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29.炎上

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 事務所に響くヤカンの笛の音。五味はカップにインスタントコーヒーを入れ、湯を注いで岩咲の前に置いた。

「とりあえず、どこから話しますかね」
「三ヶ月無料ってのはマジなんだろうな」

 岩咲のサングラスの奥が光ったように見えた。五味はうなずく。

「ええ、協力していただければ、岩咲さんの月々の『支払い』を三ヶ月無料にします」
「あれ、岩咲さん、五味さんに弱み握られてるんすか? 何やったんす?」

 興味津々な笹桑を無視して、岩咲は獰猛な笑顔を見せた。

「いいだろう。続きを話せ」
「岩咲さん、『提督』って知ってますかね」

「提督だぁ?」

 身を乗り出した岩咲の顔は明らかに緊張している。

「五味、てめえ提督に手ぇ出してんのか。やめとけ、自殺行為だぞ」
「いや、俺は手を出されてる側なんですけどね。つまりマル暴でも有名って事ですか」

 五味は事務机の前の椅子に腰掛けた。岩咲もソファの背もたれに体重をかける。

「提督は、いまの日本じゃ珍しいマジモンだよ。俺らより公安の方が詳しいはずだ」
「テロリストって事ですか」

「いや、政治信条やら宗教を掲げてる訳じゃねえからな、正しくはテロリストじゃねえ。だが、やってる事は同じだ。てめえの商売の邪魔になるヤツを片っ端からぶっ殺しやがる。実際、ヤクザや半グレもいくつか潰されてる」

 笹桑がクスッと笑った。

「役に立つ事もあるんすね」
「笑い事じゃねえよ馬鹿野郎。提督がどうやってヤクザ潰すか知ってるか。年寄を使うんだ」

 これに五味は首をかしげる。

「年寄でヤクザを潰す?」

 岩咲は陰鬱な顔でうなずいた。

「爺さんや婆さん、それもホームレスから、その辺の施設にいるヤツ、普通の家庭で子供家族と暮らしてるヤツまで千差万別の連中を動かすんだよ。どうやって動かすのかは、よくわからねえ。薬を使ってるって話もあるし、暗示をかけてるって説まである。とにかくその年寄に」

 そこで一口コーヒーを飲んで苦そうに顔をしかめた。

「……火焔瓶を持って事務所に突っ込ませやがるんだ」

 これにはさしもの笹桑も軽口は出ない。岩咲は続ける。

「この時代だ、年寄は世間に山ほどいる。誰が提督につながってるのかなんぞ確かめようがない。そもそもヤクザはメンツで生きてるような連中だ、爺さん婆さんにビビる訳にも行かねえだろ。狙う方としちゃ、こんな簡単な相手はないわな」

 五味はしばし沈黙すると、タバコを一本咥えた。

「それだけじゃあないですよね」

 そしてライターで火を点ける。

「それなりに若い、腕っぷしの強い連中が何人か提督の下にいるはずだ」
「そんな話もあるな。だが詳しい事は何もわからん。とにかく提督についちゃ、まるでわからん事だらけだ」

「その提督に、会いたくはないですか」
「あぁ?」

 眉を寄せる岩咲を、五味は探るような目で見つめた。

「提督に会えるチャンスがあるんですがね。明後日の日曜日、どうです」
「てめえ、俺を試すつもりか」

「ええ、試してますよ。刑事のプライドってヤツをね」
「この野郎、強請り屋風情が調子に乗りやがって」

 と、そのとき五味のスマートフォンが震える。画面に表示される築根麻耶の名前。

「どうした」

 電話に出た五味の顔から血の気が引く。岩咲と目が合った。

「やりやがった。クソッ」
「どうした五味、何があった」

 しかし五味は答えず立ち上がり、寝室のドアを開け怒鳴る。

「ジロー起きろ! 立って走れ! すぐだ!」

 そしてそのまま玄関へと走る。

「笹桑は岩咲さんから離れるな! いいな!」

 数秒遅れでジローも玄関の外へと走り去った。



 県道の路肩にクラウンを駐め、五味は人混みを掻き分けて進んだ。古びた五階建てのビジネスホテルの前に消防車が止まり、煙を上げる三階の窓へと放水している。少し離れた歩道の片隅に、毛布をまとった人々が座り込んでいた。その近くに停まる救急車。

 ホテルの駐車場で状況を呆然と見つめている小柄で小太りな蝶ネクタイの男に、五味は声をかけた。

「おい支配人!」
「ああ、五味さん」

 ホテルの支配人なのだろう男は、顔をクシャクシャにして走り寄って来る。五味がその腕をつかんで揺すった。

「何があった」
「わかんないんだよぉ。客室から突然、火が出てさぁ。他のお客さん逃がすんで精一杯で」

「火が出た部屋のヤツ、どんな客だった」
「どんなって、普通の人だよぉ。普通のお爺さん」

 訳がわからないという風に、支配人は頭を抱えた。その顔を五味はのぞき込む。

「俺が頼んだ客はどうしてる」
「みんな無事だよ。無事のはずだよ」

 そこに駐車場の入り口側から声が。

「五味!」

 振り返れば毛布を羽織った築根がいた。だが、その背後に走った光が五味の目に入る。

 包丁。

 包丁を腰だめに構えた老婆が築根の背に突進した。さしもの五味も咄嗟の事に声が出ず、ただ指を差すだけ。

 しかし包丁は、止まった。築根の背に届く寸前で止められた。ゴツい岩のような手に老婆の手首がつかまれたのだ。

「何してんだ、物騒だな婆さん」

 築根が振り返り驚きの声を上げる。

「岩咲!」
「やあこれは警部補殿、お久しぶりですな」

 そう言って歯を見せたかと思うと、今度は鬼の形相で顔を横に向けた。

「原樹ぃっ!」
「は、はいっ!」

 駆けつけて来た原樹が、気をつけの姿勢で立ち止まる。

「てめえ警部補のボディガードだろうが! どこに目ぇつけてやがる!」
「す、すみません!」

「謝ってるヒマあったら、とっとと所轄呼んでこいや馬鹿野郎!」
「は、はい! いますぐ!」

 原樹が回れ右をして走り去って行く。カラン、固い音がした。包丁が地面に落ちたのだ。老婆は泣きそうな顔で岩咲を見上げている。

「あの、もうしませんから放してください」

 岩咲はニッと笑顔を見せた。

「俺もそうしたいんだがね、これは殺人未遂の現行犯だ。放してやる訳にはいかねえんだよ、婆さん」

「お願いです、もう絶対にやりませんから、許してください」
「それは裁判官に言ってくれよな、悪いが」

「家には連絡しないでください。娘に叱られる」
「……おい、万引きか何かのつもりかよ」

 怒気をはらんだ岩咲の声に、老婆は怯える。

「無駄だ」

 挙動不審な老婆の顔を見つめながら首を振る築根。

「何をどうしたのかは知らないが、彼女には罪の意識がまるでないようだ。反省はできないだろうな」

 そして白手袋をはめ、包丁を拾い上げた。そこに警察官二人を連れて走ってくる原樹。警官は明らかに岩咲へ不審の目を向けたが、原樹の事前の説明が正鵠を射ていたのか、特に揉めることもなく、証拠の包丁と共に老婆は警官に連行された。
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