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第一部
エンドライン 4
しおりを挟む「怒りました?」
どこか弱気な染谷の声を聞きながら、俺は肌けたシャツのボタンを止めていく。開けた窓から涼しい風が入ってくるのが気持ちいい。質問に答えないでいると、上半身裸のままの染谷は俺の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、先輩。怒ったなら謝ります」
「別に、気にしてない」
この返答では気に入らないらしい。染谷が後ろから抱きついてきて、俺の止めようとしたボタンを代わりに嵌めていく。俺は早く帰りたいのを我慢してされるままでいた。
染谷は俺と西川のことをかなり意識している。
俺がまだ、あいつを好きだと。
何度言っても納得しないのは、それだけ疑い深いのか、それとも俺が、自分でも意識していないところで未練なんてものを垂れ流しているからだろうか。
染谷がそこまで気にする必要のあるものなんて、ありはしないのに。
俺は西川と別れたあとでも会えば普通に話すし、なにもなければ目さえ合わさない。
第一西川にはもう女がいる。向こうも不必要に近づいてこなくなった。今日みたいに一緒にいるところを見ても、特になにも思わない。少し昔のことを思い出すだけだ。俺の近くにいた西川のことを。思い出して過去のあいつの行動の理由に整理をつけているだけだ。
だから、目隠しなんて、いらないんだよ。
例え西川が女と話していようが、どこかで歩いていていようが、隠れてどこかでキスを交わしていようが、俺には関係がない。
俺が染谷と付き合っていることに無関心なあいつと同じように。
もう終わったことだ。
もうそれぞれの今がある。
過去のことは、過ぎ去ったことだ。
だからこうやって、染谷とセックスしてやきもちを妬かれて、抱きしめられてるんだろう。
染谷は俺の身体を抱きしめる腕に力を入れて更に囁く。
「好きだよ、トキ先輩」
「あぁ」
顎を捉えられて斜め上に向かせられる。キスをせがむ染谷の瞳が見えるようになって、断る理由もなく唇を合わせた。俺から口を開いてやると、染谷は遠慮なしに熱く舌を絡めてくる。顎に添えられた指が肌に食い込み、更に唇を吸われる。隙間なく何度も口腔内を舐められて俺は息が苦しくなり染谷の腰を叩いた。今までさんざん出したくせに、染谷はいとも簡単に熱くなる。もうこれ以上は無理だと強く叩くと、染谷は「ごめん」と名残惜しそうに呟き、最後に俺の鎖骨に唇を当てた。強く吸った跡をつけてその部分を愛おしそうに撫でてから、やっと離れた。
「家まで送るよ」
「いいよ、帰り寄るとこあるし」
「じゃあ、大通りまで」
染谷は俺のシャツのボタンを止め終わると今度はネクタイを締めてくれた。自分も新しいTシャツを羽織ってくると、手を繋いできた。
染谷の親はシングルマザーで看護師をしているという。夜勤のため夕方頃に仕事に出て帰りは翌日の昼前になるそうだ。だから母親がいない時間に、よく染谷の家で二人で過ごすことが多かった。染谷の母親と顔を合わせたことはない。兄弟はおらず一人っ子だ。家事は中学生の頃からほとんど自分でやっているらしい。何度か染谷の家で手料理を披露してもらったことがあるが、どれも手際がよく味も美味しかった。
『誰かと一緒に夕飯食べるの、かなり久しぶりです。先輩と食べた方が美味しいですね』
嬉しそうにはにかむ染谷のあの顔は、きっと俺にだけ向けられたもので。
俺が自分で思っているよりずっと、染谷の中の俺はかなりの範囲を占めているのだと、感じる。
それが心の底の寂しさと融合して、彼を不安にさせるんだろう。
部屋を出る時からずっと、染谷は俺の手を握って離さない。まだ熱の冷めない熱い手。節立って太い指先。機会があれば染谷はよく手を繋いでくる。嫌ではない。求められることをたまに窮屈だと感じることがあっても、払いのけるまでの根拠には至らない。俺が全部に応えてやれなくても、染谷は正面からぶつかってくる。その熱い想いを全部、俺にぶつけてきてさらに言葉にしてきてくれる。
西川とは、違う。
全然違う。
少し握り返してやると、気づいたのかこちらを向いて笑った。
俺は少し意地悪な気分になって、その手を握りながら真っ直ぐ染谷の目を見た。
「もし、」
染谷が思ってくれている分を、染谷がぶつけてくる熱量の分を、俺が返してやれば。
この関係がうまくいくんだってことはわかっている。
だからわざわざ、今、こんなことを聞くのは間違いなのだ。
染谷を大事にしていたら、きっとこんな言葉は出てこない。
「もし、俺が、まだ西川を好きだったらどうする?」
「まだ好きなのか」と。
染谷の質問に対する答えを出すかわりに。意地の悪い問題を突き付ける俺は、最低で最悪で卑怯者だ。
染谷の瞳が動揺するのが分かった。
染谷が戸惑い、哀しみの顔を浮かべるのを分かっていて、それでも俺は聞きたくて堪らない。
「それでもいいよ。俺がトキ先輩を好きな気持ちはなにも変わらない」
「ごめん」という言葉が心のうちで先にでていた。受け入れてくれた染谷があまりに苦しそうに笑うから。泣くかと思ったのだ。悪寒を感じて、ごくり、と俺は唾を飲み込む。喉がカラカラに乾いて痛い。
胸が、心臓が痛い。
熱い指先が繋いだ手から遠ざかろうとする。俺は無意識に追いかけた。染谷の指先を握りしめる。
「俺が悪かった。ごめん。ごめん染谷」
両手で染谷の指を包むように握り込んで。俺は心の底から謝った。心配する声が頭の上から降ってきたが、俺は染谷の目をもう見れなかった。
いつから俺はこんな風になったんだろう。
考えれば考えるほど、頭に浮かぶのはあいつの顔で。
できれば道連れにしてほしかった。
こんな自分を知る前に。
こんな自分に呆れる前に。
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