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第一部
エンドライン 12
しおりを挟む桜が、満開だ。
一昨年や去年は気温があがらなくて開花がかなり遅かったが、今年は逆に早かった。このまま入学式まで保つのかが心配だ。別に俺たちなんかのためにこんなに一斉に咲かなくてよかったのに。集合写真のバックは飛び散る花びらでいっぱいだろう。
式が終わると、しばらく教室内はカメラのシャッター音が鳴り続け、机に卒業アルバムが広がった。お互いに寄せ書きを書き合い、クラスの垣根を越えて多数の生徒が自由に行き来している。そういうことに興味のない俺は、その場をそっと抜け出し屋上のフェンス裏で校庭を見下ろしていた。
「卒業おめでとうございます」
聞き馴染んだ声がするりと隣に並んでくる。見上げると、染谷は綺麗な笑顔を浮かべていた。とても穏やかで、どこかしたらとても清々しい顔をしている。
あれから俺は染谷と付き合い続けた。たぶん世間一般で言う恋人同士の付き合いをしてきたと思う。
染谷を好きになる自信なんかなかったけれど、そばにいる時間が長ければ長いほど、染谷に対する情は深く濃くなっていた。もともと二回目に会ったときから惹かれていた気がする。年下のくせに、臆せずストレートな物言いと、俺を好きだと囁き続ける真っ直ぐな瞳に。
俺が隠しているものに気づいているだろうに、それさえ許して認めてくれた。もうそれだけで、十分だったんだ。
「大学始まったら、あんまり会えなくなりますね、」
「うちに来ればいい」
「部活も忙しくなるし、試合が終わるまで、話す時間も……」
「電話すればいいだろ、いつでもいいよ。大学なんて下手したら今よりヒマだ」
「……そっか、そうですね……でもその必要ももうなくなるかな……もう、終わりでいいかなと思うんです、」
「……え?」
染谷はゆっくりと身体を正面に向けて、俺と対峙する。唇から出てくる言葉に背筋が凍りつく。
「先輩は、後悔してますか?」
それは西川のことか、と聞こうとするより早く、俺は不意打ちで殴り飛ばされた。思いもよらない強い衝撃に、脳が揺れたような錯覚が襲う。唇が切れた鋭い痛みも。フェンスにもたれたまま、放心してしばらく動けなかった。
「俺は、後悔してる」
さっきまで穏やかに俺を見つめていた染谷はいなかった。染谷は痛いほど眉根を寄せて顔を歪めていた。そして強く強く右手を握り締めている。
「あなたなんか好きになったことを、後悔してるよ」
襟を掴んで引き上げられて、今度は平手で頬を叩かれた。突然の暴力になすすべもないまま、それでも反撃なんてできなかった。
『なんで』なんて聞けなかった。
染谷は泣いていた。
見ているこっちが苦しくなるくらい、得体の知れない激痛に悶えるように。もう一度手を振り上げる相手を、憎むことなんかできない。俺が染谷を嫌いになるなんてことは、絶対にない。
俺は目を閉じて受け入れる。次にくる衝撃に身体が少し強張った。
しかしいつまで経っても次の打撃はこなかった。
「はーい、そこまでー」
はっとする。聞き間違えることのない声。西川の声だ。
恐る恐る目を開けると、染谷が右手を上げて止まっている姿が視界に入った。
「邪魔するな、」
俺を突き飛ばして荒くなった息を整えながら、染谷は西川を睨んで言った。
「いや、暴力反対なんで。お前も高校最後の大会あるんだからよく考えろよな。証拠の動画あるけど、見る?」
西川は携帯を片手に見せながら染谷の敵意を軽々と受け止めていた。
「なんで、なんでお前なんだよ」
「ガキみてぇな癇癪はよそでやれよ。トキを殴っていい理由になってねぇだろ、」
「……うるさいな。なんでこんな時まで俺の邪魔をするんですか、」
「そんなに俺が目障りなら、俺を殴ればいいじゃないか。なんでトキを追い詰める、」
「はぁ?追い詰めたのはお前じゃないか!」
西川の台詞が染谷の癇に障ったのがわかった。完全に西川のほうに向き直り、また強く右手を握り込んだのが見えて、思わず俺は身を乗り出していた。膝をついたまま、染谷の腕に抱きつくように縋る。
「やめろ」
「なんで止めるんだよ」
「俺は後悔してない」
「嘘だ、」
「染谷が好きだった」
染谷から零れる涙が俺の頬に落ちてきた。腕から力が抜かれ、染谷の身体が一気に弛緩した。
嗚咽が止まらなくなった染谷はその場にへたりこむ。近づいた距離に安心して、その大きい身体を抱き締めた。
俺は感謝してるんだ。
染谷と出会えたことを後悔なんかしていない。染谷といた時間を後悔なんかしていない。
お前は俺のほしいものを全部くれたんだよ。
憧れて、欲しくてたまらなくて、手に入ったらどうしていいかわからないくらいのものをくれたんだ。
お前が感じさせてくれた多幸感は本物だった。
染谷はなにも悪くない。こんな悪役ぶらなくたってわかってるさ。俺のために泣かなくていい。俺なんかのために潰れちゃいけない。
俺はお前が思うより、よっぽど欲張りで、わがままで幼稚なんだ。
一度欲しくてたまらなくなってしまったものから、ずっと目が離せないんだよ。
「でも悪い、お前より好きな奴がいるんだ、」
「……なんで、」
俺じゃないの、と染谷が囁こうとしたのがわかった。いつか、お前が俺に言ってくれた言葉を鮮明に思い出す。
「西川が好きだからだよ。俺でもなんでかわからない。でも、どうしようもないんだ、」
染谷がゆっくり腕を動かして、俺から手を引き剥がしていく。代わりに大きな手が俺の顔を両手で挟んでくる。叩いた箇所を慰めるように優しく撫でられる。そして、染谷の額と俺の額がぴたりと触れた。
至近距離で泣いている染谷は、まつ毛を震わせながら息を吐く。小さくか細い声で告白する。
「……ごめんなさい。でも、俺はあなたが好きなんです。好きで、たまらない……」
染谷は弱々しく俺の額に唇を寄せた。
「だからこれで、終わりです」
染谷は辛く悲しい笑顔で最後に俺に微笑んだ。そして立ち上がり西川を無視してその場から去って行った。
「追いかけなくていーの、」
「……いいんだ。染谷は望んでない……」
最後まで染谷は、優しくて、暖かくて、心地が良かった。俺はそのぬるま湯に浸かって、漬け込んで、利用してただけの人間なのだから。
引き裂かれるような気持ちを耐えて俺を許してくれた彼を、もう傷つけられない。
桜が屋上のコンクリートの上にひらひらと舞って落ちる。そのとなりに血が垂れたのを見てはっとする。痛みの感覚を忘れていたが、殴られたとき唇が切れていたのを思い出した。
「西川」
「んー、」
「さっきの動画、消してくれ」
「どうしようかな」
「頼む、なんでもするから、」
「なんでも?」
俺の縋るような声音を聞いて、西川は悪戯を思いついたかのようにふっと笑ってかがみ込んできた。
俺の顎に伸びてきた手が、切れた部分の唇の端を突いてくる。
「もう一回、さっきの聞きたい」
「なに、」
「まさかこんな修羅場になるなんてさ。俺、ドキドキしちゃったよ」
突いた指で血の痕を拭い取って。西川は俺の手を掴んで心臓のあるところに充てがうと大きく深呼吸する。
「トキは、誰が好きなの、」
重ねた西川の胸の上から、どくんどくんと早鐘のように鼓動が伝わってくる。この音は俺のものじゃないのかと錯覚してしまうほどだ。
「さっき、言ったでしょ。それともまた嘘付くの?」
そうだ、西川は全部聞いていたんだった。それでも再度自分の口から、面と向かって声に出すことに躊躇してしまう。
「あー!もう、ほんっとに焦ったいなー。あんなの聞いちゃったら、もう俺ギブ、ほんとに無理、待てない」
「おれは、」
交換条件を出したのは西川のほうなのに、なんとか絞り出そうと開きかけた口に威勢のいいキスが飛んできた。切れた唇の先を優しく舐められて全身が震える。目頭の奥がかっとなって頭に血が昇るのがわかった。西川の胸もますます波打って、舌からもその熱が伝わってくる。血の味が口の中に充満し、それが一層身体を熱くさせた。
俺は必死に西川の唇にしゃぶりつく。西川も俺もお互いを貪るように、呼吸を忘れてキスに没頭した。何度も何度も出し入れして、少し唇を離してもすぐ角度を変えて吸い付いて、また舌をねじ込む。まるでセックスをしているような感覚に、ずっと背中に鳥肌が立ち、頭の奥が溶けそうだった。
やがて本当に酸欠状態になって、唾液を垂らしながらやっと唇を離した。ぼたぼた、っとだらしない液体が制服を汚した。
「はぁっ、はぁっ、あー、っまじ、トキ、早くしてくんない、」
興奮してたまらない顔を覗かせて西川は俺に懇願する。
「……好きだ」
「はぁっ、もう、嘘、つかない?」
「好き、好きだ。ずっと好き。ずっと西川だけがっ、っは、」
言い淀み続けた告白をやっと西川に吐き出して、心の底から全身が安堵したのがわかった。
西川の溺れるようなキスがまた迫ってくる。
俺は夢のような現実にただただ歓喜した。
激しく口腔で交わりながら、背中に腕を回されて冷たいコンクリートに押しつけられる。俺は興奮しきったそれを西川の股間に擦り付けながら足を絡ませる。
唇がふやけてしまうかと思うほどキスを繰り返して、その息継ぎの合間にずっと。熱にうなされるように言葉にしていた。
ーー西川が欲しい。
「うん、…っうん。俺も欲しい。トキが欲しいっ、」
ずっと欲しくてたまらなかったものが、俺を抱きしめて求めてくることが、嬉しくて。幸せで。
枯渇した土地に水が巡るように、全身が喜んで受け入れている。
俺は初めて嬉しくて泣いた。
西川のキスに全身で応えながら、啜り泣いた。
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