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34.離岸する思惑

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 ジローが後ろを振り返り、視線はパーティ会場の人混みの中を漂う。と、そこに。

「皆様、ご歓談中に失礼致します」

 スピーカーから声が響く。会場の奥、一段高くなった舞台の上に、頭のはげ上がった丸顔の男が一人立っていた。たまにローカルのテレビ番組で見かけるタレントだ。どうやら司会進行役らしい。

「本日は、砂鳥ホールディングス主催、創業二十周年記念パーティにご参加くださり、まことにありがとうございます。皆様すでにお気付きかと思われますが、ただいま十七時をもちまして、エメラルドサンシャイン号は埠頭を離れ、二泊三日のミステリークルーズに出発致しました」

 これを聞いて会場から拍手が湧き起こった。

 ミステリークルーズね。ミステリーは大抵サスペンスやスリラーの要素が混ざるものだが、このクルーズはいったいどんな意味でのミステリーなのかね、と五味は心の中でツッコんでみた。さすがに口には出さなかったものの。

「さて、今宵のパーティに退屈な段取りは特にございません。最終二十二時まで開場してございますので、その間ご自由に、ご飲食ご歓談をお楽しみください。会場の出入りも自由でございます。ただ申し訳ございませんが、冒頭僅かなお時間を取らせていただく事をご容赦いただけますでしょうか。本パーティの主催者、砂鳥ホールディングス社長である砂鳥宗吾より、皆様に挨拶がございます」

 司会者が斜め後ろに下がると、会場が少し暗くなり、演壇の真ん中に登場した砂鳥宗吾をスポットライトが照らした。

「皆様、本日は急な予定の変更にもかかわらず、これほどの人数が集まっていただけました事、まずは感謝致します。それと、ご安心ください。挨拶は、ごく手短かに終わらせますので」

 会場から笑いが起こり、宗吾も満足げに微笑む。しかし。

「手短かには終わらないわよ!」

 甲高い声が会場に響く。見れば砂鳥宗吾の真正面に立つ女。高級そうなスーツを着てはいるが、髪は乱れに乱れていた。その背をジローは無言で指差す。女は叫んだ。

「宗吾、いまここで、いますぐ宣言なさい。砂鳥ホールディングスの社長を辞任すると!」

 だが、ざわつく会場など気にも留めない顔で、宗吾は女を見下ろした。

「やあ義姉ねえさん。いったい何の真似ですか」

 宗吾の義姉、砂鳥久里子は狂気をはらんだ目で、しかし口元には余裕の笑みを浮かべている。

「とぼけていられるのも今日限りよ、この人殺しが!」
「おや、これは剣呑ですね。僕がいったい誰を殺したというのでしょう」

「あなたの実の兄、砂鳥宗一郎よ!」

 会場内の面々を見回しながら大声を張り上げる久里子の姿は、まるで演劇の主演女優のようだった。しかし本物の主役が彼女でない事は、すぐ誰の目にも明らかとなる。

「公衆の面前で、具体的な名前を挙げて人殺し呼ばわりですか。そこまでおっしゃるのなら、証拠があるのでしょうね」

 毛の先程も動揺しない宗吾に対し、久里子は僅かに不安を見せた。だが首を振ってそれを打ち消す。

「ええ、これ以上ない証拠があるわ。目撃者がいるのよ」

 久里子が後ろを振り返れば、人混みの中から歩み出て来る太った人影。五味は思わず声を上げそうになった。間違いない、「あの」河地善春だ。いかにも着慣れていない紺色のスーツ姿で、顔中に汗をかき、その目はオドオドと落ち着きがない。あまりにも挙動不審である。

 けれど宗吾は、やはり微塵も動揺しない。

「やあ、河地くんじゃないか。随分久しぶりだね」

 これに河地善春は返事ができない。目を合わせる事さえできず、ただうなずいた。すると宗吾は首をかしげる。

「おや、河地くんじゃなかったのかな。大葉野くん」

 と突然、大葉野六郎へと顔を向けた。最初からどこにいるのか把握していたのだろう。会場内の視線が大葉野に集まる中、宗吾はたずねた。

「君は最近、河地くんと会ったはずだよね。どうだろう、彼は河地善春くんかな」

 いったいどういうつもりなのか。五味は当惑した。込み入った事情はわからないが、あの女が砂鳥宗吾の義姉だとして、河地善春はそちら側の味方についたように見える。この状況で大葉野があの男を河地善春本人だと認めたら、不利になるのは砂鳥宗吾だ。

 しかし完璧魔人には揺らぐ気配すら感じられない。横目で助けを求める大葉野に、五味は小さくうなずいた。意を決して大葉野は口を開く。

「私の知る限り、彼は河地善春で間違いない」
「君がそう言うのなら、間違いないのだろう」

 宗吾はうなずき、再び河地善春に顔を向けた。

「さあ、それでは河地くん、君の証言を聞きたい」

 久里子が河地善春の隣に立ち、励ますように腕をつかんでいる。

「さあ言うのよ、あなたの見た事を!」

 丸い顔面を紅潮させて、河地善春は悲鳴のような声を上げた。

「ぼ、僕は見たんだ! 十年前、お、おまえがお兄さんを、海に、つき、突き落とすのを! この船から!」

 どうだと言わんばかりの久里子の顔。なのに宗吾はまったく動じない。まるで最初からすべてわかっていたかのように。いや、実際わかっていたのではないか。

「で、あれば」

 平然とした声で発せられる宗吾の言葉。

「もし君の言うように僕が本当に兄を殺したのであれば、目撃者である君に対して何も言わないなどという事があるだろうか」
「……え?」

 河地善春は動揺した。それが久里子にも伝染する。宗吾は続けた。

「僕が君に殺人を見られていたなら、僕は必ず君に言葉をかけたはずだ。河地くん、答えてくれないか。僕は何と言ったのだろう」

 河地善春は呆然としていた。いや、愕然としていたと言うべきか。自分の主張が穴だらけで使い物にならない事実を、ようやく理解したのだ。

「どうしたの! 何か言い返しなさい!」

 せっつく久里子に、しかし河地善春は弱々しい言葉を返すのが精一杯。

「僕は、僕は、聞いてない」
「聞いてない?」

 スピーカーから一際大きく響いた宗吾の声。久里子は演壇をにらみつけるが、相手は勝ち誇る様子すらなく、ただ首を振っていた。

「聞いてないとはどういう事ですか義姉さん。つまり、あなたが河地くんにデタラメを吹き込んだのですか」
「違う! 私は何も、そもそもこの子はあなたが、そうよ、あなたが裁判の証人として!」

「何の裁判ですか」

 まったく意味がわからないという顔の宗吾に、久里子は追い詰められて行く。

「それは、だから、あなたが宗一郎さんを殺した裁判に」
「そんな裁判など起こり得ないという事は、いま証明されましたよね。証拠もない、証人もいないと義姉さん、あなたが証明したのですよ」

「それは、それは、それは……」

 突如、久里子は金切り声を上げたかと思うと、そのまま髪を振り乱して駆け出し、人混みを掻き分けてパーティ会場の外へと逃げ去ってしまった。河地善春もあたふたと後を追う。

 しばし騒然としていたパーティ会場だったが、宗吾の声ですぐに静まった。

「身内の事でお騒がせしました、申し訳ございません。もう挨拶もいいでしょう、また騒ぎが起こってもいけませんから。司会者さん、後をよろしく」

 そう言って砂鳥宗吾は舞台袖に下がる。すると再び真ん中に現われた司会者は、手にシャンパングラスを持っていた。

「では僭越せんえつながら、乾杯の音頭を取らせていただきます。皆様、グラスはお持ちでしょうか。砂鳥ホールディングスの、ますますの繁栄を祈念いたしまして、乾杯!」

「乾杯!」

 あちこちでグラスを合わせる音が響き、会場を再び包む賑やかな笑い声。そんな空気の中、築根麻耶は深刻な顔で五味に声をかける。

「おい、これは」
「ああ、やりやがったな」

 五味の顔に貼り付く笑顔は、引きつっているようにも見えた。

「完璧にやられたよ、あの野郎」
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