衛兵を目指して王都で学んでいた。そんな中ケイトが士官学校入りを望んだことから、抑止力としてザックと急遽婚約を結ぶことになった。
「結局何の抑制にもならず、おかげで俺も保護者として入学することになったんだ」
「近衛隊の訓練と学校の訓練は別物だから、ちょうど良かったじゃない」
「そこに俺の意思があればな」
わざとらしく顔を顰めるが、気安い雰囲気が伝わってきて本気で怒っているわけじゃないことが分かる。
「ふうん。……で、俺に黙ってた理由は?」
「ギルだけじゃなくて誰にも言ってないわよ?ザックとはいずれ婚約解消するつもりだったし特に不要じゃない」
あっけらかんとした様子のケイトを無視してザックに視線を向けると、気まずそうな顔をになる。
「だって言えるか?お前の好きな相手は自分の婚約者だって」
「分かってるけどムカつくんだよ!」
「ギル、話進まないからちょっと黙ってて?ザック、それで終わりじゃないでしょう?」
邪魔者扱いは地味に傷つく。そんなギルバートをよそに二人は話を進めていく。
「はい、一応絶縁状預かってきた。相続放棄とか一式あるがすぐに決断しなくていい。キャロも心配してた」
「あの子のことは貴方が支えてよ。元々妹の婚約者候補だったのに、私のせいで迷惑かけたわね」
「…ったく、簡単に言ってくれる。ギル、キャロ――キャロルはケイトの妹で淑やかな令嬢だ。俺はそっちのほうがタイプだから、ケイトは任せたぞ」
「言うわね?私もザックよりギルのほうがタイプだけど。だから機嫌直して?」
秘密にされていたこと自体は腹が立つが、ケイトの言葉に思わず顔がにやける。そんなギルバートを見てザックがちょっと引いていたようだが、気にしない。
「本当にいいのか?ザックとの婚約はともかく絶縁するってことはもう貴族には戻れないんだろう?」
二人きりになった室内でギルバートはケイトに尋ねた。貴族から平民になるのは通常罪を犯した場合か著しく家名を棄損した場合、そして当主から絶縁された場合だ。最後は滅多に起きないことから、平民になることは罪を犯したと認識されることが多い。
「貴族令嬢のままであれば戦場に出られないわ。それにギルともいられなくなるけどいいの?」
そんなのは嫌に決まっている。だけどケイトの将来を考えると貴族でいることは圧倒的に有利なことが多い。
「軍の上層部に平民出身はいないのだろう。お前は頭もいいし司令塔としても活躍できる。国を守りたいのなら上層部まで登りつめるべきだ」
ケイトは驚いたように目を丸くしている。
「ギル、覚えてたんだ…」
『生まれ育った国を守りたい』
世間知らずのお嬢様の言葉だと思っていた。だけどケイトが本心からそれを望んでいるのだということが共に過ごしてきた今なら分かる。
兵士として優秀であっても平民であれば上に行くのが難しい。上流階級の人間なら王都にある軍の作戦本部に配属されることも夢ではないのだ。
戦場に身を投じることで守れる命より、軍の方針を決定する本部のほうがより多くの命を守ることにも繋がる。その機会を逃してしまうことをケイトに後悔してほしくない。
抱き着いてきたケイトを、強く抱きしめ返しながら髪を撫でた。しばらく抱き合っていたが、ケイトは顔を上げて告げた。
「ギル、私は平民でもきっと司令官まで登りつめてみせるわ。それに今は国だけでなくギルも守りたいの。だから一緒に戦おう?」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべたケイトは女神のように綺麗だった。ケイトが望むならどこまでも一緒についていこう、そうギルバートは心に誓った。
対面のケイトとグラスを合わせる。
最終試験を合格したのはギルバートとケイトだけだったため、卒業祝いにと初めて二人で飲みに出かけたのだ。一週間後には拠点に向かい、恐らくはすぐに戦場に出ることになる。
「とりあえず今まで通りに接したら。ケイトは全然気にしてないし、変に気を遣われると逆に嫌がられるかもよ?」
そんなザックの助言に従ってみると、意外と普通に会話が出来ていた。ケイトを守れるぐらいの力が欲しいと以前に増して訓練に身をいれるようになると、自分を見るケイトの目も最初の頃よりも和らいできたように思う。
共通の話題が戦術や武器についてなど色気がないものばかりだったが、こうやって彼女と議論を交わすのも楽しい時間だった。
「ケイトは本当に戦場に行くのか?」
貴族令嬢なのに、という言葉は飲み込んだ。戦場に行くことになれば一緒にいられる時間は延びるが、死と隣り合わせの場所に彼女を行かせたくないという思いも強い。
「ええ、そのために訓練を積んだもの」
あっさりと頷くケイトに対しては複雑な気分だったが、それ以上深く尋ねることはしなかった。
いつもより早いペースで杯を重ねて店を出ると、冷えた空気が心地よい。
しばらく無言で歩いていると、ケイトが声を上げた。
「綺麗ね」
つられるように顔を上げると満天の星空が広がっていた。月よりも星の瞬きが明るく照らしていたようだ。
「気づかないもんだな」
「そうね、ギルは鈍いもの」
揶揄う口調に反射的に言い返す。
「そんなことあるか。回避率は俺のほうが高かったはずだ」
ケイトは困ったように肩をすくめる仕草をすると、くすくすと笑い声を立てる。
(――人の気も知らないで)
酒のせいで上気した頬、いつもよりとろりと柔らかい瞳に抑えているものが溢れそうになる。意識されていないのは分かっているが、他の男にはこんな無防備な姿を見せないで欲しい。
寮にたどり着く前に少しだけ危機感を持ってもらうことにした。周囲を確認してケイトの腕を引いて、建物の死角にある壁に押し付ける。
驚いたように目を見開くケイトを見て少しだけ溜飲を下げる。男を簡単に信用しちゃ駄目だ、そう続けようとしたのにケイトはそっと瞳を閉じた。
「な、何してんだ、馬鹿!勘違いするぞ、それ」
「勘違いさせるようなことをしたのは、ギルが先じゃない」
(――お前は婚約者がいる身だろうが!)
「残念ね」
怒鳴りつけようとした途端にぽつりと呟くようなケイトの言葉に、思わず幻聴かと耳を疑った。そのまま立ち去ろうとするケイトを無理やり押しとどめた。
こんな乱暴なことをしてはいけないと冷静な自分が叫んでいるが、ケイトの言葉の意味を知りたかった。
「勘違いしていいのか?」
ケイトは無言のまま静かな瞳でギルバートを見ている。先ほどまでの酔いが回ったような表情とは一転して、ギルバートの心を見抜くような真っ直ぐな顔だった。
「俺は……ケイトのことが好きだ。お前が嫌がることはしたくないし、迷惑なら酔っ払いの戯言だとなかったことにしてくれていい」
「本当に鈍いわね」
そう言うとケイトはギルバートの首に手を回して、唇を重ねた。
窮屈なベッドの中でギルバートは好きな女の寝顔を見つめていた。
もう少し見ていたいが、そろそろ時間だ。
名残惜しい気持ちを抑えて肩を軽く揺すると、ヘーゼルの瞳がギルバートの姿を認めて柔らかに細められる。
衝動的に何度も口づけを交わしているとノックの音が聞こえた。
ザックが戻る前にケイトを部屋に戻そうと思っていたのにと焦るギルバートをよそに、ケイトは冷静に身だしなみを整えている。
「ザックよね?話したいことがあったからちょうど良かったわ」
貴族にとって婚前交渉は不名誉なことだったはずだが、ケイトが気にしていないならとドアを開けた。入ってきたザックは苦いものを飲み込んだような表情でケイトと俺を交互に視線を動かす。
ケイトはザックの正面に立つと信じられないことを言い出した。
「殴っていいわよ」
「ケイト?!」
「そんなことしたらギルに殺されるだろ。代わりにギルに殴られないよう庇ってくれよ?」
疲れた表情でザックは溜息をつく。
「一応、昨日成立したらしいから不貞行為には当たらない」
「思いの外早かったのね」
二人の会話についていけないものの、嫌な予感が膨らんでいく。
「ギル、ザック・ターナーは私の婚約者よ。もっとも昨日婚約破棄されたから、元だけど」
ザックとケイトは遠い親戚で幼少の頃から交流があった。代々近衛兵や文官を輩出している家系でありザックも近衛兵を目指して王都で学んでいた。そんな中ケイトが士官学校入りを望んだことから、抑止力としてザックと急遽婚約を結ぶことになった。
「結局何の抑制にもならず、おかげで俺も保護者として入学することになったんだ」
「近衛隊の訓練と学校の訓練は別物だから、ちょうど良かったじゃない」
「そこに俺の意思があればな」
わざとらしく顔を顰めるが、気安い雰囲気が伝わってきて本気で怒っているわけじゃないことが分かる。
「ふうん。……で、俺に黙ってた理由は?」
「ギルだけじゃなくて誰にも言ってないわよ?ザックとはいずれ婚約解消するつもりだったし特に不要じゃない」
あっけらかんとした様子のケイトを無視してザックに視線を向けると、気まずそうな顔をになる。
「だって言えるか?お前の好きな相手は自分の婚約者だって」
「分かってるけどムカつくんだよ!」
「ギル、話進まないからちょっと黙ってて?ザック、それで終わりじゃないでしょう?」
邪魔者扱いは地味に傷つく。そんなギルバートをよそに二人は話を進めていく。
「はい、一応絶縁状預かってきた。相続放棄とか一式あるがすぐに決断しなくていい。キャロも心配してた」
「あの子のことは貴方が支えてよ。元々妹の婚約者候補だったのに、私のせいで迷惑かけたわね」
「…ったく、簡単に言ってくれる。ギル、キャロ――キャロルはケイトの妹で淑やかな令嬢だ。俺はそっちのほうがタイプだから、ケイトは任せたぞ」
「言うわね?私もザックよりギルのほうがタイプだけど。だから機嫌直して?」
秘密にされていたこと自体は腹が立つが、ケイトの言葉に思わず顔がにやける。そんなギルバートを見てザックがちょっと引いていたようだが、気にしない。
「本当にいいのか?ザックとの婚約はともかく絶縁するってことはもう貴族には戻れないんだろう?」
二人きりになった室内でギルバートはケイトに尋ねた。貴族から平民になるのは通常罪を犯した場合か著しく家名を棄損した場合、そして当主から絶縁された場合だ。最後は滅多に起きないことから、平民になることは罪を犯したと認識されることが多い。
「貴族令嬢のままであれば戦場に出られないわ。それにギルともいられなくなるけどいいの?」
そんなのは嫌に決まっている。だけどケイトの将来を考えると貴族でいることは圧倒的に有利なことが多い。
「軍の上層部に平民出身はいないのだろう。お前は頭もいいし司令塔としても活躍できる。国を守りたいのなら上層部まで登りつめるべきだ」
ケイトは驚いたように目を丸くしている。
「ギル、覚えてたんだ…」
『生まれ育った国を守りたい』
世間知らずのお嬢様の言葉だと思っていた。だけどケイトが本心からそれを望んでいるのだということが共に過ごしてきた今なら分かる。
兵士として優秀であっても平民であれば上に行くのが難しい。上流階級の人間なら王都にある軍の作戦本部に配属されることも夢ではないのだ。
戦場に身を投じることで守れる命より、軍の方針を決定する本部のほうがより多くの命を守ることにも繋がる。その機会を逃してしまうことをケイトに後悔してほしくない。
抱き着いてきたケイトを、強く抱きしめ返しながら髪を撫でた。しばらく抱き合っていたが、ケイトは顔を上げて告げた。
「ギル、私は平民でもきっと司令官まで登りつめてみせるわ。それに今は国だけでなくギルも守りたいの。だから一緒に戦おう?」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべたケイトは女神のように綺麗だった。ケイトが望むならどこまでも一緒についていこう、そうギルバートは心に誓った。
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