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第一部
エンドライン 6
しおりを挟む染谷と大通りで別れたあとはまっすぐ駅に向かった。予想していた以上に腰が痛い。激情にまかせて何回も中に出されたせいで、全部かきだしたはずなのにまだ残っている気がする。そんな気がしたら今度はわき腹が痛くなってきた。気分が悪くなって、ホームへあがる階段の手すりに寄りかかる。
息をはいて、深呼吸する。
通り過ぎていく人たちの怪訝そうな視線を何度も受けたが、気にしている余裕はなかった。
徐々に増してくる気持ち悪さと共にあぶら汗がこめかみに浮かんでくる。静かに閉じたまぶたが、背中に走った悪寒のために震えた。
最近なぜか、頻繁に夢をみる。
いつも違う夢だ。
でも知っている夢。
今まで過ごしてきた日々、出来事、情景、台詞。
そして、その夢のどれにも西川がいる。
未練?
そんなもの、あるはずがない。
残してきた思いなど、あの時の俺たちにはない。
なのになぜ、夢になんて。
それも、何回も、何回も。
染谷に抱かれた疲労で意識が落ちたときにでさえ、残像が頭を駆け抜ける。
その答えが知りたくて、別れてから初めて連絡をとった。
◇
「んな歩けなくなるまでよくするねー、あの後輩」
一瞬で誰だかわかった。俺は階下を振り返り、西川は階段を登ってくる。
西川に嘘やはぐらかしは通用しないだろうし、しても意味がないとわかっていたから、だったら話に乗せてやろうと無理矢理苦笑してみた。
「体力あるからな、あっちがやめるまでぶっ通しだ」
そう、と。なにか含んだような声で笑って、西川は俺の隣に来て手を伸ばす。乱暴に腕を担がれた。同時に西川を包む甘ったるい匂いが鼻につく。少量だが、肩が触れるくらい近くだとはっきりわかる。
「なんで香水」
「あー、リエがつけろってうるさいから。」
「ガラじゃねーよ、」
「わかってるよ」
少し語気が強くなった。ほかの奴にも言われたに違いない。何度も同じ問答をやらせるなと、あえて目を合わせない態度が物語っていた。
俺は西川の肩を借りてホームまで上がりきり、最後列のベンチへ並んで腰をおろした。ちょうど電車がきたところだったが、お互いなにも言わずに乗り過ごした。
吹き付ける風で、汗が冷やされる。気分の悪さが少し和らいだ。
「なに腹いてぇの?平気なん?」
みぞおちの近くを押さえたままの手が気にかかったのか、西川の上体がかぶさるように近づいた。下から顔をのぞき込んでくるその行為に、違う感覚が刺激される。思わず西川の顔を反対の手で隠した。
「なに、どーいう意味それ」
「こっち見んな」
「え、照れてんの今更」
「いいから!」
「……」
手で隠れた西川の顔を予想することはできなかった。
しばしの沈黙のあと、西川は体を元にもどした。視線は感じない。
「トキが連絡くれるなんて、初めてだね」
西川は反対車線へ身体を向けながら、ぽつりとこぼした。俺はちらりと横顔を覗き見る。西川の目は髪の毛に隠れて確認できなかった。西川は続ける。
「染谷とは、うまくいっているようで、」
「ああ」
「そんで?彼氏にめちゃくちゃに抱かれましたーって状態で、俺に話すことってなに、」
こんなに、なにかを言うのが重苦しくなったことは初めてだ。また汗が噴き出してくる。自分から切り出したことなのに、なんで今際になって、こんなに体がこわばってしまうのか。
本人を前にすると立ちすくんでしまうなんて、なんて弱い人間なんだろう。なんて馬鹿で愚かで、浅はかなんだろう。
もう西川との関係は終わり、この先ももうお互いに干渉することなどないと思っていたから。勢いに任せたせいで、準備や心得などなにひとつ持ち合わせていなかった。
また、脇腹とその後ろ側がキリキリとした痛みに襲われる。心地よいと感じた風が急に冷たく刺すような感覚に変わってしまう。
「少しだけ、待ってくれないか」
「いいけど、早く帰ったほうがいいんじゃね。顔色悪すぎ」
よくある頭痛と違う症状に辟易しながら、鞄の中から早急に小さなケースを取り出す。普段持ち歩いている常備薬だ。鎮痛剤を取り出して封を切ったが、ずきりとした関節の痛みに思わず手が震えてしまった。錠剤はコロコロと転がって椅子の下に落ちてしまう。ふぅ、と一回深呼吸して、新しいのを開けようとケースを再度手にしたが、横から伸びてきた手に奪われてしまった。
「返せ」
「マジでどうしたの、おかしくない?」
「いいから、返せ」
俺は薬剤ケースに手を伸ばしたが、大きな手がそれを遮り、反対に俺の額に触れてきた。汗ばんだ前髪を少しかき上げて、温度を確かめるように耳元と、頬を触ってくる。
知っている手の感触が妙に懐かしくて、俺は抵抗する素振りすら出来なかった。
「熱はないのね」
その時やっと、俺は西川と直接的に視線を合わせた。
あんなに後ろめたくて、気恥ずかしくて、惨めな気持ちしかなかったのに。こうして正面から西川と話をするのは本当に久しぶりすぎて、言葉に詰まってしまう。とにかくケースを返してほしくて、俺のほうから近寄った。
「ちょっとたんま」
西川は立ち上がり、自分の鞄からペットボトルを取り出して軽く放ってきた。俺は咄嗟にそれを受け止める。ひんやりした水滴で指が濡れる。
そういえば、とてつもなく喉が乾いていたことを思い出した。俺は半分ほど残ったボトルを掴んで西川を見上げた。
また手が伸びてきて、今度は顎を掴まれた。錠剤が二つ口の中に入ってくる。
「早く飲んで」
西川に言われるまま、俺は先ほどの水を飲み干した。急ぎすぎて最後のひと口は逆流し、口の端から水があふれる。思わず咳き込んだ。
「はいはい、そんなにがっつかない」
げほげほと咳こむ俺の背中を西川がさすっている。少し前まで悪寒で節々が痛かったが、いつの間にか和らいでいる気がする。手元に薬剤ケースが戻され、俺はそれを握りしめることしかできなかった。
「悪い。こんなはずじゃ……」
「風邪でも引いてんだよ。早く帰ろうぜ」
「そんなの、どうでもいい」
「どうでもよくないでしょ。染谷と一緒なら帰る?俺呼んでくるけど、」
「勝手なことすんな!」
染谷という名前を聞いて、俺は頭がかっとなって思わず西川の胸ぐらを掴んだ。西川が仰反るくらい強い力を込めたつもりだったが、シャツのボタンがひとつ、弾けただけだった。
西川は心底困ったような笑みを浮かべて、なすがままになっている。俺が言葉に詰まっていると、やがて呆れたように溜息をついて、西川は俺の口元を手の甲でぐぃと拭ってきた。
俺は、夢に見た光景が脳裏をちらちらちらちら彷徨う感覚を思い出していた。抱き合うようになって、少しずつ西川との距離が近くなっているのだと勘違いしていた頃の夢だ。俺の一番近くにいるのはお前だと思い上がっていた頃の記憶だ。
俺は自分の力で西川の胸ぐらを引き寄せることはできなかった。
その代わり自分から胸元に顔を埋めて、さらけ出された鎖骨に口付けた。
西川の肌が微かに反応したのが分かった。鼻にかかる甘ったるい香りに頭痛がぶり返しそうだった。
気分が悪いせいでも、悪寒のせいでもない。
自分でもなにをしているのか分からなかったが、身体中を電気が駆け巡るような感覚には見覚えがあった。
俺は言いたくて尻込みしていた言葉を言い放ち、今度は西川の唇にキスをする。そうして頭の後ろに腕を回して、深く抱きついた。
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