約束というほどではなくても

柚緒駆

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第26話 十文字香の手記 その十二

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「県警捜査一課の登場か……」

 半日授業の終わった放課後の推理研究会部室。夏風走一郎は窓際の椅子に座り、爽やかな笑顔を見せていた。

「そう。で、入地さんが言うには、県警捜査一課が出て来た以上、今回の事件も殺人、それも前回と合わせて連続殺人だと警察は考えているんだろうって」

 私の話を聞きながら、夏風走一郎は二度小さくうなずいた。

「だろうね。とすると、注目点は三つ。まず死因。次に死体の側にアルファベットがあったかどうか。あとは七不思議にこじつけているか、だね」

「アルファベットはEじゃないのか」

 部屋の隅に立つ五味民雄が言うと、夏風走一郎は嬉しそうにまたうなずいた。

「絵棚先生だからね、たぶんそうだと思うよ。ただそうなると」

「そうなると、何だよ」

「いや、NEと来れば何らかの単語を作りそうに思えるじゃないか。NEWとかNEOとかNETとかNEVERとか」

 それを聞いた私の顔は思わず引きつった。アルファベットの文字数が増えるということは、すなわち死人の数が増えることを意味するからだ。

「ちょっと待ってよ。つまり、連続殺人はまだ続くってこと?」

 しかし夏風走一郎は平然と言葉を返す。

「さあ。もしかしたらNEだけで何らかの意味を持つのかも知れない。北東とかね。でもそうじゃない可能性はあるってことさ」

 楽しんでいる。人が死んでいるのに楽しんでいるのか。おかしな考えが頭をよぎって私は首を振った。そんなはずないじゃない。夏風走一郎はただ素直に感情を顔に出さないだけ、そうに決まってる。

 そんな困惑する私の気持ちを知ってか知らずか、五味民雄が呆れたような口調でこうたずねた。

「おまえ、随分と楽しそうだな」

「そうかな。別に人が死んだことを楽しんでるつもりはないけど」

 応える夏風走一郎は、満面の笑顔。

「ないけど、でも目の前にある謎については素直に興味深いと思ってるよ。それは同情や哀悼あいとうとは別の次元の話だしね」

 五味民雄は思わず顔をしかめる。

「あのなあ……たとえば、次に殺されるのが自分かも知れないとか考えないのかよ」

「いいね五味くん。想像力が豊かで適度に話が飛躍する。君は本当に探偵向きだと思う」

「そんな話してねえだろ」

 五味民雄はくたびれたかのように、一つため息をついた。他方、夏風走一郎はその様子を面白そうに、いや嬉しそうに眺めていた。そしてこう口にするのだ。

「まあ次に殺されるのは僕ではないよ。それについては安心してるかな」

「えっ!」

 私は思わず声を上げてしまった。何故わかるのか。どうしてそんなことが言い切れるのか。問い詰めたかったが、上手く言葉が出てこない。対してまるで彫り込まれた菩薩像の笑みのように、夏風走一郎の笑顔は変わることがなかった。

「どうしてそれがわかるのかって言いたいのかな。自明の理だよ。二つの事件が同一犯による連続殺人なら、この犯行には意図や目的があるはずだ。犯人は通り魔でも快楽殺人鬼でもない。つまり被害者二人には、多かれ少なかれ殺される覚えがあったことになる。僕にはそんな覚えが一切ないしね」

「だけど、だけどアルファベットがあるじゃない。死体の側に書かれていたイニシャルが。犯人がNのつく人を殺そうとしたとき、たまたま奈良池先生がいたから殺した、とか、そういうことだってあるでしょう」

 私はなんだかムキになっていた。言葉の内容がいささか支離滅裂しりめつれつなのは自分でもわかっている。ただ、目の前にいる少年は利口なのかも知れない。優秀なのかも知れない。でも神様ではないのだ、間違えることだってある。あるに違いない。それを何とか本人にわからせたかった。わかって欲しかった。けれど杖を手にした名探偵は、私の主張などやすやすと退しりぞけてみせた。

「ねえ十文字さん。奈良池先生も絵棚先生も、殺されたのはおそらく夜のうちだ。何故だと思う?」

「何故って、それは、夜だと見つかりにくいから」

「そうじゃない。いいかい、この学校は全寮制だ。生徒はみんな寮に暮らしている。でも先生は違うよね。先生は誰も寮には住んでない。みんな通いじゃないか。なのにどうして夜の学校に先生がいたんだろう」

「それ、は」

 そこに背後から聞こえた五味民雄の助け船。

「そりゃ当直だろ」

「正解。犯人は教員の当直スケジュールを把握していた。その上で奈良池先生と絵棚先生を狙ったんだ。ただ単にNとEのイニシャルが欲しいだけなら、生徒の中にいくらでも居る。実際、僕のイニシャルはNだよね。でも犯人は足が弱くて体力のない、狙いやすいはずの僕ではなく先生を殺した。そこに明確な意図の存在を読み取るのは、飛躍のしすぎではないと思うよ」

 この言葉に五味民雄は唖然とした。

「……おまえ、まさか奈良池が殺された時点で」

「気付いたかってことかな。そりゃ気付くさ、自分が殺されてたかも知れないって思えば多少は真剣にもなる」

 多少なのか。私もまた唖然とするしかなかった。目の前に居る風のような印象の少年は、確かに神様ではない。でも、もしかしたら悪魔なのかも知れない、そんな非科学的な考えで頭が埋め尽くされそうになったとき。 

 部室の引き戸がノックされた。不意のことに驚き振り返れば、静かに戸を開け入って来たのはカウンセラーの入地。

「いやあ、お待たせお待たせ。遅なってごめんねえ」

「誰も待ってないが」

 冷静に返した五味民雄の言葉に入地はニッと歯を見せる。

「そんなん言うてええの? せっかく情報持ってきてあげたのに」

「情報って殺人事件の情報か。あんたそんなのに触れられるのかよ」

「ボクは県警の依頼でこの学校に来てる訳よ。だから事件の全部は無理やけど、学校やら保護者やらに伝えられる程度の情報にはボクの立場でも触れられるんやわ」

「守秘義務とかないのか」

「あるに決まってるやんか。で、何が知りたいかな。死体の側に書かれてあったアルファベットとか」

 思わず渋い顔でこめかみを押さえた五味民雄がつぶやいた。

「それはEだろ」

 白衣の入地は大げさに額を押さえた。

「あっちゃー、やっぱりこれはバレてたか」

 相変わらずの笑顔を向けた夏風走一郎が興味深げにたずねた。

「いま僕らが知りたい情報は二つです。まずは絵棚先生の死因。そしてこの事件が学園七不思議とつながってるのかどうか」

「七不思議との関係は不明やね。そもそも県警がこの点に注目してるのかも不明やから。死因については正式には司法解剖を待たなあかんのやけど、現時点で暫定的に挙げられてるのは……」

 ここで入地はちょっと不思議そうに首をかしげてこう続けた。

「どうやらモルヒネ中毒の症状が出てるらしい」

「モルヒネぇ?」

 まさか夏風走一郎が、こんな素っ頓狂な声を出すとは思わなかった。あの微笑みも消え去り、驚きに満ちた顔。これを見た入地は、ちょっと嬉しそうだ。

「さすがの名探偵も、これはちょっと予想外やったかな」

「だとすると」

 応えた夏風走一郎の目は、心ここにあらずを映していた。

「だとすると」

 指で空中に何かを描いていたが、それが何かは読み取れない。

「だとすると」

 口元を押さえ、真剣な顔で何かを考え込む。だとすると何なのか、そう問いたい気持ちはあったが、私も五味民雄も話しかけることができなかった。

「だとすると、これはいったいどういうことなんだ」

「何かわかったのか」

 ようやく言葉をいだ名探偵に、しびれを切らした五味民雄が勢い込んで問いかけた。これにまた風の如く爽やかな笑顔を向けると、夏風走一郎は静かに首を振った。

「わかったと言うほど何もわかりはしていないよ。でも七不思議との関係は何となく見えた。たぶん、中庭だ」

 第一校舎の閉鎖された中庭に長い髪の女の幽霊が出る。それは確かに学園七不思議の一つ。だけど。

 入地はキョトンとした顔で不思議そうにたずねた。

「中庭がどこから出てくるん?」

 そう、その点がまったくわからない。いったい何をどう考えたらそんな解答が出てくるのか。何の関係もないとしか思えないのだが。

 夏風走一郎は考えをまとめるためか、しばらくうつむき、やがて顔を上げて話し始めた。

「ポイントはモルヒネってとこだろうね」

 モルヒネ。名前くらいなら知っている。麻薬の一種だということも。でもそれ以外は何も知らない。これがポイントになると言われても、私にはピンと来なかった。

覚醒剤かくせいざいなら話は違ってくるんだよ、現実に出回ってるからね。あるいは向精神薬や鎮痛剤の過剰摂取なら今風かも知れない。でもモルヒネだから。ヘロインならまだしも、いまどき暴力団だってモルヒネなんて扱ってないだろう。そんなモルヒネをどうやって手に入れる? 確かに重篤な病人に鎮痛剤として投与するためのモルヒネは病院にあるかも知れない。けど一介の高校教師が病院からモルヒネを横流しするルートに絡めるだろうか。僕は無理なんじゃないかと思うけどなあ」

 夏風走一郎は当たり前のような顔で話していたが、私の頭は追いつくのがやっとだった。この当時の私には、覚醒剤とヘロインとモルヒネの違いも関係性もわからなかったのだから。

 参考までに覚醒剤とヘロイン、モルヒネについて簡単に紹介しておく。

 マオウ(麻黄)という植物から抽出されたエフェドリンを基に、ここから合成されたアンフェタミン、メタンフェタミンなどの薬剤の総称を覚醒剤という。

 一方ケシ(芥子)という植物を傷つけた際に出る液体を集めて固めた物がアヘンであり、このアヘンから抽出されるのがモルヒネ、そしてモルヒネを精製して作られるのがヘロインである。

 話を戻そう。夏風走一郎は続けてこう言った。

「さて、それじゃあ絵棚先生がモルヒネ中毒になった一番もっともらしい解答って何だろう。それはもちろん犯人に注射されたから。では犯人は何故わざわざモルヒネを使って殺したのか。いちいち学校の外から持参した? いいや、僕が思うにおそらく、そこにあったから使ったんだよ。つまり、絵棚先生は自分で作ったんじゃないかな、モルヒネを」

 意表を突かれて言葉が出ない。この点は五味民雄も私と同じだったらしい。だがカウンセラーの入地だけは違ったようだ。

「個人で作れるもんなんかな、モルヒネを」

「さあ。もちろん僕だってモルヒネの作り方なんて知りませんよ。でもアヘンから抽出されることくらいは知ってます。そしてアヘンが植物のケシから取れることも。つまり論理的には、原料のケシさえ用意できればモルヒネを抽出できる可能性はあると考えられる訳です。化学教師のマニアックな知識を最大限過大評価すればね」

 しかし入地は否定的なようだった。

「いや、その原料のケシを用意するんは簡単やないと思うけど」

「問題はそこです。成人の致死量を超える分量のモルヒネを抽出するには、さすがにケシの一本二本じゃ無理でしょう。かなり大量のケシが必要なはず。マリファナならともかく、ケシなんて国内ではブラックマーケットですら流通してないんじゃないかな。ヘロイン売りさばく方が簡単ですしね。つまり買いたくても買えない。ならばどうするか。短絡的に考えれば」

 短絡的。言葉の意味が頭の中で崩壊した。この爽やかな笑顔の内側に短絡的な発想が存在しているのかどうかすら疑わしい。私の疑惑に満ちた視線を受けてなお、平然と夏風走一郎はこう言った。

「……野生化したケシの群生地の場所を把握していたんじゃないかと」

「野生化? ケシがその辺に生えているっていうの」

 思わず口をついた私の言葉に、夏風走一郎は小首をかしげた。

「おや知らないのかい、ジャーナリスト志望の十文字さん。ケシなんて日本中で野生化して群生してるよ。役所や警察、場合によっては自衛隊までかり出して撲滅作戦を繰り広げているけど、繁殖地は広がる一方だ。ならば僕らが知らないだけで、この近辺に群生地があっても不思議はない。そこから人に知られずケシ坊主に傷を付けて、流れ出る液を集めることができたなら、一人分のモルヒネを作るためのアヘンくらいは取れたのかも知れない」

 しかし五味民雄は難しい顔を向けた。

「理屈としてはわかる。可能性もあるんだろう。だが実際のところどうやって」

「そう、誰にも知られずケシの汁を集めることが、果たして実際に可能なのだろうか。どんな条件が成立すればそれは可能になる。高校教師が出入り可能な、それでいて誰にも見つからないケシの群生地。そんなものが、いったいどこにあるんだ」

 問いかけるような夏風走一郎の言葉。私たちを誘導しているのだ、解答へと向かって。

 入地はほおをポリポリかきながら、懸命けんめいに頭を巡らせているようだった。

「それは死んだ絵棚先生の行動範囲がわからんことには探されへんのやないの」

「行動範囲ね。先生の普段の行動範囲なんて売店や学食が限界なんじゃないかなあ。もちろん仕事がない夜や日曜祝日に遠出していた可能性はなくはない。でもそこまでは権力も人数も持たない僕らには調べようがないですよ。それに」

 夏風走一郎はクスッと笑った。このときの私にはそれが悪魔の微笑みに見えた。

「ケシは一年草ですからね、冬には枯れる。すなわち一年中いつでもアヘンが採取できる訳じゃない。雨が降っても難しいだろうし、そういったことを考慮すると、休暇を利用するのはリスクばかりで現実的じゃないように思えるんです」

 のんびりとした口調に、五味民雄は焦れて苛立っていた。

「だからつまり何なんだ。結論を言え」

「それはつまり言い換えれば、ケシの群生地は休暇を必要としない、毎日のように顔が出せるほど近くにあって、それでいて人目につかず怪しまれない場所に存在しているはずなんだよ」

 私は思わず「あっ!」と声を上げてしまった。ようやく点と点が線でつながったのだ。何てこと。夏風走一郎は独力で、この短時間でこの結論に考え至ったというのか。

 悪魔の頭脳を持つ名探偵は私を見つめて笑顔でうなずいた。

「この学校の第一校舎は知っての通り、上から見れば正方形だ。正方形の縁に沿って外周に教室が並び、その内側に廊下が通っている。しかし構造を考えれば廊下より内側にも空間があってしかるべきなのに、廊下には内側に窓もなければ、内側に入る出入り口も見当たらない。誰だって不審に思うさ。これに関して僕らの先輩たちはイロイロ考えた末に、内側には閉鎖された誰も入れない中庭があると結論づけたんだね。そしてそこに尾ヒレがついた。曰く、中庭には死体が埋まってるとか、長い髪の女の幽霊が現れ、見た者を呪うとか。でももしこの中庭に、ケシの大群生地があるとしたら?」

 推理研究会の部室は、見えない静寂せいじゃくのカーテンに閉ざされた。誰も言葉が出ない。それはそうだろう、この状況で何を言えばいい。

 だが解答は提示された。これを望んだからこそ、自分は新聞部の部室ではなくここにいたのではないか。異論がなければ受け入れるしかあるまい。

 しばしの沈黙の後、最初に口を開いたのは入地。しかしそれは反論ではなく。

「ケシの大群生地があるとしたら……それを知ってるのは誰やろうね」

 そのとき夏風走一郎の顔に一瞬浮かんだのは哀しさか、寂しさか。

「そうですね、少なくとも校長先生と理事長は知ってるでしょう。そして当然亡くなった絵棚先生、奈良池先生かな」

「奈良池先生もモルヒネ絡みで殺された、って君は思てる訳か」

「園芸部の顧問ですしね。ケシの管理をするには適任だったのかも知れません」

 夏風走一郎の言葉に、入地は険しい顔を見せた。そしてしばらく考え込むと、思い切ったように口を開く。

「夏風くん、このこと警察に話してもええかな」

「ええ、いいですよ」

 あっけないまでに、周りが拍子抜ひょうしぬけするほど簡単に少年探偵はうなずいた。

「僕は謎を推理することに興味があるだけなんで、犯人捜しは警察でやってもらえれば」

「そう言うてもらえるんは助かる」

 緊張した面持ちの入地は口元に小さな笑みを浮かべると、白衣をひるがえして推理研究会の部室から出て行った。

 五味民雄が複雑な表情で夏風走一郎をうかがった。

「本当に良かったのか、これで」

 けれど相手は本当にサッパリした笑顔でこう言うのだ。

「僕としては何の問題もないよ。校長先生だって警察に協力するなとは言わないだろうしね、たぶん」

「そりゃそうだが」

 だが夏風走一郎の言葉が正しければ、その校長先生は犯罪の片棒を担いでいたことになる。警察が見逃すとは思えない。この先、学園は蜂の巣をつついたような大騒ぎに巻き込まれるだろう。

「明日からとんでもないことになりそう」

 私は思わず両手で顔を押さえたのだが、夏風走一郎は窓の外の景色を眺めながら静かにつぶやいた。

「果たしてそうなるかなあ」

「……え?」

「世の中ってさ、そう簡単に上手くは行かないと思うんだ。僕はね」

 そう言うと夏風走一郎は無言で立ち上がり、杖をつきながら部室の入り口に向かった。私と五味民雄は一瞬顔を見合わせたものの、このときは後を追うしかなかった。
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