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ベゴニア
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黒い髪に差した薄紅色の花が揺れる。
もうこの記憶だけで十分だ。
ベゴニアの花言葉は、片思い、愛の告白、そして幸せな日々。
ハルカに花の名前を教えなかったのは、花に込められた意味を自分の中だけに留めておきたいと思ったからだ。
ハルカへの想いは苦しくもあるが、この数日はアンリにとって何物にも代えがたい幸せな日々だった。
襲撃未遂の一報を聞いた時、呼吸が止まるかと思った。ハルカが無事だと聞かされても、実際にこの目で見るまでは安心できない。すぐに駆けつけたかったが、護るべき対象が増えれば余計に危険に晒しかねないと堪えたが、不安で何も手につかなかった。
ようやく戻ってきたハルカを見て苛立ちが抑えきれずにメルヴィンを責めてしまったのは、ただの八つ当たりであり、鬱憤を抑えきれなかったせいだ。アンリが側にいたからといってハルカが怪我をしなかったわけではないだろう。
どんなに万難を排しても完全にも護り切ることは難しいと護られる立場であるアンリも重々承知している。
それなのに真摯に頭を下げるメルヴィンの態度に劣等感が頭をもたげる。
優秀で何事も卒なくこなし、今もなお王太子にと望む者も多い。それでもメルヴィンはアンリのために公爵家の跡取りも辞退し、王家の剣であることに徹している。
そんな従兄に八つ当たりや嫉妬をしているのだから、自分が下劣な人間になったような気がしてならない。
そんな苦い思いを噛みしめながらメルヴィンの謝罪を聞いていたのに、彼の取った行動に唖然とすることになった。
(……どうして一瞥もせずにハルカの様子に気づくんだ?!)
あまりにも自然にハルカに注意を促し、メルヴィンは真剣な表情で傷口を確認しているのだ。
そんな疑問を抱いていると、ハルカが目を伏せて謝罪の言葉を口にしたことで気づいた。
メルヴィンへの叱責がハルカに罪悪感を抱かせ、メルヴィンはそんなハルカがどういう行動に出るのか理解していたのだろう。
自分の過ちに気づき謝ったが、ハルカはアンリに対して心配を掛けたことを詫びたことで更に驚くことになった。ハルカの雰囲気から刺々しさが薄れて、伏せた瞳は不安を映すかのように僅かに揺れている。
(これが本当のハルカなんだ……)
アンリが召喚する前の、本来の彼女に触れた気がした。
虚勢を張り続けた彼女の悲痛な叫びは、しっかりと耳に焼き付いている。
大切だからと距離を置いたのは果たして本当にハルカのためだったのか。
何を言われてもその苦痛に寄り添ったメルヴィンに対して、自分はただ逃げていただけではないだろうか。
惑うばかりで足踏みをしていた自分と、それでも手を伸ばし続けたメルヴィン。どちらが彼女の心に寄り添い、理解していたのかは明白だ。
ハルカを護りたいのに傷付けてばかりいることへの無能感もさることながら、押し寄せてきた後悔と罪悪感に目を背けたくなるのを堪える。
今更だと思いながらも、それでも何か彼女のために行動をせずにはいられない。
半ば強引に専属侍従になることを告げて側に留まれば、ハルカは困惑しながらも受け入れてくれた。
決して許されたわけではない。だがハルカの変化はアンリへの態度へも表れていた。
どこか懐かしむような眼差しや零れた笑みは自分に向けられたものではないとすぐに気づいたが、それでも幸福感がじわりと滲む。
他愛のない会話、向かい合ってゲームに興じるその時間はとても穏やかで愛おしく感じられた。
(もう少し、もう少しだけ……)
職務の放棄もさることながら、ハルカと過ごすひと時が許されるのはそう長い時間ではない。
ずっとこうしていたいけど、それが叶わないことは分かっている。たとえアンリが王太子でなくなったとしても召喚した罪がなくなるわけではないのだ。
メルヴィンへの態度も何とかしなくてはと思ってはいるものの、幼稚な嫉妬心を知られたくないという思いも手伝って素直になれずにいた。
情けない本心にもかかわらず、否定することなく告げたハルカの言葉に心が軽くなる。阿ることのない率直な言葉が心地よい。
しかし謝ろうと思った矢先に届いた招待状にアンリは渋面を浮かべることになった。表向きは平穏そのものだが、元凶を取り除かなければハルカに不自由な生活を強いることになる。
食堂の夫婦を巻き込んだことを酷く気に病んでいるハルカをこれ以上苦しめたくはないと何とか茶会への参加を諦めさせようとしたのに、静かな口調のハルカの一言に何を言おうとしているのか分かってしまった。
「私はアンリの妃にはなれないよ」
(王太子は私でなくてもいい……)
そう言ってしまえたらどんなに楽だろう。だがそれをハルカにも誰にも告げるつもりはなかった。いつか終わってしまう時間だと覚悟していたのだと淡々と返す。
「親の罪を子供も負わなくてはいけないの?」
貴族なのだから個ではなく家単位での賞罰を与えるのは当たり前だと思っていた。
愚かな一人のせいで優秀な人材を失うことは確かに損失ではある。
それと同時に頭をよぎったのは両親のことだった。それぞれ優秀ではあるのに、自分の感情を優先し周囲を振り回す彼らの行動を止められない。そんな自分に不甲斐なさを感じていたが、果たしてそれはアンリの責任なのだろうか。
そして何故ジゼル嬢なのか、というメルヴィンの問いかけに対するハルカの答えはアンリの想像を超えていた。
「今まで会ったことがある人達の中では、彼女が一番アンリのことを考えていたから」
(それは……反則だろう!)
アンリの想いを逸らすためなら誰でもいいのだろうと思っていた。それなのに、ハルカはアンリのためにジゼルを推すのだと言う。
特別ではなく、彼女の生来の優しさからだと分かっているが、自分のためにと思ってくれたことがどれだけ嬉しいことだろう。
込み上げる喜びに涙が出そうになって、顔を手で覆う。
ようやく心が落ち着いて一息吐いたアンリだが、ハルカの一言に耳を疑った。
「だから、私は死なないといけないと思うんだよね」
もうこの記憶だけで十分だ。
ベゴニアの花言葉は、片思い、愛の告白、そして幸せな日々。
ハルカに花の名前を教えなかったのは、花に込められた意味を自分の中だけに留めておきたいと思ったからだ。
ハルカへの想いは苦しくもあるが、この数日はアンリにとって何物にも代えがたい幸せな日々だった。
襲撃未遂の一報を聞いた時、呼吸が止まるかと思った。ハルカが無事だと聞かされても、実際にこの目で見るまでは安心できない。すぐに駆けつけたかったが、護るべき対象が増えれば余計に危険に晒しかねないと堪えたが、不安で何も手につかなかった。
ようやく戻ってきたハルカを見て苛立ちが抑えきれずにメルヴィンを責めてしまったのは、ただの八つ当たりであり、鬱憤を抑えきれなかったせいだ。アンリが側にいたからといってハルカが怪我をしなかったわけではないだろう。
どんなに万難を排しても完全にも護り切ることは難しいと護られる立場であるアンリも重々承知している。
それなのに真摯に頭を下げるメルヴィンの態度に劣等感が頭をもたげる。
優秀で何事も卒なくこなし、今もなお王太子にと望む者も多い。それでもメルヴィンはアンリのために公爵家の跡取りも辞退し、王家の剣であることに徹している。
そんな従兄に八つ当たりや嫉妬をしているのだから、自分が下劣な人間になったような気がしてならない。
そんな苦い思いを噛みしめながらメルヴィンの謝罪を聞いていたのに、彼の取った行動に唖然とすることになった。
(……どうして一瞥もせずにハルカの様子に気づくんだ?!)
あまりにも自然にハルカに注意を促し、メルヴィンは真剣な表情で傷口を確認しているのだ。
そんな疑問を抱いていると、ハルカが目を伏せて謝罪の言葉を口にしたことで気づいた。
メルヴィンへの叱責がハルカに罪悪感を抱かせ、メルヴィンはそんなハルカがどういう行動に出るのか理解していたのだろう。
自分の過ちに気づき謝ったが、ハルカはアンリに対して心配を掛けたことを詫びたことで更に驚くことになった。ハルカの雰囲気から刺々しさが薄れて、伏せた瞳は不安を映すかのように僅かに揺れている。
(これが本当のハルカなんだ……)
アンリが召喚する前の、本来の彼女に触れた気がした。
虚勢を張り続けた彼女の悲痛な叫びは、しっかりと耳に焼き付いている。
大切だからと距離を置いたのは果たして本当にハルカのためだったのか。
何を言われてもその苦痛に寄り添ったメルヴィンに対して、自分はただ逃げていただけではないだろうか。
惑うばかりで足踏みをしていた自分と、それでも手を伸ばし続けたメルヴィン。どちらが彼女の心に寄り添い、理解していたのかは明白だ。
ハルカを護りたいのに傷付けてばかりいることへの無能感もさることながら、押し寄せてきた後悔と罪悪感に目を背けたくなるのを堪える。
今更だと思いながらも、それでも何か彼女のために行動をせずにはいられない。
半ば強引に専属侍従になることを告げて側に留まれば、ハルカは困惑しながらも受け入れてくれた。
決して許されたわけではない。だがハルカの変化はアンリへの態度へも表れていた。
どこか懐かしむような眼差しや零れた笑みは自分に向けられたものではないとすぐに気づいたが、それでも幸福感がじわりと滲む。
他愛のない会話、向かい合ってゲームに興じるその時間はとても穏やかで愛おしく感じられた。
(もう少し、もう少しだけ……)
職務の放棄もさることながら、ハルカと過ごすひと時が許されるのはそう長い時間ではない。
ずっとこうしていたいけど、それが叶わないことは分かっている。たとえアンリが王太子でなくなったとしても召喚した罪がなくなるわけではないのだ。
メルヴィンへの態度も何とかしなくてはと思ってはいるものの、幼稚な嫉妬心を知られたくないという思いも手伝って素直になれずにいた。
情けない本心にもかかわらず、否定することなく告げたハルカの言葉に心が軽くなる。阿ることのない率直な言葉が心地よい。
しかし謝ろうと思った矢先に届いた招待状にアンリは渋面を浮かべることになった。表向きは平穏そのものだが、元凶を取り除かなければハルカに不自由な生活を強いることになる。
食堂の夫婦を巻き込んだことを酷く気に病んでいるハルカをこれ以上苦しめたくはないと何とか茶会への参加を諦めさせようとしたのに、静かな口調のハルカの一言に何を言おうとしているのか分かってしまった。
「私はアンリの妃にはなれないよ」
(王太子は私でなくてもいい……)
そう言ってしまえたらどんなに楽だろう。だがそれをハルカにも誰にも告げるつもりはなかった。いつか終わってしまう時間だと覚悟していたのだと淡々と返す。
「親の罪を子供も負わなくてはいけないの?」
貴族なのだから個ではなく家単位での賞罰を与えるのは当たり前だと思っていた。
愚かな一人のせいで優秀な人材を失うことは確かに損失ではある。
それと同時に頭をよぎったのは両親のことだった。それぞれ優秀ではあるのに、自分の感情を優先し周囲を振り回す彼らの行動を止められない。そんな自分に不甲斐なさを感じていたが、果たしてそれはアンリの責任なのだろうか。
そして何故ジゼル嬢なのか、というメルヴィンの問いかけに対するハルカの答えはアンリの想像を超えていた。
「今まで会ったことがある人達の中では、彼女が一番アンリのことを考えていたから」
(それは……反則だろう!)
アンリの想いを逸らすためなら誰でもいいのだろうと思っていた。それなのに、ハルカはアンリのためにジゼルを推すのだと言う。
特別ではなく、彼女の生来の優しさからだと分かっているが、自分のためにと思ってくれたことがどれだけ嬉しいことだろう。
込み上げる喜びに涙が出そうになって、顔を手で覆う。
ようやく心が落ち着いて一息吐いたアンリだが、ハルカの一言に耳を疑った。
「だから、私は死なないといけないと思うんだよね」
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