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第11話 十文字香の手記 その五
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「で、結局のところ真犯人は誰」
気持ちを抑えきれず前のめりで問う私に、窓辺の椅子に座る夏風走一郎は小さく苦笑した。
「せっかちだねえ。そんな簡単に真犯人がわかるはずないじゃないか」
開いた窓から四月の風が入って来る推理研究会の部室。狭い室内にいるのは三人。私と夏風走一郎、そして五味民雄。
「どうだい五味くん、我が推理研究会の部室は。見事に何もないだろう。でも推理に没頭できる環境は整っているよ」
確かに部屋の主が言うだけあって、本当に何もない。ロッカーもなければ机もない。部室に入ってパッと見、見えるのは窓辺の椅子が一つだけである。
ただし部室の廊下側の壁には小さなスチール製の本棚があり、スクラップブックが何冊か立てかけられていた。そのうちの一冊を五味が手に取って開くと、中に貼り付けてあったのは新聞や雑誌記事の切り抜き。
「実際に起こった事件の顛末や犯行の動機を想像するのは、推理力を鍛える基本だからね」
さも「君もどうだい」と言わんばかりの夏風走一郎に、五味民雄は冷たい目を向けた。
「悪趣味だな」
スクラップブックをパタンと閉じ本棚に戻した問題児に、困ったような顔を浮かべる名探偵。何だこの変な構図。夏風走一郎は残念そうに口を尖らせた。
「創作家なら誰でもやるトレーニングだと思うんだけどな」
「俺は創作家になるつもりはない」
「じゃあ将来何になるんだい」
そう何気なく問われて、五味民雄は答えに窮した。何も思いつかない、将来やりたいことが何も見つからない、そんなところだろうか。だが私たち三人はもう高三、進学先や就職先を具体的に決めるためのタイムリミットは、すぐそこまで来ていた。
同じことを考えていたかどうかは不明だが、夏風走一郎は不意にこう言った。
「だったら五味くん、私立探偵なんてどうだろう。君にピッタリの仕事だと思うんだけど」
「あのな、そんな話をしにきた訳じゃ……」
「私立探偵と公立探偵すなわち警察官の最大の違いがわかるかい。それはね、私立探偵には証拠に基づく推論を立てる義務がないことなんだ。警察官はそういう訳には行かない。証拠もなしに推論など立ててしまっては、いくら辻褄が合っていようと検察に送致できないし、仮に検察に送れたところで起訴はできないだろう。しかし私立探偵は違う。証拠のあるなしに関係なく、事件の真相に迫ることができるんだ。凄いと思わないかい」
凄い、のかな。私は横で聞いていて、マルチ商法の勧誘を思い出していた。五味民雄も素直にハイそうですかとは言えなかったのだろう。
「……いや、それって結局責任を問われない、同時に説得力もなんもない立場ってだけなんじゃないのか」
「確かにそうとも言う」
指摘に夏風走一郎は笑顔でうなずき、即答した。
「でも犯人を捜し出すことができれば、警察の捜査方針に影響を与えることも可能だ。つまりフィクションのように私立探偵が事件を解決できるかどうかと言えば、間接的にはできる話なんだ」
だが五味民雄はいかにも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの顔でため息をついた。
「そんなことして何になる。警察から金一封を受け取って喜べってか。そんな仕事じゃ生活できないだろうがよ」
「世知辛いねえ。人として生きて行くには誇りも自信も必要だよ。社会のためになる仕事をしているという自負は、人生を豊かにしてくれると思うんだけどなあ」
これに五味はカチンと来たようだ。
「そんな自負が欲しけりゃ市役所の窓口職員でも目指すわ。その方がよっぽど豊かな生活ができるだろうが。私立探偵とか、アホかふざけんな。完璧な負け組じゃねえか。やりたきゃテメエがやれ」
すると夏風走一郎は困ったような顔で、手元の金属製の杖を持ち上げ軽く振った。
「できるものなら、やりたいんだけどねえ」
このときの私はまだ詳細を知らなかった。噂によれば彼の体は病に冒されているらしい、という程度の知識だった。本来なら特別支援学級のある学校を受験すべきだったのだろうが、この私立寺桜院学園高等学校を受験し、全科目で最高点を叩き出した事実は、もはや伝説の域に達していた。そして入学からこれまで定期テストで上位三傑から脱落したことが一度もないことも。
それなりの特別体制を敷いて学園が彼を受け入れているのは、故なき話ではない。会って話をしたことがなくても、学園内の誰もが知っている有名人。それが夏風走一郎だった。
「あの、それはともかく、真犯人は」
私だって空気が読めない訳ではないのだが、このときは事件の真犯人を知りたいという欲求が先に立っていた。新聞部副部長としての意識、いや、それより個人的好奇心の方が上回っていたのかも知れないけれど。
でも我らが名探偵は笑顔で平然とこう答えたのだ。
「だから言ったじゃないか。そんなのわかるはずないよ、いまの段階で」
「えっ、もしかして本当に全然わからないの。出し渋ってる訳じゃなくて」
「わからないねえ。推理は魔法じゃないから、段階も踏まずにいきなり真犯人の名前が浮かび上がったりはしないんだよ。それに僕は謎に興味があるだけであって、真犯人の名前にはまったく興味がないからね。ただ」
「……ただ?」
「何でNなんだろう」
窓枠に頬杖をつく夏風走一郎の姿は、まるで光を浴びる彫像のように見えた。
「奈良池先生のイニシャルだからNなのかな。だけど、それをわざわざ書いた意味は。いったい誰に見せたかったのか」
まるで独り言のように話す夏風走一郎に、私は何故か声をかけられなかった。だから代わりに、という訳ではないのだろうけれど、五味民雄が慎重に、言葉を選ぶようにたずねた。
「Nが重要だと考えているのか」
「いや重要というか、取っ掛かりにはなるだろうと思ってさ。まあおそらく……」
言葉はそこで不意に途切れた。夏風走一郎は困ったような顔で沈黙し、私と五味民雄は思わず顔を見合わせた。遠くに聞こえる吹奏楽部のトランペット。ロッキーのテーマだったろうか。
「おそらく、何だよ」
問う五味民雄の声に、僅かばかりの緊張が感じられた。対する夏風走一郎は目を合わさず、ひとつため息をついてこう口にした。
「できれば言いたくないんだけどなあ」
「おい、ここまで来てそれはねえだろ」
五味の言い分はもっともだ。ここでお預けを食らうのは困る、それはさすがにあんまりだと私も思った。夏風走一郎は一度「うーん」と唸ると、諦めたかのように私たちを横目で見つめた。
「Nがもし取っ掛かりになるのなら、そこから事件のより詳しい情報が明らかになるのだとしたら、それはおそらく……次の殺人事件が起こったときだと思うんだよ」
唖然とする私と、愕然とする五味民雄。再び聞こえるトランペットの音。私の頭の中にはその言葉がこだましていた。次の殺人事件?
体を前のめりにして五味民雄は声を上げた。少し震えていたかも知れない。
「おまえ、殺人事件がもう一度起こるって考えてるのか」
「さあ、一度で終わるかどうかはわからないけどね、続きはありそうな気がしてるよ」
相も変わらず平然と答える夏風走一郎に、私も思わず質問をぶつけた。
「何で。どうしてそんな気がするの」
「今回奈良池先生の殺された理由が個人的な恨みなら、これで終わりかも知れない。だけどNの字がある。この犯人は何かを伝えようとしている。なら、伝わるまで事件は繰り返されるんじゃないかな」
この国には古来より言霊という考え方がある。口から発せられた言葉が力を持ち、現実に影響を与えるというものだ。いわゆる縁起の良し悪しに含まれることもあるこれを、私は思い出していた。
夏風走一郎が言葉にしたから次の殺人事件が起きる、なんてそんな馬鹿な話はない。そんなことはあり得ない。だが結果的にそうなってしまうような気がして、全身に走る悪寒を止められなかった。
気持ちを抑えきれず前のめりで問う私に、窓辺の椅子に座る夏風走一郎は小さく苦笑した。
「せっかちだねえ。そんな簡単に真犯人がわかるはずないじゃないか」
開いた窓から四月の風が入って来る推理研究会の部室。狭い室内にいるのは三人。私と夏風走一郎、そして五味民雄。
「どうだい五味くん、我が推理研究会の部室は。見事に何もないだろう。でも推理に没頭できる環境は整っているよ」
確かに部屋の主が言うだけあって、本当に何もない。ロッカーもなければ机もない。部室に入ってパッと見、見えるのは窓辺の椅子が一つだけである。
ただし部室の廊下側の壁には小さなスチール製の本棚があり、スクラップブックが何冊か立てかけられていた。そのうちの一冊を五味が手に取って開くと、中に貼り付けてあったのは新聞や雑誌記事の切り抜き。
「実際に起こった事件の顛末や犯行の動機を想像するのは、推理力を鍛える基本だからね」
さも「君もどうだい」と言わんばかりの夏風走一郎に、五味民雄は冷たい目を向けた。
「悪趣味だな」
スクラップブックをパタンと閉じ本棚に戻した問題児に、困ったような顔を浮かべる名探偵。何だこの変な構図。夏風走一郎は残念そうに口を尖らせた。
「創作家なら誰でもやるトレーニングだと思うんだけどな」
「俺は創作家になるつもりはない」
「じゃあ将来何になるんだい」
そう何気なく問われて、五味民雄は答えに窮した。何も思いつかない、将来やりたいことが何も見つからない、そんなところだろうか。だが私たち三人はもう高三、進学先や就職先を具体的に決めるためのタイムリミットは、すぐそこまで来ていた。
同じことを考えていたかどうかは不明だが、夏風走一郎は不意にこう言った。
「だったら五味くん、私立探偵なんてどうだろう。君にピッタリの仕事だと思うんだけど」
「あのな、そんな話をしにきた訳じゃ……」
「私立探偵と公立探偵すなわち警察官の最大の違いがわかるかい。それはね、私立探偵には証拠に基づく推論を立てる義務がないことなんだ。警察官はそういう訳には行かない。証拠もなしに推論など立ててしまっては、いくら辻褄が合っていようと検察に送致できないし、仮に検察に送れたところで起訴はできないだろう。しかし私立探偵は違う。証拠のあるなしに関係なく、事件の真相に迫ることができるんだ。凄いと思わないかい」
凄い、のかな。私は横で聞いていて、マルチ商法の勧誘を思い出していた。五味民雄も素直にハイそうですかとは言えなかったのだろう。
「……いや、それって結局責任を問われない、同時に説得力もなんもない立場ってだけなんじゃないのか」
「確かにそうとも言う」
指摘に夏風走一郎は笑顔でうなずき、即答した。
「でも犯人を捜し出すことができれば、警察の捜査方針に影響を与えることも可能だ。つまりフィクションのように私立探偵が事件を解決できるかどうかと言えば、間接的にはできる話なんだ」
だが五味民雄はいかにも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの顔でため息をついた。
「そんなことして何になる。警察から金一封を受け取って喜べってか。そんな仕事じゃ生活できないだろうがよ」
「世知辛いねえ。人として生きて行くには誇りも自信も必要だよ。社会のためになる仕事をしているという自負は、人生を豊かにしてくれると思うんだけどなあ」
これに五味はカチンと来たようだ。
「そんな自負が欲しけりゃ市役所の窓口職員でも目指すわ。その方がよっぽど豊かな生活ができるだろうが。私立探偵とか、アホかふざけんな。完璧な負け組じゃねえか。やりたきゃテメエがやれ」
すると夏風走一郎は困ったような顔で、手元の金属製の杖を持ち上げ軽く振った。
「できるものなら、やりたいんだけどねえ」
このときの私はまだ詳細を知らなかった。噂によれば彼の体は病に冒されているらしい、という程度の知識だった。本来なら特別支援学級のある学校を受験すべきだったのだろうが、この私立寺桜院学園高等学校を受験し、全科目で最高点を叩き出した事実は、もはや伝説の域に達していた。そして入学からこれまで定期テストで上位三傑から脱落したことが一度もないことも。
それなりの特別体制を敷いて学園が彼を受け入れているのは、故なき話ではない。会って話をしたことがなくても、学園内の誰もが知っている有名人。それが夏風走一郎だった。
「あの、それはともかく、真犯人は」
私だって空気が読めない訳ではないのだが、このときは事件の真犯人を知りたいという欲求が先に立っていた。新聞部副部長としての意識、いや、それより個人的好奇心の方が上回っていたのかも知れないけれど。
でも我らが名探偵は笑顔で平然とこう答えたのだ。
「だから言ったじゃないか。そんなのわかるはずないよ、いまの段階で」
「えっ、もしかして本当に全然わからないの。出し渋ってる訳じゃなくて」
「わからないねえ。推理は魔法じゃないから、段階も踏まずにいきなり真犯人の名前が浮かび上がったりはしないんだよ。それに僕は謎に興味があるだけであって、真犯人の名前にはまったく興味がないからね。ただ」
「……ただ?」
「何でNなんだろう」
窓枠に頬杖をつく夏風走一郎の姿は、まるで光を浴びる彫像のように見えた。
「奈良池先生のイニシャルだからNなのかな。だけど、それをわざわざ書いた意味は。いったい誰に見せたかったのか」
まるで独り言のように話す夏風走一郎に、私は何故か声をかけられなかった。だから代わりに、という訳ではないのだろうけれど、五味民雄が慎重に、言葉を選ぶようにたずねた。
「Nが重要だと考えているのか」
「いや重要というか、取っ掛かりにはなるだろうと思ってさ。まあおそらく……」
言葉はそこで不意に途切れた。夏風走一郎は困ったような顔で沈黙し、私と五味民雄は思わず顔を見合わせた。遠くに聞こえる吹奏楽部のトランペット。ロッキーのテーマだったろうか。
「おそらく、何だよ」
問う五味民雄の声に、僅かばかりの緊張が感じられた。対する夏風走一郎は目を合わさず、ひとつため息をついてこう口にした。
「できれば言いたくないんだけどなあ」
「おい、ここまで来てそれはねえだろ」
五味の言い分はもっともだ。ここでお預けを食らうのは困る、それはさすがにあんまりだと私も思った。夏風走一郎は一度「うーん」と唸ると、諦めたかのように私たちを横目で見つめた。
「Nがもし取っ掛かりになるのなら、そこから事件のより詳しい情報が明らかになるのだとしたら、それはおそらく……次の殺人事件が起こったときだと思うんだよ」
唖然とする私と、愕然とする五味民雄。再び聞こえるトランペットの音。私の頭の中にはその言葉がこだましていた。次の殺人事件?
体を前のめりにして五味民雄は声を上げた。少し震えていたかも知れない。
「おまえ、殺人事件がもう一度起こるって考えてるのか」
「さあ、一度で終わるかどうかはわからないけどね、続きはありそうな気がしてるよ」
相も変わらず平然と答える夏風走一郎に、私も思わず質問をぶつけた。
「何で。どうしてそんな気がするの」
「今回奈良池先生の殺された理由が個人的な恨みなら、これで終わりかも知れない。だけどNの字がある。この犯人は何かを伝えようとしている。なら、伝わるまで事件は繰り返されるんじゃないかな」
この国には古来より言霊という考え方がある。口から発せられた言葉が力を持ち、現実に影響を与えるというものだ。いわゆる縁起の良し悪しに含まれることもあるこれを、私は思い出していた。
夏風走一郎が言葉にしたから次の殺人事件が起きる、なんてそんな馬鹿な話はない。そんなことはあり得ない。だが結果的にそうなってしまうような気がして、全身に走る悪寒を止められなかった。
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