約束というほどではなくても

柚緒駆

文字の大きさ
上 下
8 / 52

第8話 十文字香の手記 その三

しおりを挟む
 二階建ての第四校舎は授業に使われることのない部活棟。主に文化部の部室が入っている。

 二階の片隅にある一番小さい部屋を真ん中で間仕切りした西側が切手同好会。世界中の切手を集めているらしい。そのコレクション数は専門家も驚く規模だというが、このときの私には関係ない。

 そして東側にあったのが、目的の推理研究会だった。

 研究会といっても幽霊部員を除けば活動しているのはたった一人。発起人にして会員兼会長の夏風なつかぜ走一郎そういちろうは同じ三年、ある意味学園内の有名人ではあったので顔は知っていたのだが、話をしたことはない。寺桜院タイムズでは毎号各部活を訪問して記事を書く。しかし昨年推理研究会を担当したのは上級生で、私がこの部屋を訪れるのも初めてだった。

 なのに夏風走一郎は、日差しの入る窓辺に置かれたパイプ椅子に腰掛けて外を眺めながら、私が戸を引き開けると同時にこう言ったのだ。

「やあ、新聞部の十文字香副部長じゃないか。話すのは初めまして、だね」

 もちろん私だってこの程度で面食らいはしない。

「私が来ることを知ってたの。それとも推理?」

「推理と言うほどの推理じゃない。窓の外を見ていたら、君が難しい顔で他の部員も連れずにこの第四校舎にやって来るのが見えたからね、うちを訪れる可能性もあるんじゃないかって考えただけだよ」

「他の部に用があるとは思わなかったの」

「それはもちろん思ったさ。だけどあんな事件のあった直後だ、学園側からストップはかかってるだろうけど、新聞部内では大騒ぎのはずじゃないか。なのに副部長が一人でここまで足を運んでる。単なる部活訪問の訳がないよね」

 そう答えると夏風走一郎はようやく窓から視線を外し、こちらを見て微笑んだ。まさに野を走る夏の風の如く、思わず気後れするほどのさわやかな笑顔。名は体を表す。ただ惜しむらくは、手元の金属製の杖さえなければ。

「……さすがは推理研究会会長。ちょっとしたホームズね」

 しかし私が発したその言葉に、彼はキョトンとした顔を向けた。

「ああ、そうなの? ごめんね、ホームズは読んだことなくて」

 この一言にはさすがの私も面食らった。

「え、読んだことがないって。シャーロック・ホームズを?」

「もちろんアーサー・コナン・ドイルの名前くらいは知ってるよ。でも本は読んだことがないんだ」

「いや、あの、でも、推理研究会よね、ここ」

「そうだよ、ここは推理研究会。文字通り推理を研究するための同好会さ。推理小説研究会じゃなくてね」

 どう反応すればいいのだろう。ジョークなのか? からかわれているのか? 笑うべきなのか真面目に怒るべきなのか。しかしこのときの私には、夏風走一郎の笑顔に嘲笑が含まれているとは思えなかった。

「ちなみに推理の研究って、つまり、どういう」

「簡単なことさ。いろんな状況においてどんな推理が成り立つか、実際の事件を題材にしたり架空の設定を作ったりして思考実験を繰り返すんだ。でもこの面白さを理解してくれる同好の士が少なくてね、みんな籍だけ置いて顔を見せなくなる」

 夏風走一郎は困ったような笑顔を浮かべているのだが、それはそうだろう。私にだって何が面白いのかわからなかったのだから。いや、世間で大きな事件が起こったとき、その背景や顛末てんまつをああでもないこうでもないと類推るいすいするくらいは私だって新聞部でやっている。しかしその部分だけを取り出して毎日のように繰り返すことに意味があるのか。そのために同好会を立ち上げるまでするくらい面白いことなのか。いったいどこが?

 ただ、私がこのとき求めていたのはまさにそれだ。学園内で大きな事件が起こった。これがいったい何故、どのような理由で、どんな背景の下に起こったのかが知りたい。

 警察に取材ができればいいのだが、学校側から許可が下りなかったし、そもそも警察だって捜査上の秘密を高校生にホイホイしゃべってはくれないだろう。それはわかっていたものの、でも諦めきれず、可能性を追い求めた末に私はここへ足を運んだのだ。

「私がここに来た理由もわかっているのね」

「昨日の朝の事件について見解を問いたい、ってとこかな。生物の奈良池先生がまるで人体模型と踊るように死んでいたって。他に思い当たる節はないなあ」

 生物準備室の人体模型は月のない夜に踊るという。これもよく知られた学園七不思議の一つ。生物教師で園芸部の顧問、奈良池滝野たきの教諭の死体がその人体模型と手をつなぎ、まるで踊っている最中に倒れたかのような格好で見つかった。昨日の朝、生徒に発見されたという。

 奈良池先生は三十八歳、男性、独身。生物教師として特に有能だったとか博識だったとかいう評判は聞いたことがない。何年もクラス担任を任されていなかったところから、学園側からの評価もあまり高くないのではないかとうわさされていた。

 すらりとした長身だが、少なくとも女子の人気はあまりなかった。神経質ですぐに生徒を怒鳴りつけるのがその原因。陰ではガミガミくんとあだ名されていたほどだ。好かれていたか嫌われていたかの二者択一なら、間違いなく後者だろう。

 だがそんな嫌われ者でも、死んだとなれば話は別だ。まして死んだ場所が学校内ともなれば、全寮制のこの学園の特性上、非常に大きな動揺を生む。私たち三年生は受験に向かってもう余裕などないというのに、みんな授業をそっちのけで奈良池先生の死についての情報を欲していた。新聞部副部長の私を見る目がいささか血走っていたのも無理はないだろう。

 しかし、問われても答えられる情報は何もない。一昨日の夜に月が出ていたかどうかくらいならば天文部に確認すればすぐにわかるが、この段階ではまだ新聞部とはいえ、おおっぴらな動きができる雰囲気ではなかった。何せ人が死んでいるのだ、大げさな言葉の綾ではなく本当の意味で大事件である。警察も校内を出入りしているし、捜査の邪魔ができるはずもない。

 ただ私は生憎あいにくと、空気を読んで沈黙していられる性分ではなかった。警察の邪魔ができないのなら、邪魔にならない範囲で何かできることはないか、そう考えあぐねた末にこの推理研究会のことを思い出した。ただ単に生徒同士で事件の噂話をするだけなら、警察も困りはしないはずだ。

「夏風くんはどう思うの。あの事件のこと」

 したがって私がここに来たのは、あくまでも素人安楽椅子探偵の名推理を聞くためである。それなら警察の邪魔をすることはなかろうと。なのに、目の前の名探偵は杖を手に取ると勢いよく立ち上がった。あの病気の噂話は嘘なんじゃないかと思うくらい。

「情報が少なすぎるね。まずは容疑者の話を聞きに行こうじゃないか、十文字さん」

「え、容疑者?」
しおりを挟む

処理中です...