8 / 17
8
しおりを挟む
その日声を掛けたのは、ほんの気まぐれのようなものだった。
正義感に駆られたわけでもなく、ただ勝ち誇ったようにくだらない言いがかりをつける女達への不快さが上回っただけのこと。
恥ずべき行為だという自覚だけはあったらしく、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。残った女の顔に見覚えはなかったが、漏れ聞こえた言葉から判断すれば、今年入学してきた平民の特待生のようだ。
形ばかりに頭を下げ立ち去ろうとした彼女に不満を告げたのは、優秀であっても所詮女かと失望めいた気持ちが僅かにあったからだろう。
だが、帰ってきた言葉は予想外のもので、自分の行為が周囲にどう受け取られるかまで考えていなかったことに気づかされた。淡々とした口調は媚びることもなく、ただ事実だけを口にしており、そんな態度が不快ではない。
「他の女たちから何か言われたら俺に言え」
らしくもない言葉を告げながら、恐らく彼女は何も言ってこないだろうなと確信していた。
調べ物の一環で図書室を訪れたシストは、そこにジーナがいると気づいても話しかけるつもりはなかった。食い入るように本に没頭する姿は、先日とは別人のようでどんな本を読んでいるのかと思えば、女には難解なはずの経済学の本だったことから、すっかりに気になってしまったのだ。
問いかけてみれば、しっかりとした回答が返ってきただけでなく、自分の考えをすらすらと答える様子に、ジーナが本の内容を理解しているのだと分かった。
思わず自分の意見を告げれば、ジーナも別の視点から意見を出してきて、気づけば議論を交わしていた。同年代でこのような会話をする機会がほとんどなかったシストは、ジーナとの会話に惹きつけられていく。
振り返ってみればこの時がジーナとの思い出の中で最も楽しく、彩りに満ちていた時間だ。
いつしか王子が加わるようになり、ジーナを独占できないことを少し残念に思ったが、それでも彼女との時間は心躍るものだった。
だがそう思っていたのは自分だけだと他ならぬジーナ自身からの言葉で思い知る羽目になる。
他の女たちからの嫌がらせは、王子の興味を引いたことに端を発していて、自分との関わりにおいては特に問題ないように見えた。
それでもあのように一線を引いたことから、知らないところで嫌がらせを受けていたということなのだろう。
(……どうして言ってくれなかったのだ!)
ジーナを責めたくなる気持ちすら湧いて、何とか出来ないものかと思案してみたものの、結局は身分や立場の違いからどうにもならないことだと自分を慰めることしか出来ない。それでもと望んでしまったことが、あのような行為に結びついてしまったのだ。
重い溜息を吐いている自分に気づいて、ぎくりとする。
(俺は、何をしているのだろう……)
迷惑だと言外に告げられたにもかかわらず、気づけば図書室に足を向けている。免罪符のように以前ジーナが興味を持った本を鞄に入れた状態が、何とも言い訳がましい。
興味のない相手に時間を割かれる煩わしさは身をもって知っていたが、自分はジーナに嫌われたわけではないのだ。
あくまでも女達の的外れな嫉妬を厭って、距離を置かれただけである。
入口の扉が開くたびに、反射的に顔を向けてしまうのだが、今回は当たりを引いた。目が合うとジーナは小さく一礼したが、その後はこちらに顔を向けようとしない。昼休みに図書室を利用する者はほとんどおらず、人目を気にする必要はないはずだ。
シストが話しかけようと席を立ったところで、ジーナは素早く本を選び貸出手続きを終えるなりさっさといなくなってしまう。
シストの存在など欠片も気にする気配を見せず立ち去ったジーナに、シストは呆然とし、それから怒りが込み上げてきた。
(あの女、何様のつもりだ!)
こちらが譲歩してやったのに無視するなど、傲慢にも程があるだろう。
思わず手元にある本を払いのければ嫌な音を立てて床に落ちた。ページがぐしゃりと折れ曲がり、書架の角に当たったのか堅表紙の中心辺りは僅かに抉れている。それはシストの苛立ちに拍車を掛けたが、落ちつかなければと考える余裕はまだ残っていたのだ。
だが頭を冷やして図書室に戻ってきたシストは予想外の光景に目を瞠った。
「……何をしている」
一人の男子生徒が手にしているシストの本は、先程よりも酷い状態で誰かが故意に破損させたのは明らかだ。
「あの平民の仕業ですわ。学園の財産である書物をこのように乱暴に扱うなんて、本当に野蛮ですこと。この件は学園長にも報告いたしますわ」
高らかと宣言するブリュンヒルトだが、ジーナが本を傷付けることなどあり得ない。彼女が本を扱う手つきはいつも丁寧で、著者に敬意を払っているからこそ大切にしなければ失礼に当たると聞いたことがある。
そもそもそれはシストの本であり、図書室の蔵書と思い込んでいるのは何故なのか。
だからシストはブリュンヒルトの間違いを正すべく声を上げるべきだった。何より最初に本を乱雑に扱ったのはシスト自身なのだから。
(だが、もしも彼女が厄介な状況に陥ったのなら……)
自分ではどうしようもないほどの窮地に立たされたのなら、彼女は自分を頼ってくるのではないか。
そんな考えが浮かび躊躇っているうちに、ブリュンヒルトは図書室を後にしてしまい――シストは沈黙することを選んだ。
正義感に駆られたわけでもなく、ただ勝ち誇ったようにくだらない言いがかりをつける女達への不快さが上回っただけのこと。
恥ずべき行為だという自覚だけはあったらしく、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。残った女の顔に見覚えはなかったが、漏れ聞こえた言葉から判断すれば、今年入学してきた平民の特待生のようだ。
形ばかりに頭を下げ立ち去ろうとした彼女に不満を告げたのは、優秀であっても所詮女かと失望めいた気持ちが僅かにあったからだろう。
だが、帰ってきた言葉は予想外のもので、自分の行為が周囲にどう受け取られるかまで考えていなかったことに気づかされた。淡々とした口調は媚びることもなく、ただ事実だけを口にしており、そんな態度が不快ではない。
「他の女たちから何か言われたら俺に言え」
らしくもない言葉を告げながら、恐らく彼女は何も言ってこないだろうなと確信していた。
調べ物の一環で図書室を訪れたシストは、そこにジーナがいると気づいても話しかけるつもりはなかった。食い入るように本に没頭する姿は、先日とは別人のようでどんな本を読んでいるのかと思えば、女には難解なはずの経済学の本だったことから、すっかりに気になってしまったのだ。
問いかけてみれば、しっかりとした回答が返ってきただけでなく、自分の考えをすらすらと答える様子に、ジーナが本の内容を理解しているのだと分かった。
思わず自分の意見を告げれば、ジーナも別の視点から意見を出してきて、気づけば議論を交わしていた。同年代でこのような会話をする機会がほとんどなかったシストは、ジーナとの会話に惹きつけられていく。
振り返ってみればこの時がジーナとの思い出の中で最も楽しく、彩りに満ちていた時間だ。
いつしか王子が加わるようになり、ジーナを独占できないことを少し残念に思ったが、それでも彼女との時間は心躍るものだった。
だがそう思っていたのは自分だけだと他ならぬジーナ自身からの言葉で思い知る羽目になる。
他の女たちからの嫌がらせは、王子の興味を引いたことに端を発していて、自分との関わりにおいては特に問題ないように見えた。
それでもあのように一線を引いたことから、知らないところで嫌がらせを受けていたということなのだろう。
(……どうして言ってくれなかったのだ!)
ジーナを責めたくなる気持ちすら湧いて、何とか出来ないものかと思案してみたものの、結局は身分や立場の違いからどうにもならないことだと自分を慰めることしか出来ない。それでもと望んでしまったことが、あのような行為に結びついてしまったのだ。
重い溜息を吐いている自分に気づいて、ぎくりとする。
(俺は、何をしているのだろう……)
迷惑だと言外に告げられたにもかかわらず、気づけば図書室に足を向けている。免罪符のように以前ジーナが興味を持った本を鞄に入れた状態が、何とも言い訳がましい。
興味のない相手に時間を割かれる煩わしさは身をもって知っていたが、自分はジーナに嫌われたわけではないのだ。
あくまでも女達の的外れな嫉妬を厭って、距離を置かれただけである。
入口の扉が開くたびに、反射的に顔を向けてしまうのだが、今回は当たりを引いた。目が合うとジーナは小さく一礼したが、その後はこちらに顔を向けようとしない。昼休みに図書室を利用する者はほとんどおらず、人目を気にする必要はないはずだ。
シストが話しかけようと席を立ったところで、ジーナは素早く本を選び貸出手続きを終えるなりさっさといなくなってしまう。
シストの存在など欠片も気にする気配を見せず立ち去ったジーナに、シストは呆然とし、それから怒りが込み上げてきた。
(あの女、何様のつもりだ!)
こちらが譲歩してやったのに無視するなど、傲慢にも程があるだろう。
思わず手元にある本を払いのければ嫌な音を立てて床に落ちた。ページがぐしゃりと折れ曲がり、書架の角に当たったのか堅表紙の中心辺りは僅かに抉れている。それはシストの苛立ちに拍車を掛けたが、落ちつかなければと考える余裕はまだ残っていたのだ。
だが頭を冷やして図書室に戻ってきたシストは予想外の光景に目を瞠った。
「……何をしている」
一人の男子生徒が手にしているシストの本は、先程よりも酷い状態で誰かが故意に破損させたのは明らかだ。
「あの平民の仕業ですわ。学園の財産である書物をこのように乱暴に扱うなんて、本当に野蛮ですこと。この件は学園長にも報告いたしますわ」
高らかと宣言するブリュンヒルトだが、ジーナが本を傷付けることなどあり得ない。彼女が本を扱う手つきはいつも丁寧で、著者に敬意を払っているからこそ大切にしなければ失礼に当たると聞いたことがある。
そもそもそれはシストの本であり、図書室の蔵書と思い込んでいるのは何故なのか。
だからシストはブリュンヒルトの間違いを正すべく声を上げるべきだった。何より最初に本を乱雑に扱ったのはシスト自身なのだから。
(だが、もしも彼女が厄介な状況に陥ったのなら……)
自分ではどうしようもないほどの窮地に立たされたのなら、彼女は自分を頼ってくるのではないか。
そんな考えが浮かび躊躇っているうちに、ブリュンヒルトは図書室を後にしてしまい――シストは沈黙することを選んだ。
153
お気に入りに追加
1,510
あなたにおすすめの小説
天才手芸家としての功績を嘘吐きな公爵令嬢に奪われました
サイコちゃん
恋愛
ビルンナ小国には、幸運を運ぶ手芸品を作る<謎の天才手芸家>が存在する。公爵令嬢モニカは自分が天才手芸家だと嘘の申し出をして、ビルンナ国王に認められた。しかし天才手芸家の正体は伯爵ヴィオラだったのだ。
「嘘吐きモニカ様も、それを認める国王陛下も、大嫌いです。私は隣国へ渡り、今度は素性を隠さずに手芸家として活動します。さようなら」
やがてヴィオラは仕事で大成功する。美貌の王子エヴァンから愛され、自作の手芸品には小国が買えるほどの値段が付いた。それを知ったビルンナ国王とモニカは隣国を訪れ、ヴィオラに雑な謝罪と最低最悪なプレゼントをする。その行為が破滅を呼ぶとも知らずに――
【完結】公爵子息は私のことをずっと好いていたようです
果実果音
恋愛
私はしがない伯爵令嬢だけれど、両親同士が仲が良いということもあって、公爵子息であるラディネリアン・コールズ様と婚約関係にある。
幸い、小さい頃から話があったので、意地悪な元婚約者がいるわけでもなく、普通に婚約関係を続けている。それに、ラディネリアン様の両親はどちらも私を可愛がってくださっているし、幸せな方であると思う。
ただ、どうも好かれているということは無さそうだ。
月に数回ある顔合わせの時でさえ、仏頂面だ。
パーティではなんの関係もない令嬢にだって笑顔を作るのに.....。
これでは、結婚した後は別居かしら。
お父様とお母様はとても仲が良くて、憧れていた。もちろん、ラディネリアン様の両親も。
だから、ちょっと、別居になるのは悲しいかな。なんて、私のわがままかしらね。
【完結】巻き戻したのだから何がなんでも幸せになる! 姉弟、母のために頑張ります!
金峯蓮華
恋愛
愛する人と引き離され、政略結婚で好きでもない人と結婚した。
夫になった男に人としての尊厳を踏みじにられても愛する子供達の為に頑張った。
なのに私は夫に殺された。
神様、こんど生まれ変わったら愛するあの人と結婚させて下さい。
子供達もあの人との子供として生まれてきてほしい。
あの人と結婚できず、幸せになれないのならもう生まれ変わらなくていいわ。
またこんな人生なら生きる意味がないものね。
時間が巻き戻ったブランシュのやり直しの物語。
ブランシュが幸せになるように導くのは娘と息子。
この物語は息子の視点とブランシュの視点が交差します。
おかしなところがあるかもしれませんが、独自の世界の物語なのでおおらかに見守っていただけるとうれしいです。
ご都合主義の緩いお話です。
よろしくお願いします。
妹に傷物と言いふらされ、父に勘当された伯爵令嬢は男子寮の寮母となる~そしたら上位貴族のイケメンに囲まれた!?~
サイコちゃん
恋愛
伯爵令嬢ヴィオレットは魔女の剣によって下腹部に傷を受けた。すると妹ルージュが“姉は子供を産めない体になった”と嘘を言いふらす。その所為でヴィオレットは婚約者から婚約破棄され、父からは娼館行きを言い渡される。あまりの仕打ちに父と妹の秘密を暴露すると、彼女は勘当されてしまう。そしてヴィオレットは母から託された古い屋敷へ行くのだが、そこで出会った美貌の双子からここを男子寮とするように頼まれる。寮母となったヴィオレットが上位貴族の令息達と暮らしていると、ルージュが現れてこう言った。「私のために家柄の良い美青年を集めて下さいましたのね、お姉様?」しかし令息達が性悪妹を歓迎するはずがなかった――
婚約破棄されなかった者たち
ましゅぺちーの
恋愛
とある学園にて、高位貴族の令息五人を虜にした一人の男爵令嬢がいた。
令息たちは全員が男爵令嬢に本気だったが、結局彼女が選んだのはその中で最も地位の高い第一王子だった。
第一王子は許嫁であった公爵令嬢との婚約を破棄し、男爵令嬢と結婚。
公爵令嬢は嫌がらせの罪を追及され修道院送りとなった。
一方、選ばれなかった四人は当然それぞれの婚約者と結婚することとなった。
その中の一人、侯爵令嬢のシェリルは早々に夫であるアーノルドから「愛することは無い」と宣言されてしまい……。
ヒロインがハッピーエンドを迎えたその後の話。
うちの王族が詰んでると思うので、婚約を解消するか、白い結婚。そうじゃなければ、愛人を認めてくれるかしら?
月白ヤトヒコ
恋愛
「婚約を解消するか、白い結婚。そうじゃなければ、愛人を認めてくれるかしら?」
わたしは、婚約者にそう切り出した。
「どうして、と聞いても?」
「……うちの王族って、詰んでると思うのよねぇ」
わたしは、重い口を開いた。
愛だけでは、どうにもならない問題があるの。お願いだから、わかってちょうだい。
設定はふわっと。
【完結】長い眠りのその後で
maruko
恋愛
伯爵令嬢のアディルは王宮魔術師団の副団長サンディル・メイナードと結婚しました。
でも婚約してから婚姻まで一度も会えず、婚姻式でも、新居に向かう馬車の中でも目も合わせない旦那様。
いくら政略結婚でも幸せになりたいって思ってもいいでしょう?
このまま幸せになれるのかしらと思ってたら⋯⋯アレッ?旦那様が2人!!
どうして旦那様はずっと眠ってるの?
唖然としたけど強制的に旦那様の為に動かないと行けないみたい。
しょうがないアディル頑張りまーす!!
複雑な家庭環境で育って、醒めた目で世間を見ているアディルが幸せになるまでの物語です
全50話(2話分は登場人物と時系列の整理含む)
※他サイトでも投稿しております
ご都合主義、誤字脱字、未熟者ですが優しい目線で読んで頂けますと幸いです
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる