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第二部
スタートライン 11
しおりを挟む「腹をくくれ」とのたまった男はというと、勝手に引っ越して行ったままなんの連絡も寄こしはしなかった。
ことの真相は幸希が教えてくれた。あの日のあと、どうしてか慌てたように俺の家にやってきた幸希は開口一番「ごめんなさい」と頭をさげた。あまりに突然の訪問だったが、俺にとってはもう驚くほどのことでもない。話の内容はこうだ。
西川は実家を出て一人暮らしするつもりで、高校の時からアルバイトをしていたらしい。卒業と同時に家を出るつもりだったのだが、大学に納める学費や思わぬ出費ですぐに家を借りることは多少無理があった。そこに俺と同居の話が来て即答したんだという。最初から一人暮らしの資金が溜まるまでの借り宿として同居の世話になっていただけで、少なくとも一年の間には出て行くつもりだったと。
そして幸希は申し訳なさそうにこうも言った。
『大丈夫なのかって兄ちゃんには確認したんです。でも大丈夫だって。時枝さんは携帯を失くして急ぎで対応できないから、リビングか時枝さんの部屋にある書類だけ持ってきて欲しいって言われて……本当にごめんなさい。勝手に人の家に上がり込んで物を持ち出して』
頭を下げる姿は高校一年生とは思えないほどしっかりしていた。こんなに常識も礼節もある弟に、持たなくてもいい罪悪感を持たせてしまったことが申し訳ない。それもこれもあの男のせいなのに。西川の名前を出すのは、幸希の手前もあって控えた。話しながら眉を下げる幸希を宥めるのに苦労した。
変なところで勘が働く男なんだなと、今では感心している。俺の携帯が止まったことが引き金になったらしい。幸希に連絡をとって携帯の請求書を取って来てくれと頼んだ西川は、他になにか書類はないかと聞いたに違いない。そしてリビングの棚の中にはアパートの契約金見積書が入っていた。
そしてあろうことか俺の決めた部屋を乗っ取りやがった。西川は今、駅で五つほど離れたところにある1Kのアパートに住んでいる。
下見に来たのは一回だけ。正直どこでもよかった。なるべく早くあの家を去れるならどこでも。駅から徒歩10分ほどの日当たりの悪い場所。いかにも壁がうすそうな古びた賃貸だった。
カンカンカンと靴音を響かせてプレハブの階段を昇り、表札の前に立つ。204という番号を確かめて、ポケットから鍵を取り出した。これで開かなかったら笑える、と口元を歪めながら鍵を回した。杞憂だった。ギいと鈍い音を立てて玄関扉が開く。
改めて眺めるとかなり狭い。まだ荷物が片付いていないらしく部屋の四隅に段ボールの山ができていた。
「きたねー部屋」
流し台に紙袋を置きながらそんな言葉がでた。
自分が見繕った部屋だというのに、そんな感想しか出てこない。よほど切羽詰まっていたんだろう。普通の判断ができなくなっていた。今の俺だったらここは選ばない。
ベランダのドアを開けてほこりっぽい空間の空気を入れ替える。ベランダといってもかろうじて洗濯が干せるだけの、数十センチの幅しかないものだ。西川がこだわって育てていたトマトの鉢植えを置けるスペースはなく、代わりにテレビの上に鎮座していた。再会の挨拶とばかりに少しの水をやり、俺は荷物の隙間に寝転がる。
静かな部屋だった。決定打はこの静けさだったかもしれない。ひとりになることを望んでいたからかもしれなかった。
でも今は、ここに西川が住んでいる。
強引に俺から奪い、勝手に引っ越しして、居座っている男。
あれから何度か大学で顔を合わせたが、ほぼ話すことはなかった。西川もわざわざ俺の隣に座ることがなくなり、講義中に寝入ることもなくなったみたいだった。学科の友人から聞いた話だから、真実かどうかは知らないが。お互い、ごく普通の学生生活を送っている。
本当に普通に時間が過ぎて行く。あれこれと西川の言動を気にすることもなくなって、俺自身精神的にかなりの余裕ができてきた。離れたことがいい方向に向いたということだ。
そして客観的になって、初めて気づいたことがある。
西川は多分、俺の家で俺の父親の世話になることに反発していたんだと思う。あいつも男だし、プライドもあるだろう。必死になって、過労で倒れるまで稼いでいたのは自立のため。
自立。俺が今一番、できていないことだと思い知った。
できていないのは俺だけ。西川も染谷も、もうちゃんと自分を持っている。
染谷は再会して一度だって、「トキ先輩」とは呼ばなかった。もうけじめはついているんだ。染谷はとっくに乗り越えていた。
そして西川も、俺の前を歩いている。その足にすがって引き止めていいはずがない。西川もそれを望んでなんかいなかった。
目の前に、受け渡された一本の鍵をぶら下げる。これが証拠だ。
そう、これは西川の声。
『いいかげん、腹くくれよ』
大事なことはほとんど言わないけれど、俺をちゃんと見てくれていたんだとわかったとき、胸が熱くなった。
今度は、俺が。
ゆっくり身体を起こしてキッチンに向かった。紙袋から出した箱を冷蔵庫に入れる。思ったより冷蔵庫が随分小さくて困った。中に入っていた野菜や酒を抜きだして強引に押し込み、扉を閉める。一息ついて部屋を出た。締めた鍵はまた俺のポケットに戻る。
今度は俺が裏をかいてやる番。
今度は俺がお前の隣に行くから。
それが例えお前にとって重くても不自由でも。
俺の腹の決め方は幼稚で子供じみているってわかってはいるけれど。
やっぱり俺はお前と離れたくない。
◇
「ここまでの説明は大丈夫かな?」
「あ……はい。なんとなく。レジ打ちはだいたい……」
「もうすぐシフトがひとり増えるから、今日レジの練習してしまおうと思うんだけど、時間は平気?」
「平気です。できれば基本的な仕事は早めに覚えたいです」
「そう。じゃあ時間までもう少しこのマニュアル読んでおいてくれる?」
「はい」
渡されたパンフレットには、制服の着方から挨拶、店での規則などが箇条書きに示されている。アルバイトは初めてなので、とりあえずぜんぶ頭に叩き込もうと必死で目を通した。少し前まではレジ打ちの基本動作を机の上の擬似シートで教わった。やっぱり手を実際に動かした方が早く覚える。本物のレジができるようになれば仕事の半分は出来たようなものだ。コンビニなんてレジと品だしができればオーケーだと同じ学部の人間が言っていた。
時間になると部屋を出て、脇の扉から店の中へ入った。入ってすぐのところにある鏡で制服の見栄えを整えて手洗いをする。
「時枝くん」
店長の声がして、消毒液に手をつけたまま頭をめぐらせた。見知った顔が一瞬よぎる。
あ、と口が開いたまま閉じることを忘れているようだった。
「こちらが西川くんで、こちらが山田くん。西川くんはこの店に入ってまだ数か月なんだけど、前にもコンビニやっててほぼ出来るから、分からないことあったら聞いて大丈夫。君とは同じ大学だね。山田くんは……」
説明はいらなかった。まさかこの時間のシフトに入っていたとは予想外だったが、俺はこの阿呆面が見られただけで十分満足だった。
「今日から新しく入りました時枝です。よろしくお願いします」
西川先輩。
と空気の中だけでつぶやいて。
これが俺の一歩だと、不器用に笑った。
◇
『ねぇ、なんか冷蔵庫に謎の物体があるんですけど、』
『それがどうかした、』
『なにこれ。嫌がらせ?』
『そうだよ』
『うわ、断言』
『用がないなら切る』
『待ってよ、待って……』
『………もう切るからな』
『ねぇトキ』
『だからなんだよ』
『おれ、ショートケーキがよかった』
『ベランダから投げ捨てろ、』
『嘘だよ!食べる!食べるけどトキも一緒に、ちょっ……トキ!……トキ待っ、』
冗談じゃない。わざわざ電話してくるなっていうんだ。
勝手に食って、勝手に祝えばいい。
俺はただ、昔を思い出しただけ。
あの時の気持ちが、俺に力をくれると思っただけ。
HAPPY BIRTHDAY EIJI
この日が俺の本当のスタートラインだ。
ーーーーーー【第二部】スタートライン
おわり
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