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運命と約束
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(――お別れ……)
それがどういう意味なのか問いかけようにも声にならない。触れている部分は熱いほどなのに、身体が震えてしまいそうだ。
温もりが離れたかと思うと馬から飛び降りたメルヴィンが、陽香を抱え上げて地面に下ろす。
揺らぐことなく支えてくれているものの、夜闇の中でもはっきり分かるほどメルヴィンは苦痛を耐えるように眉を顰めている。
「取り押さえる時にナイフの破片が掠ってしまってな。ああ、そんな顔をするな。毒には耐性がある」
目の奥が熱くなり、強く奥歯を噛みしめる。嫌な想像ばかりが頭を巡るが、泣いている場合ではないのだ。
「この状態でルカを護り切れると過信するわけにはいかない。すぐにロジェが迎えに来るはずだから一緒に行ってくれ」
穏やかな声だがその眼差しは真剣で、反論を許さないほどの雰囲気に陽香は頷くことしか出来なかった。
毒に冒された身体でどうするつもりなのか。自分を安心させるための優しい嘘なのではないか。
訊ねたいことはたくさんあったが、口を開けばきっとメルヴィンを困らせてしまうだろう。
そんな陽香の頭を撫でながらメルヴィンは優しい声で告げるのだ。
「大丈夫だ。護ると約束しただろう?根源を断ってルカが安心して暮らせるようにするから心配しなくていい」
「旦那」
音もなく現れたロジェに身体を強張らせた陽香を安心させるように微笑むと、メルヴィンは陽香の背中を軽く押した。
「頼んだぞ」
それだけ言って背中を向けたメルヴィンに、本当に最後なのだと分かってしまう。引き留めることが出来ないのならせめて一言だけでも伝えたい言葉があった。
「メル、今までありがとう!……どうか、死なないで」
最後の言葉が届いたかどうか分からない。決して訪れてほしくない結末を口にすることでそれを引き寄せてしまうのではないかという恐怖と無事を願う祈りの気持ちが小さな音となって零れた。
「お嬢ちゃん、行くぞ。旦那の努力が無駄になる」
平坦なロジェの声が逆にありがたく、陽香は涙を乱暴に拭って頷いた。それが今の自分に出来る唯一のことだ。
(――行かないで、一人にしないで!)
胸が締め付けられるような痛みで目が覚めた。涙で濡れた目元は冷たくて、まだ泣いてしまうなんてと呆れながらも、夢の中で見た最後の光景を反芻してしまう。
あの日からもう一年が経とうとしていた。
「ルカ、もうここはいいから休憩に入って」
「……うん。じゃあちょっと出かけて来るね。エディットお母さん、何か要るものない?ついでに買ってくるよ」
ようやく新しい呼び方にも慣れてきた。町に来た当初は遠縁の娘だと周囲に話していたものの、家族のように親しくしていることから知らない人からは親子だと思われていたのだ。
『将来のことを考えれば親代わりよりも親子であるほうが何かと都合がいいことも多いと思うが、ルカはどう思う?』
二か月ほど前に深刻な面持ちでジェイから切り出された時、躊躇いを覚えなかったと言えば嘘になる。
異なる世界とはいえ、陽香の両親は今も健在のはずだからだ。
だが将来この町を出ていくことになった場合、陽香の身元を保証するものは何もない。ジェイとエディットの養子となれば、陽香は二人の子供として公的に登録される。公的な身元証明書がなければ、働けない職場や居住できない街なども存在するため将来の選択肢が増えることにも繋がるのだ。
二人の配慮に感謝して陽香はその提案を受け入れた。呼び方だけは少し変えさせてもらったが、この世界で親身になって世話をしてくれたエディットとジェイを父母と呼ぶことはくすぐったさよりも嬉しさが勝った。
(気を遣わせちゃったな……)
昨日、常連客が持ってきた新聞の内容をうっかり見てしまった陽香は、自分でも驚くほどに動揺してしまったのだ。ジェイがひったくるように新聞を奪い、エディットが強引に陽香を休ませるのを見て二人が知っていてひた隠しにしていたと気づいた。
『購買意欲を誘うために嘘や誇張なんかを並べ立てるのはよくあることよ。あんなことロジェからも聞いていないんだから気にしちゃ駄目だからね』
陽香を送り届けてくれたロジェはジェイに頭が上がらないらしく、メルヴィンとアンリの情報を一ヶ月半から二ヶ月に一度の割合で届けてくれている。
過去に何があったかは知らないが、そんな経緯もあってメルヴィンはロジェに陽香を託したらしい。
おかげで陽香はメルヴィンが無事であることを確認できたし、三ヶ月前に王妃が生涯幽閉されることも事前に知ることが出来た。
約束を果たしてくれたのだと知って涙が止まらなくなった陽香だったが、後からやってきたジェイが勘違いしてロジェに殴りかかる騒ぎになったのも良い思い出だ。
事あるごとに叱られながらも、そんな時のロジェはどこか嬉しそうでまるで兄弟のようだ。
花屋の店先にある可憐なプリムラに惹かれて近づくと、側に置かれた新聞紙の見出しが目に飛び込んできた。
『アデール公爵令息とカドール王国の姫、婚約間近か?!』
苦い思いが込み上げて、陽香は目を逸らして足早にその場から立ち去った。昨晩、メルヴィンの夢を見たのは恐らくこの記事の所為だ。
公園のベンチに座り、溜息を漏らした。このまま帰れば感情に聡いエディットには気づかれてしまうだろう。
(離れてから自覚するなんて、馬鹿だよね……)
元よりずっと一緒にいられるはずがない。公爵令息としての身分を持ち、アンリにとっても信頼できる有能な護衛なのだ。
誰よりも優しくて責任感の強い人だから好きになった。
(でも、だからこそこれで良かったんだ)
陽香が好意を口にすれば、メルヴィンを困らせてしまっただろう。
側にいて欲しかった。好きだって言いたかった。一緒に生きて欲しかった。
もしかしたら陽香の我儘を叶えるために、メルヴィンは我慢してくれたかもしれない。だけどそんなのはお互いにとって良くない結果しか生まないのだ。
元気でいるならそれでいい、そう思っていたのにあの記事を目にして込み上げてきたのは負の感情だった。
(幸せになれと言ったのに……)
「……1人で幸せになんかなれないよ」
会いたい、寂しい。苦しいばかりなのに手放したくないこの感情をどうすればいいのだろう。いくら考えても答え何て出なかった。
「どの面下げてやってきたんだ!とっとと帰れ!」
店に戻ると外まで聞こえるほどの大声でジェイが怒鳴りつけている。またロジェが何かやらかしたのだろうと苦笑しながら陽香はドアを開けた。
「ただいま。もうジェイお父さん、外まで聞こえ……」
「ルカ」
言葉を失い固まってしまった陽香に柔らかな声が届いた瞬間、陽香は全力でその場から逃げ出してしまった。
(何で?何で、今更会いに来るの?!)
脅威が去ったと知ってから陽香はメルヴィンが会いに来てくれるかもしれないという希望を持っていた。一ヶ月、二ヶ月と時間が経ち、新聞記事を見て、陽香はようやく自分の思い上がりに気づいたのだ。
護衛対象でしかない相手に公爵家の貴族がわざわざ会いに来るはずがない。
(……でも、会いに来てくれた?いや、それよりも姿を見て逃げ出すなんて命の恩人に対してあまりにも失礼なんじゃ……)
少しずつ冷静な思考が戻ってくると、自分の行動が間違っているような気がしてくる。そんな風に考え事に気を取られていた陽香は足を縺れさせてしまった。
(っ、転ぶ!)
思わず目を閉じたが、ぐいっと引っ張り上げられる感覚と懐かしい声が耳元に響いた。
「ルカ!……大丈夫か?」
「………うん、ありがと」
少しぶっきらぼうな言い方になったものの、声が出せる程度には何とか落ち着いたようだ。改めて向き合ったメルヴィンに、陽香は込み上げる感情を抑えながら笑顔を作った。
「久しぶり、だね」
少し話がしたいと言われて先ほどまで留まっていた公園へと誘った。
「急に訊ねて悪かった。驚かせたよな?」
「うん、何かびっくりして……ごめんね。メルのおかげで幸せに暮らせているよ。ほんとにありがとう」
低く穏やかなメルヴィンの声とは裏腹に陽香は感情が高ぶらないよう必死だった。いい加減諦めなければいけないのだから良い機会ではないか、と自分に言い聞かせる。
「ハルカが幸せなら俺が会いに行ってはいけないと思っていたんだ。だけどアンリからも再三言われてようやく決心がついた。いい加減区切りをつけなくてはと」
陽香の心臓がどくんと跳ねた。もしかして陽香の気持ちに気づいていたのだろうか。何もなかったとはいえ、他国の姫を迎えるのであれば婚約前に異性関係をすっきりさせておきたいと思っても不思議ではない。
「そういえば、婚約するんだって?おめでとう!」
切り出される言葉が怖くて、陽香は先手を打つことにした。きちんと笑えているだろうか。そんな不安を誤魔化すようにはしゃいだような声を上げながら、早くこの場を離れなくてはと考える。
「わざわざ報告に来てくれなくても良かったのに。もう専属騎士じゃないんだから、気にしなくていいよ。幸せになってね」
(泣くな、泣くな、泣くな!)
泣いたらきっと止まらない。みっともなく縋る自分が容易に想像できるし、何よりもメルヴィンに幻滅されたくないのだ。
「婚約するのは俺の弟だ。どうしても諦められない人がいるから会いに来たんだ。ハルカ、俺に想いを伝える許可をくれないか?」
都合の良い夢だろうかと心の中で期待と不安がせめぎ合っている。だがメルヴィンが陽香の手を取り、じっと熱のこもった眼差しを向けている。許可を待っているのだと遅れて気づき、陽香は無言で頷いた。
「ハルカ。これからはずっと一緒にいるし一生護ると誓うから、俺の妻になってほしい。どうしようもなく愛しているんだ」
言いたいことはたくさんあったのにどれも言葉にならない。陽香は何で自分が泣いているのかも分からないまま、メルヴィンに抱き着いた。
そんな陽香をメルヴィンは何も言わずにただ抱きしめ返してくれた。
「……何で会いに来てくれなかったの?」
ようやく泣き止んだ陽香の最初の一言は、自分でも可愛げのないものだと思えるものだった。だけど時間が経つとともに嬉しさの中に不安が混じるのを抑えきれなかったのだ。
「穏やかに暮らすハルカの生活を壊したくなかったし、俺にハルカを幸せにする資格があるとは思えなかったんだ」
神妙な顔で答えるメルヴィンに心が温かくなると同時に、メルヴィンらしい回答だと思う。
「運命の相手じゃなくても……?」
そう訊ねる陽香にメルヴィンは口元を綻ばせた。
「ハルカの運命は俺なんだろう?だったら俺の運命はハルカしかいない」
かつてアンリへの当てつけとして発した言葉をメルヴィンがなぞる。違うのはメルヴィンの眼差しには愛しさが滲んでいることだ。
「運命であってもなくても、私はメルが大好きだよ」
その言葉に答えるように優しく唇が重なった。
運命なんて言葉は大嫌いだった。だが巡り合わせの中で足掻き、その結果選んだものであれば、運命を切り開いたことにはならないだろうか。
そんなことを考えながらも、陽香の思考は瞬く間に大切な人への愛しさと幸福感で満たされていったのだった。
それがどういう意味なのか問いかけようにも声にならない。触れている部分は熱いほどなのに、身体が震えてしまいそうだ。
温もりが離れたかと思うと馬から飛び降りたメルヴィンが、陽香を抱え上げて地面に下ろす。
揺らぐことなく支えてくれているものの、夜闇の中でもはっきり分かるほどメルヴィンは苦痛を耐えるように眉を顰めている。
「取り押さえる時にナイフの破片が掠ってしまってな。ああ、そんな顔をするな。毒には耐性がある」
目の奥が熱くなり、強く奥歯を噛みしめる。嫌な想像ばかりが頭を巡るが、泣いている場合ではないのだ。
「この状態でルカを護り切れると過信するわけにはいかない。すぐにロジェが迎えに来るはずだから一緒に行ってくれ」
穏やかな声だがその眼差しは真剣で、反論を許さないほどの雰囲気に陽香は頷くことしか出来なかった。
毒に冒された身体でどうするつもりなのか。自分を安心させるための優しい嘘なのではないか。
訊ねたいことはたくさんあったが、口を開けばきっとメルヴィンを困らせてしまうだろう。
そんな陽香の頭を撫でながらメルヴィンは優しい声で告げるのだ。
「大丈夫だ。護ると約束しただろう?根源を断ってルカが安心して暮らせるようにするから心配しなくていい」
「旦那」
音もなく現れたロジェに身体を強張らせた陽香を安心させるように微笑むと、メルヴィンは陽香の背中を軽く押した。
「頼んだぞ」
それだけ言って背中を向けたメルヴィンに、本当に最後なのだと分かってしまう。引き留めることが出来ないのならせめて一言だけでも伝えたい言葉があった。
「メル、今までありがとう!……どうか、死なないで」
最後の言葉が届いたかどうか分からない。決して訪れてほしくない結末を口にすることでそれを引き寄せてしまうのではないかという恐怖と無事を願う祈りの気持ちが小さな音となって零れた。
「お嬢ちゃん、行くぞ。旦那の努力が無駄になる」
平坦なロジェの声が逆にありがたく、陽香は涙を乱暴に拭って頷いた。それが今の自分に出来る唯一のことだ。
(――行かないで、一人にしないで!)
胸が締め付けられるような痛みで目が覚めた。涙で濡れた目元は冷たくて、まだ泣いてしまうなんてと呆れながらも、夢の中で見た最後の光景を反芻してしまう。
あの日からもう一年が経とうとしていた。
「ルカ、もうここはいいから休憩に入って」
「……うん。じゃあちょっと出かけて来るね。エディットお母さん、何か要るものない?ついでに買ってくるよ」
ようやく新しい呼び方にも慣れてきた。町に来た当初は遠縁の娘だと周囲に話していたものの、家族のように親しくしていることから知らない人からは親子だと思われていたのだ。
『将来のことを考えれば親代わりよりも親子であるほうが何かと都合がいいことも多いと思うが、ルカはどう思う?』
二か月ほど前に深刻な面持ちでジェイから切り出された時、躊躇いを覚えなかったと言えば嘘になる。
異なる世界とはいえ、陽香の両親は今も健在のはずだからだ。
だが将来この町を出ていくことになった場合、陽香の身元を保証するものは何もない。ジェイとエディットの養子となれば、陽香は二人の子供として公的に登録される。公的な身元証明書がなければ、働けない職場や居住できない街なども存在するため将来の選択肢が増えることにも繋がるのだ。
二人の配慮に感謝して陽香はその提案を受け入れた。呼び方だけは少し変えさせてもらったが、この世界で親身になって世話をしてくれたエディットとジェイを父母と呼ぶことはくすぐったさよりも嬉しさが勝った。
(気を遣わせちゃったな……)
昨日、常連客が持ってきた新聞の内容をうっかり見てしまった陽香は、自分でも驚くほどに動揺してしまったのだ。ジェイがひったくるように新聞を奪い、エディットが強引に陽香を休ませるのを見て二人が知っていてひた隠しにしていたと気づいた。
『購買意欲を誘うために嘘や誇張なんかを並べ立てるのはよくあることよ。あんなことロジェからも聞いていないんだから気にしちゃ駄目だからね』
陽香を送り届けてくれたロジェはジェイに頭が上がらないらしく、メルヴィンとアンリの情報を一ヶ月半から二ヶ月に一度の割合で届けてくれている。
過去に何があったかは知らないが、そんな経緯もあってメルヴィンはロジェに陽香を託したらしい。
おかげで陽香はメルヴィンが無事であることを確認できたし、三ヶ月前に王妃が生涯幽閉されることも事前に知ることが出来た。
約束を果たしてくれたのだと知って涙が止まらなくなった陽香だったが、後からやってきたジェイが勘違いしてロジェに殴りかかる騒ぎになったのも良い思い出だ。
事あるごとに叱られながらも、そんな時のロジェはどこか嬉しそうでまるで兄弟のようだ。
花屋の店先にある可憐なプリムラに惹かれて近づくと、側に置かれた新聞紙の見出しが目に飛び込んできた。
『アデール公爵令息とカドール王国の姫、婚約間近か?!』
苦い思いが込み上げて、陽香は目を逸らして足早にその場から立ち去った。昨晩、メルヴィンの夢を見たのは恐らくこの記事の所為だ。
公園のベンチに座り、溜息を漏らした。このまま帰れば感情に聡いエディットには気づかれてしまうだろう。
(離れてから自覚するなんて、馬鹿だよね……)
元よりずっと一緒にいられるはずがない。公爵令息としての身分を持ち、アンリにとっても信頼できる有能な護衛なのだ。
誰よりも優しくて責任感の強い人だから好きになった。
(でも、だからこそこれで良かったんだ)
陽香が好意を口にすれば、メルヴィンを困らせてしまっただろう。
側にいて欲しかった。好きだって言いたかった。一緒に生きて欲しかった。
もしかしたら陽香の我儘を叶えるために、メルヴィンは我慢してくれたかもしれない。だけどそんなのはお互いにとって良くない結果しか生まないのだ。
元気でいるならそれでいい、そう思っていたのにあの記事を目にして込み上げてきたのは負の感情だった。
(幸せになれと言ったのに……)
「……1人で幸せになんかなれないよ」
会いたい、寂しい。苦しいばかりなのに手放したくないこの感情をどうすればいいのだろう。いくら考えても答え何て出なかった。
「どの面下げてやってきたんだ!とっとと帰れ!」
店に戻ると外まで聞こえるほどの大声でジェイが怒鳴りつけている。またロジェが何かやらかしたのだろうと苦笑しながら陽香はドアを開けた。
「ただいま。もうジェイお父さん、外まで聞こえ……」
「ルカ」
言葉を失い固まってしまった陽香に柔らかな声が届いた瞬間、陽香は全力でその場から逃げ出してしまった。
(何で?何で、今更会いに来るの?!)
脅威が去ったと知ってから陽香はメルヴィンが会いに来てくれるかもしれないという希望を持っていた。一ヶ月、二ヶ月と時間が経ち、新聞記事を見て、陽香はようやく自分の思い上がりに気づいたのだ。
護衛対象でしかない相手に公爵家の貴族がわざわざ会いに来るはずがない。
(……でも、会いに来てくれた?いや、それよりも姿を見て逃げ出すなんて命の恩人に対してあまりにも失礼なんじゃ……)
少しずつ冷静な思考が戻ってくると、自分の行動が間違っているような気がしてくる。そんな風に考え事に気を取られていた陽香は足を縺れさせてしまった。
(っ、転ぶ!)
思わず目を閉じたが、ぐいっと引っ張り上げられる感覚と懐かしい声が耳元に響いた。
「ルカ!……大丈夫か?」
「………うん、ありがと」
少しぶっきらぼうな言い方になったものの、声が出せる程度には何とか落ち着いたようだ。改めて向き合ったメルヴィンに、陽香は込み上げる感情を抑えながら笑顔を作った。
「久しぶり、だね」
少し話がしたいと言われて先ほどまで留まっていた公園へと誘った。
「急に訊ねて悪かった。驚かせたよな?」
「うん、何かびっくりして……ごめんね。メルのおかげで幸せに暮らせているよ。ほんとにありがとう」
低く穏やかなメルヴィンの声とは裏腹に陽香は感情が高ぶらないよう必死だった。いい加減諦めなければいけないのだから良い機会ではないか、と自分に言い聞かせる。
「ハルカが幸せなら俺が会いに行ってはいけないと思っていたんだ。だけどアンリからも再三言われてようやく決心がついた。いい加減区切りをつけなくてはと」
陽香の心臓がどくんと跳ねた。もしかして陽香の気持ちに気づいていたのだろうか。何もなかったとはいえ、他国の姫を迎えるのであれば婚約前に異性関係をすっきりさせておきたいと思っても不思議ではない。
「そういえば、婚約するんだって?おめでとう!」
切り出される言葉が怖くて、陽香は先手を打つことにした。きちんと笑えているだろうか。そんな不安を誤魔化すようにはしゃいだような声を上げながら、早くこの場を離れなくてはと考える。
「わざわざ報告に来てくれなくても良かったのに。もう専属騎士じゃないんだから、気にしなくていいよ。幸せになってね」
(泣くな、泣くな、泣くな!)
泣いたらきっと止まらない。みっともなく縋る自分が容易に想像できるし、何よりもメルヴィンに幻滅されたくないのだ。
「婚約するのは俺の弟だ。どうしても諦められない人がいるから会いに来たんだ。ハルカ、俺に想いを伝える許可をくれないか?」
都合の良い夢だろうかと心の中で期待と不安がせめぎ合っている。だがメルヴィンが陽香の手を取り、じっと熱のこもった眼差しを向けている。許可を待っているのだと遅れて気づき、陽香は無言で頷いた。
「ハルカ。これからはずっと一緒にいるし一生護ると誓うから、俺の妻になってほしい。どうしようもなく愛しているんだ」
言いたいことはたくさんあったのにどれも言葉にならない。陽香は何で自分が泣いているのかも分からないまま、メルヴィンに抱き着いた。
そんな陽香をメルヴィンは何も言わずにただ抱きしめ返してくれた。
「……何で会いに来てくれなかったの?」
ようやく泣き止んだ陽香の最初の一言は、自分でも可愛げのないものだと思えるものだった。だけど時間が経つとともに嬉しさの中に不安が混じるのを抑えきれなかったのだ。
「穏やかに暮らすハルカの生活を壊したくなかったし、俺にハルカを幸せにする資格があるとは思えなかったんだ」
神妙な顔で答えるメルヴィンに心が温かくなると同時に、メルヴィンらしい回答だと思う。
「運命の相手じゃなくても……?」
そう訊ねる陽香にメルヴィンは口元を綻ばせた。
「ハルカの運命は俺なんだろう?だったら俺の運命はハルカしかいない」
かつてアンリへの当てつけとして発した言葉をメルヴィンがなぞる。違うのはメルヴィンの眼差しには愛しさが滲んでいることだ。
「運命であってもなくても、私はメルが大好きだよ」
その言葉に答えるように優しく唇が重なった。
運命なんて言葉は大嫌いだった。だが巡り合わせの中で足掻き、その結果選んだものであれば、運命を切り開いたことにはならないだろうか。
そんなことを考えながらも、陽香の思考は瞬く間に大切な人への愛しさと幸福感で満たされていったのだった。
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mintさん
感想ありがとうございます!
二人のその後もいつか書ければと思います😊
猫3号さん
感想ありがとうございます!
アンリについては番外編を書く予定ですのでお楽しみに😊
猫3号さん
誤字報告ありがとうございます😊