上 下
38 / 45

思慕

しおりを挟む
「騎士団長に至急執務室に来るよう伝えてくれ。それから今日の予定は全てキャンセルだ」

侍従のトマスにそう伝えれば、一瞬だけ顔を顰められたもののすぐに部屋から出て行った。王妃の推挙により侍従となったトマスは、信用できないものの優秀な男である。ある程度情報が漏れることも今では受け入れていた。

小さく息を吐きつつ、引き出しから用紙を取り出し必要な情報を書き連ねていく。肩が重く疲労感を覚えるものの、休んでいる暇はない。
会議には王妃派も参加しており、今回の件は既に王妃の耳に入っていると考えた方が良いだろう。

(母上は恐らく関わっていないと思うが、余計な手を打たれる前に動かねばならない)

そう思うのはハルカがアンリの弱点となり得るからだ。息子を便利な駒として使うために有用なハルカを母上が排除する理由がないが、それに乗じて自身の利のために動かれないよう、また狂言であることが気づかれないように慎重な対応が必要となる。

執務室にペンの音がやけに大きく響くようで、その理由をアンリは頭から追い払おうとするが、なかなかうまくいかない。
ハルカから話を聞いてからずっと覚悟はしていたのに、ハルカの不在を実感するたびに胸が締め付けられるような苦しさがあった。

大切で愛しくて幸せになって欲しいと思うのに、どうしようもく寂しい。

「殿下、よろしければこちらをどうぞ」

それでも手を動かしていると、アッシュがミルク入りの紅茶を机の上に置いた。普段はそのままで飲むことが多いが、疲れている時や気分が落ち込んでいる時にはメルヴィンが用意してくれたものだ。

「隊長から教わりましたが、作るのは初めてです。……お口にあうと良いのですが」

伯爵家の次男であるアッシュは自分で紅茶を淹れたことなどないのだろう。緊張した面持ちのアッシュを見て、アンリは紅茶を手に取った。
一口飲むと温かい液体が喉を滑り落ちて、ようやく人心地がついた気がする。

感謝の気持ちを伝えようとしたものの、口から出たのは別の言葉だった。

「……私の騎士を辞めたければ言ってくれ。どこであれ推薦状は書くし、騎士団であれば今なら何かと話を付けやすい」

今回の外出にアッシュを連れてはいなかったが、他の騎士たちから事情は聞いているだろう。隊長であるメルヴィンは部下からの人望も厚く、憧れている者は多い。今回のアンリの処断に不満を抱えている者も少なくないはずだ。

「殿下のご判断に従いますが、私はメルヴィン隊長ではなく殿下にお仕えしております。私は貴方のために剣を振るいたく思います」

淡々とした口調だが真剣な表情に、アンリは自分の言動を恥じた。仕えてくれている騎士を信用してないと暗に告げているようなものだ。

「すまない。不適切な発言だったな。これからも頼りにしている」
「勿体ないお言葉です。もう一つお伝えさせていただけるのであれば、部屋の外に控えている男も殿下を案じております」

アンリの脳裏にはジェレミーの姿が思い浮かんだ。移動中もずっと心配そうな表情で気遣うような眼差しを向けていた。
だがメルヴィンを尊敬していたジェレミーこそアンリに失望してしまった一人ではないだろうか。

「アレは少々考えが足りませんが、実直な男です」

そんなアンリの内心を察したのか、アッシュは先刻の出来事を語り始めた。


アンリの襲撃とハルカの暗殺について、戻ってきた護衛から知らされたアッシュは言葉を失った。さらにメルヴィンがその責任を問われ追放されたと聞いて、アッシュはすぐさまアンリの下へと向かった。
城内とはいえ襲撃されたばかりなのだ。誰の仕業かは分からないが、メルヴィンが不在ならば相手が絶好の機会と捉えてもおかしくはない。

逸る気持ちを抑えながら駆けつけたものの、アンリは国王に談判中で扉の前に立っている訳にもいかず、近くで控えていようと引き返したところで何やら言い争うような声が聞こえてきた。

「あれは隊長のせいじゃないだろう!全員でご進言すれば殿下だって考え直してくださるはずなのに、どうして邪魔をするんだよ!」
「殿下が決められたことに護衛騎士である俺たちが異を唱えるのが正しいことなのか?」

(人気がないとはものの、誰が通るとも分からない場所で諍いを起こすなど……)

そんな愚かな行為をしでかしているのが自分の属する部隊であることに、アッシュは嘆息を漏らした。

「お前は隊長にあんなに目を掛けてもらったのに、この薄情者が!」
「隊長はそんなことを望んでいない。殿下のことを気に掛けて俺たちに託されたんだ」

言い争っているのはジェレミーとデニスだが、その周囲にいる騎士たちもデニスの肩を持っているようだ。

「だがそんな隊長を殿下は切り捨てたんだぞ!長年殿下のために尽くしてきたというのに、あんな方だとは思わなかった」

デニスの発言にジェレミーが顔色を変えた。眉を下げてデニスを宥めようとしていたのに、鋭い眼差しで睨んでいる。

「隊長とアンリ殿下の事情に外野が好き勝手言うなよ!大体アンリ殿下がどれだけハルカ様のことを想っていらしたか知らないわけではないだろう。大切な人を目の前で亡くしたアンリ殿下の気持ちを考えたか?護り切れなかった責任は隊長だけじゃない。俺たちを咎めない殿下をお前たちは責め立てようとしているんだぞ?!」

押し殺した声には悔しさと怒りが滲んでいて、デニスたちは怯んだように息を呑んだ。そろそろ頃合いだと見て取ったアッシュがわざと足音を立てて近づいていく。

「確かにこんなところで囀っている暇があったら、研鑽を積んだ方が余程有益だな」

気まずそうに目を伏せる者、悔いるように肩を落とす者、一様に先ほどまでの苛立ちは収まったようで微妙な空気が漂っている。

「騎士の本分を忘れるなよ。不満がある者は副隊長に申し出るんだな」

そんな人間に殿下の護衛を任せるわけにはいかない。そうしてアッシュはジェレミーとともにその場を後にしたのだった。


「全員が納得しているわけではないでしょう。ですが、殿下に忠誠を誓い騎士としての役目を全うしようとする者も存在していることを、どうかお心に留めておいてください」
「……ああ、ありがとう」

話し終えたアッシュに、アンリはそう返すのが精一杯だった。いつも側にいて護り続けてくれたメルヴィンをあんな風に責め立てれば、騎士たちからの失望や不信感は仕方がないと諦めていたのだ。
それがまさかアンリの心情を慮ってくれるとは思いもよらず、その気遣いが心にしみる。

『あの日の殿下に恥じない行動を取りたいと思っているだけですわ』

そう微笑んだジゼルの表情と、あの日の光景が脳裏に浮かぶ。

ぎこちない所作から周囲に委縮し怯えている様子が伝わってきて、まるで自分を見ているようだと思った。
身体をふらつかせた時に咄嗟に動いてしまったのは、そんな風に考えていたからかもしれない。青ざめ不安を宿した瞳のジゼルを悪意に晒すのは忍びなく、その場から連れ出したのだ。

母上からの言いつけを破ることに躊躇いがなかったわけではないが、ほっとした様子で小さくお礼を告げた少女を見て、自分の行動を誇らしく思えた。少女が傷つかなくて良かったと安堵したことが、まだ自分が空っぽの人形でないと実感できたことが嬉しかったのだ。

(あの日の私の行動は無駄ではなかったのだな……)

胸の中の空虚さが少し和らいだような気がした。ジゼルの保護を考えながら、アンリは気分を切り替えて必要な書類へとペンを走らせたのだった。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?

恋愛
少しネガティブな天然鈍感辺境伯令嬢と目つきが悪く恋愛に関してはポンコツコミュ障公爵令息のコミュニケーションエラー必至の爆笑(?)すれ違いラブコメ! ランツベルク辺境伯令嬢ローザリンデは優秀な兄弟姉妹に囲まれて少し自信を持てずにいた。そんなローザリンデを夜会でエスコートしたいと申し出たのはオルデンブルク公爵令息ルートヴィヒ。そして複数回のエスコートを経て、ルートヴィヒとの結婚が決まるローザリンデ。しかし、ルートヴィヒには身分違いだが恋仲の女性がいる噂をローザリンデは知っていた。 エーベルシュタイン女男爵であるハイデマリー。彼女こそ、ルートヴィヒの恋人である。しかし上級貴族と下級貴族の結婚は許されていない上、ハイデマリーは既婚者である。 ローザリンデは自分がお飾りの妻だと理解した。その上でルートヴィヒとの結婚を受け入れる。ランツベルク家としても、筆頭公爵家であるオルデンブルク家と繋がりを持てることは有益なのだ。 しかし結婚後、ルートヴィヒの様子が明らかにおかしい。ローザリンデはルートヴィヒからお菓子、花、アクセサリー、更にはドレスまでことあるごとにプレゼントされる。プレゼントの量はどんどん増える。流石にこれはおかしいと思ったローザリンデはある日の夜会で聞いてみる。 「つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?」 するとルートヴィヒからは予想外の返事があった。 小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

愛なんてどこにもないと知っている

紫楼
恋愛
 私は親の選んだ相手と政略結婚をさせられた。  相手には長年の恋人がいて婚約時から全てを諦め、貴族の娘として割り切った。  白い結婚でも社交界でどんなに噂されてもどうでも良い。  結局は追い出されて、家に帰された。  両親には叱られ、兄にはため息を吐かれる。  一年もしないうちに再婚を命じられた。  彼は兄の親友で、兄が私の初恋だと勘違いした人。  私は何も期待できないことを知っている。  彼は私を愛さない。 主人公以外が愛や恋に迷走して暴走しているので、主人公は最後の方しか、トキメキがないです。  作者の脳内の世界観なので現実世界の法律や常識とは重ねないでお読むください。  誤字脱字は多いと思われますので、先にごめんなさい。 他サイトにも載せています。

愛など初めからありませんが。

ましろ
恋愛
お金で売られるように嫁がされた。 お相手はバツイチ子持ちの伯爵32歳。 「君は子供の面倒だけ見てくれればいい」 「要するに貴方様は幸せ家族の演技をしろと仰るのですよね?ですが、子供達にその様な演技力はありますでしょうか?」 「……何を言っている?」 仕事一筋の鈍感不器用夫に嫁いだミッシェルの未来はいかに? ✻基本ゆるふわ設定。箸休め程度に楽しんでいただけると幸いです。

絶望?いえいえ、余裕です! 10年にも及ぶ婚約を解消されても化物令嬢はモフモフに夢中ですので

ハートリオ
恋愛
伯爵令嬢ステラは6才の時に隣国の公爵令息ディングに見初められて婚約し、10才から婚約者ディングの公爵邸の別邸で暮らしていた。 しかし、ステラを呼び寄せてすぐにディングは婚約を後悔し、ステラを放置する事となる。 異様な姿で異臭を放つ『化物令嬢』となったステラを嫌った為だ。 異国の公爵邸の別邸で一人放置される事となった10才の少女ステラだが。 公爵邸別邸は森の中にあり、その森には白いモフモフがいたので。 『ツン』だけど優しい白クマさんがいたので耐えられた。 更にある事件をきっかけに自分を取り戻した後は、ディングの執事カロンと共に公爵家の仕事をこなすなどして暮らして来た。 だがステラが16才、王立高等学校卒業一ヶ月前にとうとう婚約解消され、ステラは公爵邸を出て行く。 ステラを厄介払い出来たはずの公爵令息ディングはなぜかモヤモヤする。 モヤモヤの理由が分からないまま、ステラが出て行った後の公爵邸では次々と不具合が起こり始めて―― 奇跡的に出会い、優しい時を過ごして愛を育んだ一人と一頭(?)の愛の物語です。 異世界、魔法のある世界です。 色々ゆるゆるです。

取り巻き令嬢Aは覚醒いたしましたので

モンドール
恋愛
揶揄うような微笑みで少女を見つめる貴公子。それに向き合うのは、可憐さの中に少々気の強さを秘めた美少女。 貴公子の周りに集う取り巻きの令嬢たち。 ──まるでロマンス小説のワンシーンのようだわ。 ……え、もしかして、わたくしはかませ犬にもなれない取り巻き!? 公爵令嬢アリシアは、初恋の人の取り巻きA卒業を決意した。 (『小説家になろう』にも同一名義で投稿しています。)

殿下が恋をしたいと言うのでさせてみる事にしました。婚約者候補からは外れますね

さこの
恋愛
恋がしたい。 ウィルフレッド殿下が言った… それではどうぞ、美しい恋をしてください。 婚約者候補から外れるようにと同じく婚約者候補のマドレーヌ様が話をつけてくださりました! 話の視点が回毎に変わることがあります。 緩い設定です。二十話程です。 本編+番外編の別視点

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

このたび、あこがれ騎士さまの妻になりました。

若松だんご
恋愛
 「リリー。アナタ、結婚なさい」  それは、ある日突然、おつかえする王妃さまからくだされた命令。  まるで、「そこの髪飾りと取って」とか、「窓を開けてちょうだい」みたいなノリで発せられた。  お相手は、王妃さまのかつての乳兄弟で護衛騎士、エディル・ロードリックさま。  わたしのあこがれの騎士さま。  だけど、ちょっと待って!! 結婚だなんて、いくらなんでもそれはイキナリすぎるっ!!  「アナタたちならお似合いだと思うんだけど?」  そう思うのは、王妃さまだけですよ、絶対。  「試しに、二人で暮らしなさい。これは命令です」  なーんて、王妃さまの命令で、エディルさまの妻(仮)になったわたし。  あこがれの騎士さまと一つ屋根の下だなんてっ!!  わたし、どうなっちゃうのっ!? 妻(仮)ライフ、ドキドキしすぎで心臓がもたないっ!!

処理中です...