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彼の条件
しおりを挟む「ベビーチーズと肉まんが食べたくなってさ。夜中にコンビニ行ったんだわ、あの坂の上のとこに」
話しながらなにげなく耳にかかった髪を触ろうとしたら大きく避けられた。石鹸の匂いが漂ってくる。敦志は視線をテレビから離さない。わざとこちらに興味関心を示さないようにしている。
二か月前ならこんなことはなかったのに。少し冷めかけている関係の理由はすでに承知している。
「で、買って帰り道歩いてたらさ。野犬。こう、白い柴犬みたいなのが横の木に頭っから体当たりしててさ、なんかこう、普通じゃないってか。暴れてたわけ。げっ、と思って立ち止まっちゃったら振り返りやがってその犬。急に大きい声で吠えんのよ。そしたらさ、どうなったと思う?すぐ近くが公園でその奥がちょっとした山なんだけど、そっから二匹、黒いやつが、しかも白いのよりでかいのが走ってきやがんの。すごくない?怖くない?おれビビっちゃってさ、一瞬どうしていいかわかんなくて突っ立ってたんだけど、あれね、今思うと持ってた肉まんがいけなかったみたいね。お腹すかしてたから怖かったんだと思う。でもせっかく歩いて十五分かけて買いにいったんだし、おれ肉まん食べたいし、てか、犬に負けたくないじゃん?どうしたと思う?」
表現足らずなりに必死で説明しても、効果はない。半乾きの髪の先端からたれる滴があるばかり。なんだかひとり漫談をやっている気分だ。
「おれね、逃げた」
本当の話だ。どこかのアニメの泣き虫みたいな話があるか、と言われてもしょうがない。思い出すと笑ってしまう。あの時は切に電柱に登りたかった。
「そういうときに限って車も人も全然通らねぇの。腕いっぽん犬の餌食にされるの覚悟で全力疾走?っていうの、走って逃げて十字路でやっとまいたわけ。まじ心臓に悪かった。犬って想像以上に怖い動物だとしみじみしたね」
その直後、目の前の恋人に電話をしたが留守電だった。疲れたのと、怖かったのとで誰かの声を聞いて安心したかった。このことを、敦志は知らない。男なのに情けない。そんなことは痛いほど実感している。おれは、自分で思っている以上に敦志に依存していて、自分で思っている何倍も寂しがりなんだろう。一生懸命話しているのを無視されるだけで、とてもとても悲しくなるのだから。
「まぁ、そんなことがあったわけね。敦志は、最近どう、元気でやってる?」
返事が返ってこないのを覚悟で聞いた。
「で?」
明らかに不機嫌な声。おれの身体がびくりとなっているところに、足を組んだ上に肘をのせて、敦志はやっと視線をこちらに向けた。濡れた髪から滴がまた垂れてくる。
突然なんの連絡もせず彼の家に訪問し、玄関先で顔を合わせて以来。実に二時間。
「なにしに来たの」
まさか犬に追いかけられた話をしに来たとか言うな。敦志の心の声はわかりやすい。
「キスがしたい」
「は?だから、煙草吸う限りしねぇって言ってんじゃん。何回言ったらわかんだよクソ男」
どこかまだ少年っぽさを残す彼が、悪態をつく。たぶんまだ言いたいことはあったんだろう。息を飲む音が聞こえた。二人がけのソファが軋む。少し勢いをつけすぎたかもしれない。敦志も準備をしていなかった。歯がぶつかり、がちっという硬い響きごと包み込んで、押しつけた。なつかしい匂いと唇の感触。ほんとうに、二か月ぶりのキスだ。
ぶるりと全身が震えて喜んだ。離れようとする敦志の濡れた頭を強引に掴んで、開こうとする隙間を舌で埋めた。差し入れて、口内を舐めてから何度も唇に吸い付いた。熱い熱い、慣れ親しんだ感触に鳥肌が立つ。夢中で止まらなくなりそうなところで、瞼の裏がチカチカするほどの強い衝撃が、腹に走った。慌てて敦志の髪から手を引き、鳩尾を抑えてうずくまる。加減を知らない。反対側にのけぞって背をもたれると、眉間にしわを寄せながらにらむ敦志は立ち上がっていた。
「なにすんだボケ。無理やり人の嫌なことしてくるとか……ふざけやがって!しないって言ってんだろ何度も何度も……」
あれ、とつぶやいて敦志は口元に手をやる。なにかを確かめるように唇を舐めたり、自分の息を吐いたりしている。
なぜかどうしようもない不安を感じたあの夜中の電話に、敦志はでなかった。
もうああいう惨めな気持ちになるのは嫌だなと本気で思った。少し我慢すればいいことだ。なくても、死ぬわけじゃないし。好きな人のためにする行動なら、安いもので。
今でも吸いたい願望はある。何回も何回も誘惑に負けそうになった。
「え、いつから吸ってねぇの」
「嫌だって言われてから」
「ほんとに」
「今確かめたでしょ」
「まじで、」
「まじで」
ずっと険しく不機嫌の象徴だった眉間のしわがみるみるなくなっていく。思い出したように肩のタオルで髪をふいて、ソファの上に戻ってくる。急所に盛大な一撃を食らって、おれの額にはあぶら汗浮かんでいた。肩のタオルの先で、それを拭われる。おれの真正面に、敦志のまん丸な瞳が君臨する。
「我慢、したんだ」
「しんじらんねぇ」と、ここで初めて、声をあげて敦志は笑った。えくぼが、右頬のほうが深いのが彼の特徴だ。
腹をおさえたまま起き上がり、敦志のTシャツのすそを引っ張った。
もう一回したい。伝わったのか彼はゆっくりその目を閉じた。
好きだな、やっぱり。まつ毛の長さもこのうすくて冷たい唇も。全部。
おれは無防備になった敦志の顎を両手で掴んで、再度唇を寄せた。触れ合おうとする瞬間、小さく差し出された舌がどうしようもなく愛おしくて、激しく吸い付いた。敦志の肌がどんどん熱を帯びていくのがわかる。右手で柔らかい耳たぶを触ってみたら、敦志の身体が細かく震えた。嬉しくて何度も舌を絡めて唾液を啜った。
しばらくおあずけだった身体は正直で、すでにおれのはゆるく勃ち上がっている。感度が上がる荒い呼吸を繰り返してから、名残惜しそうに唇を離す。敦志の口端からは涎が垂れて、睫毛はふるふると震えていた。耳が真っ赤に染まっている。この状態をおれはよく知っている。欲情しているときの、顔だ。
ああ、好き。抱きたい。
小さな努力が認められ、敦志はおれを受け入れてくれた。お互いにこの時を待っていたんだと、おれは単純に喜びそれ以上の行為をしようと意気込む。
敦志の両肩を掴んで、ソファに押し倒そうとしたときだった。顔にゆるい平手が飛んでくる。頬を押しやられ、おれは膝立ちの体制を崩してソファからおっこちた。まぬけな顔をして、おっこちた。
「しないから、」
あのスイッチの入った顔がさらりと一変し、敦志は立ち上がる。もう就寝の時間だとばかりに洗面台に行ってしまう。奥からドライヤーの音が聞こえた。
「うそだろ」
ため息しかでてこない。禁煙の努力もこんなものか、と床をごろごろと転がった。
緊張と歓喜と落胆が一気に体の疲れとなったようだ。袖であぶら汗をぬぐい、腹を撫でる。はぁ、とまた息をはくと敦志が洗面台の扉から顔だけだした。
「あ、そういえばさ、」
ドライヤーの音が消えて、今度は呼びかけの声。なに、と肘で上体をおこし次の言葉を待った。
「来週の連休、温泉でも行く?」
痛い痛いと自分の腹を慰めていた手が止まる。
「……行く。行くよ。……行きたい!」
子供のように無邪気に、顔を上げて敦志のほうを見た。敦志はドアにもたれ掛かって腕を組みながらゆるく微笑んでいた。
「なら、それまで我慢できる?」
禁煙し出してから、外出するたびに何度も買いたくなった。コンビニに寄ると必ず、いつもの癖で馴染んだ銘柄を注文してしまっていた。おれの部屋には使ってない箱が山積みになっている。
あの日も、本当は、煙草が吸いたくて夜中にわざわざ出歩いたんだ。
それでもあの時思い知った孤独感よりはマシだ。
彼氏が喜んで、受け入れてくれる幸福感のほうが圧倒的に勝ってしまっている。おれの前では笑顔でいて欲しい、エロいことさせて欲しい、そばに、いて欲しい。
「できる。できるよ」
即答したら、我慢できなくて、敦志に駆け寄って抱きしめた。敦志は今度は無理に引き剥がそうとせず、ぽんぽんと、優しい笑顔でおれの頭を撫でてくれた。
おわり
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