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シグナル
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学校帰りの少女の前に、赤いマントの男が立った。
「おめでとうございまっす! あなたは見事選ばれました。さあ、お好きなボタンを押してください!」
差し出された男の右手のひらの上には、信号機のように左から青、黄、赤の三つのボタン。制服の少女が当惑していると、男はボタンの説明を始めた。
「青いボタンは私のもっともオススメのボタン。これを押せば、この地球上の良い人々が幸福と歓喜を伴って全員天国に生まれ変わります。赤いボタンは次にオススメです。これを押せば、この地球上の悪い人々が絶望と悲鳴の中で全員地獄に落ちるのです」
そう言って男は微笑む。少女は首をかしげた。
「……黄色のボタンは?」
「ああ、これはオススメいたしません。これを押せば、あなた以外の全ての人々が無意味かつ無価値に消滅してしまいます」
男がそう言い終わると同時に少女は押した。黄色いボタンを。
その瞬間、男は消えた。同時に世界から音が消えた。声が消えた。気配が消えた。
そして、街が消えた。
少女の周囲、見渡す限りに荒野が広がっている。遠くに緑の山が見えているが、建物は何もない。
少女は走った。走って、走って、走り続けたのに息が切れない。疲れることを忘れてしまったのか。野を駆け、川を渡り、とうとう山の頂を越えた。けれどその視界に延々と広がるのは、やはり荒野。人間がこの星の上にいたという事実がすべて消し去られたかのように。いや、そんな事実など最初からなかったかのように。これが無意味かつ無価値な消滅。
それでも少女は走った。山を駆け下り荒野を抜けて、海を泳いで渡った。まるで疲れもしなければ、お腹も空かない。
海の向こうにも人はいなかった。街があった痕跡すらない。
何度も何度も夜が来て、何度も何度も朝になる。少女は眠らず走り続ける。足はやがて、すり減り無くなり、走れなくなった少女は四つん這いで移動した。しばらくして腕も脚もすり減り無くなり、少女は転がる肉の塊となった。
もういったい何年旅を続けているのか、少女にはわからない。疲れもしないしお腹も空かない、痛みも苦しみもない。そしてどこにも誰もいない。とうの昔に回転する柔らかな球体となっていた少女は、あるとき懐かしい声を聞く。
「どうですか」
少女は目を開けた。
そこは見慣れた自分の部屋。ベッドに横たわり天井を見上げている。その天井に、あの男が浮かんでいた。
「そう、夢でした! でもただの夢ではありません。あれはあのまま黄色いボタンを押せば、あなたに訪れる未来そのままだったのです。でも、おめでとうございまっす! あなたはやり直すことを認められました! もう一度このボタンを押すチャンスを差し上げましょう。さあ、どれを押しますか」
男が差し出す三つのボタンに手を伸ばし、少女は迷わず黄色いボタンを押そうとする。
「待って待って待って」
よほど想定外だったのか、男は思わずボタンを左手で隠した。
「どうしてそう黄色を押したがるのです。何の意味もないことは体験しましたよね?」
しかし少女はベッドに横たわったまま、静かに言葉を返した。
「私にとっては同じでしょ」
「同じ、と言いますと」
首をかしげる男に、少女は言う。
「青いボタンを押せばすべての良い人々が天国に行く。つまり死ぬの。私が殺すの。なら、私は良い人々にはなれない。この世界で生き続けなきゃならない。赤いボタンを押せばすべての悪い人々が地獄に行く。つまり死ぬの。私が殺すの。でも悪い人々を地獄に送るのはみんなが望んでいること。みんなの希望を叶えるの。なら、私は悪い人々にもなれない。この世界で生き続けなきゃならない。そして黄色いボタンを押せば、私は一人で生き続けなきゃならない。何が違うの?」
男は困った顔で少女を見つめる。
「あなたはそんなに死にたいのですか?」
「死にたい訳じゃない。ただ、誰かと一緒に生きて行くくらいなら、ひとりぼっちでいたいだけ。それは変なこと?」
男はしばらく少女を見つめると、目の奥をうかがうようにたずねた。
「この地球上の人類種には、あと一万年ほどの寿命が残っています。あなた一人になれば、その一万年を一人で背負い込んでいただかねばなりません。つまり一万年の間、何をしても死ぬことはできないのです。飢えることも病に倒れることも、気が狂うこともできないまま生き続けることを、本当に望みますか」
少女は寂しげに微笑んだ。
「望みはしないけど、私にはそれしか選べないから」
男は小さくため息をつくと、ボタンを覆っていた左手をどけた。
そして少女の指が、いま。
いま、どこかで誰かがボタンを押そうとしているのかも知れない。
そのボタンはどんな色?
「おめでとうございまっす! あなたは見事選ばれました。さあ、お好きなボタンを押してください!」
差し出された男の右手のひらの上には、信号機のように左から青、黄、赤の三つのボタン。制服の少女が当惑していると、男はボタンの説明を始めた。
「青いボタンは私のもっともオススメのボタン。これを押せば、この地球上の良い人々が幸福と歓喜を伴って全員天国に生まれ変わります。赤いボタンは次にオススメです。これを押せば、この地球上の悪い人々が絶望と悲鳴の中で全員地獄に落ちるのです」
そう言って男は微笑む。少女は首をかしげた。
「……黄色のボタンは?」
「ああ、これはオススメいたしません。これを押せば、あなた以外の全ての人々が無意味かつ無価値に消滅してしまいます」
男がそう言い終わると同時に少女は押した。黄色いボタンを。
その瞬間、男は消えた。同時に世界から音が消えた。声が消えた。気配が消えた。
そして、街が消えた。
少女の周囲、見渡す限りに荒野が広がっている。遠くに緑の山が見えているが、建物は何もない。
少女は走った。走って、走って、走り続けたのに息が切れない。疲れることを忘れてしまったのか。野を駆け、川を渡り、とうとう山の頂を越えた。けれどその視界に延々と広がるのは、やはり荒野。人間がこの星の上にいたという事実がすべて消し去られたかのように。いや、そんな事実など最初からなかったかのように。これが無意味かつ無価値な消滅。
それでも少女は走った。山を駆け下り荒野を抜けて、海を泳いで渡った。まるで疲れもしなければ、お腹も空かない。
海の向こうにも人はいなかった。街があった痕跡すらない。
何度も何度も夜が来て、何度も何度も朝になる。少女は眠らず走り続ける。足はやがて、すり減り無くなり、走れなくなった少女は四つん這いで移動した。しばらくして腕も脚もすり減り無くなり、少女は転がる肉の塊となった。
もういったい何年旅を続けているのか、少女にはわからない。疲れもしないしお腹も空かない、痛みも苦しみもない。そしてどこにも誰もいない。とうの昔に回転する柔らかな球体となっていた少女は、あるとき懐かしい声を聞く。
「どうですか」
少女は目を開けた。
そこは見慣れた自分の部屋。ベッドに横たわり天井を見上げている。その天井に、あの男が浮かんでいた。
「そう、夢でした! でもただの夢ではありません。あれはあのまま黄色いボタンを押せば、あなたに訪れる未来そのままだったのです。でも、おめでとうございまっす! あなたはやり直すことを認められました! もう一度このボタンを押すチャンスを差し上げましょう。さあ、どれを押しますか」
男が差し出す三つのボタンに手を伸ばし、少女は迷わず黄色いボタンを押そうとする。
「待って待って待って」
よほど想定外だったのか、男は思わずボタンを左手で隠した。
「どうしてそう黄色を押したがるのです。何の意味もないことは体験しましたよね?」
しかし少女はベッドに横たわったまま、静かに言葉を返した。
「私にとっては同じでしょ」
「同じ、と言いますと」
首をかしげる男に、少女は言う。
「青いボタンを押せばすべての良い人々が天国に行く。つまり死ぬの。私が殺すの。なら、私は良い人々にはなれない。この世界で生き続けなきゃならない。赤いボタンを押せばすべての悪い人々が地獄に行く。つまり死ぬの。私が殺すの。でも悪い人々を地獄に送るのはみんなが望んでいること。みんなの希望を叶えるの。なら、私は悪い人々にもなれない。この世界で生き続けなきゃならない。そして黄色いボタンを押せば、私は一人で生き続けなきゃならない。何が違うの?」
男は困った顔で少女を見つめる。
「あなたはそんなに死にたいのですか?」
「死にたい訳じゃない。ただ、誰かと一緒に生きて行くくらいなら、ひとりぼっちでいたいだけ。それは変なこと?」
男はしばらく少女を見つめると、目の奥をうかがうようにたずねた。
「この地球上の人類種には、あと一万年ほどの寿命が残っています。あなた一人になれば、その一万年を一人で背負い込んでいただかねばなりません。つまり一万年の間、何をしても死ぬことはできないのです。飢えることも病に倒れることも、気が狂うこともできないまま生き続けることを、本当に望みますか」
少女は寂しげに微笑んだ。
「望みはしないけど、私にはそれしか選べないから」
男は小さくため息をつくと、ボタンを覆っていた左手をどけた。
そして少女の指が、いま。
いま、どこかで誰かがボタンを押そうとしているのかも知れない。
そのボタンはどんな色?
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