約束というほどではなくても

柚緒駆

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第23話 十文字香の手記 その十一

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 絵棚義孝よしたか教諭は三十二歳、男性、独身。しかし彼女がいるらしいともっぱらの評判だった。身長はさほど高くなく、丸顔に似つかわしく性格も温和。女子からも男子からもそれなりに人気の先生で、化学準備室にはよく生徒が入りびたっていたそうだ。

 教え方も上手く、彼が化学を担当したクラスは軒並み好成績で、あまりに他と差ができるため、事前にテスト問題を教えているのではないかとの疑惑まで生じたことがある。

 本当は母校の中学校の先生になりたかったらしいのに、いろんなタイミングやら巡り合わせやらでこの学園に来たそうだ。本人はそれを幸運だったと生徒に話していたそうだが、結果的には不運となってしまった形だ。

 一限目の終わった休憩時間、私は化学教室へと足を運んでみた。案の定、前の廊下に人だかりができている。何とかかき分けて前に出てはみたものの、黄色いテープで規制線が張られた向こう側には制服の警察官が二人立っているだけ。化学教室と化学準備室の中でどんな捜査が行われているのかは見えない。

「あ」

 その小さな声に右隣を見れば、新聞部の万鯛部長が何やらメモを取っていた。そんな必死にメモを取るような情報が見つかったのだろうか。

「な、何だよ」

「別に」

 そう、別に腹を立てている訳でも馬鹿にしている訳でもない。ただ彼のジャーナリズムに対する姿勢に疑問符がついただけだ。それは人間性を否定するほどのことではない。そんなことにこだわって他人を評価するのは子供じみている。と、理屈ではわかっているのだが。

 ふと左隣に立つ影を見上げると、そこにも見知った顔があった。

「あれ、五味くんも来てたんだ」

「ああ」

 何だおまえか、と言いたげに五味民雄は横目で返事をする。背後で万鯛部長が息を呑む気配がした。そんな不良と知り合いなのか、とでも言いたいのかも知れない。小姑でもあるまいに。まあいい、放っておこう。

「今日、夏風くんは?」

 私の問いに、五味民雄は面倒臭そうに「知るか」とつぶやいた。

 まあクラスが違うのだし、誘い合ってここまで来るのも少し変かも知れない。このときの私はそれどころではない、他に知りたいことが山のようにあるのだから。

「ねえ、何かわかった?」

「ずっとこうだ。何もわかる訳ないだろ」

 確かに、警察官二人が無言で立っているだけの様子から何かを読み取るのは至難しなんわざだ。メモなど取るまでもない。

「中の刑事の話とか聞こえてこないもんなの」

「聞こえねえよ」

「何か推理のヒントになりそうなこと起きなかった?」

「そんなもん起きるか」

 五味民雄の返事はいつにも増してぶっきらぼう。夏風走一郎がいないからだろうか。それとも。

「ねえ五味くん、ひょっとして……」

「……何だよ」

 私は五味民雄の目をのぞき込んだ。

「女子苦手なの?」

 五味民雄はにらみ殺さんばかりの視線で私を見つめた。

「おまえなあ」

 怒りはするが否定はしない。なるほど、私がイロイロ納得していると、背後から耳元でささやく声が。

「やっぱり来てたね」

「うわっ、なっ」

 慌てて振り返れば白衣のカウンセラーが立っていた。

「入地さん、何ですかいきなり!」

「何って挨拶しただけやないの。青少年はデリケートやねえ。五味くんもどうも」

 すると何やら急にテンションが上がりだしたのが万鯛部長。

「あ、入地さん! 先日は取材の方、ありがとうございました」

「ああ新聞部の。ええと……誰やったかな」

「万鯛です! 部長の万鯛です!」

「そうそう、万鯛くん。おつとめご苦労さん」

 そう適当に答えると、笑顔の入地は警官二人しかいない廊下を見つめて苦笑した。

「さすがにこれでは、どんな名探偵でも手も足も出んわな。夏風くん来てないみたいやけど、正解」

 と、そのとき化学教室の引き戸が開き、中からスーツ姿の大柄な男が五人ほど出て来た。刑事か。おや、一番若そうな刑事がこちらを見ている。顔をしかめながらこっちに早足で向かってきた。何、いったい何。

 しかし腰の引けた私に目もくれず、髪の短い若い刑事はため息をついてこう言った。

「おい六界」

 これに応じたのは入地カウンセラー。

「やあ幾津くん、君がおるいうことは、事件の担当は所轄から県警捜査一課に移った訳やね」

「おまえに答える必要はない。それより、こんなところで何してる」

「何ってカウンセラーやから。カウンセリングが必要な人が居てないか探してるんよ」

「だったら保健室に居ればいいだろ」

「ボクはディフェンスタイプやなくてオフェンスタイプやし」

「意味がわからん。とにかく、余計なことをするなよ」

「心外やなあ、ボクは君の邪魔なんかしたことないと思うけど」

 幾津刑事は一度ジロリと入地をにらむと、背を向けて去って行った。

「相変わらずクソ真面目一直線なことで」

 口元に笑みを浮かべる入地の顔には、同情のようなものが浮かんで見えた。

「お知り合いなんですか」

 私の問いに、白衣のカウンセラーは小さくうなずいた。

「学生時代からの友人でね。まあ向こうに言わせれば腐れ縁らしいけど」

 ああ、何となくわかるような気がする。思わず納得していた私に、そっと入地が近づいた。

「十文字さん、ちょっと耳貸して」

「え、な、何ですか」

「ええから、ええから。ちゃんと返すし」

 そう言うとまた入地は小さな声でささやいた。
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