魔獣奉賛士

柚緒駆

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遠雷

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 誰かが泣いているのだろうか。冷たい滴が顔にかかる。そんなはずはないか。自分のために泣いてくれる者などこの世には存在しない。いや、もしかしたら一人だけいるかも知れない。そう、世界にたった一人だけ。その顔が見られる事を期待して、黒山羊公カーナは目を開けた。

「この魔界医ノスフェラ特製超絶高機能完璧回復液にかかれば、この程度の負傷などあっという間にこの通り!」

 目の前で自画自賛するのは、枯れ木に似た魔界医。カーナは思わずため息を漏らした。

「おやおや、カーナ様はご不満がおありのご様子」

 不満と言うより不安だ。首をかしげるノスフェラにそう突っ込もうとして、カーナは上手く声が出せない事に気付いた。

「喉が完全に潰されておりましたからな、いかなこのノスフェラの超医術でも、多少のお時間はいただきませんと」

 あっという間にこの通り、ではなかったのか。カーナは苦々しい顔をノスフェラに向けた後、周囲を見回した。もう夜だ。また夜だと言うべきか。しかし戦いの喧噪は聞こえてこない。少し離れた場所に見える壁はフーブ神殿の物のようだ。それをボンヤリと薄明かりが照らしている。炎の揺らめきはない。誰かが魔法で光球を発生させているのだろう。

「陛……下は」

 ようやく何とか絞り出した声でたずねる。ノスフェラの表情は変わらなかったが、その変わらぬ様が不気味に見えた。

「全回復までは、いましばらくお待ちください」

 そう言って立ち去ろうとする。

「待……て、陛……下、は」
「みまかられた」

 声が聞こえたのは、壁とは反対側の闇の中。そちらを向いて、ノスフェラは苦々しげにつぶやいた。

「スラ様」
「隠す意味はない」

 毒蛇公スラの声が闇に響く。

「炎竜皇はもうおられない。皇国ジクリフェルは終わりだ」
「そん……な、何故」

 そこに聞こえる、かそけき女の声。どちらの方向から聞こえるのかすらわからないほど、消え入るような。

「私のせいだ」
「おまえのせいではない」

 スラは即座に否定する。しかし。

「私がいなければ、陛下は」
「おまえのせいではない!」

 スラの声が激昂した。

「おまえが責任を取れるとでも言うつもりか! ふざけるな! ならばおまえを殺せば陛下が蘇るとでも言うのか! ふざけるな! ふざけるな!」
「スラよ」

 その野太い声は光球の向こう側から聞こえる。

「感情的になるなど、毒蛇公らしくもない。少しは落ち着け」

 ノスフェラが心配げに近寄って行く。

「フンム様、まだ傷口が塞がっておりません、動かれては」
「動きはせぬよ。せっかく助かった命だ、大事にせねばな。そうは思わんか、ゼタ。スラ。カーナも」

「そんな話はしていない」

 苛立つスラに、フンムは諭すように語りかける。

「いや、そういう話なのだ。我らがいまここに四賢者としていられるのは何故か。本日ここまで生きてこられたのは何故か。すべて炎竜皇のおかげであろう。ならばこの四つの命、一つたりとも無駄に使こうては炎竜皇に申し訳が立たぬ」

 そして一呼吸置いてこう続けた。

「違うか、ゼタ」

 かそけき声に小さな怒りが含まれた。

「私は罪を償う事もできないと言うのか」
「いいや、罪は償ってもらわねば困る。ジクリフェルの再興という形でな」

 誰が発したものか、息を呑む音。

「いずれ魔族より、炎竜皇の意思を継ぐ者が現れよう。真に魔族の王道楽土を築こうとする者が。それまで我ら四名は皇国ジクリフェルを維持せねばならん」
「主君なきままか」

 そのスラの声にフンムは応じる。

「そうだ。君主を空位にしたまま、国を護るのだ。長い旅にはなるだろうが」
「ギーア=タムールやザンビエンを向こうに回してか」

「ああ。馬鹿げていると思うか」
「当たり前だ。無駄、無意味、無価値、無理、できるはずがない」

「なればこそ、やり甲斐があるのではないか」
「……本気で言っているのか」

「無論本気だ。何を怖れる事がある。何を躊躇う理由がある。炎竜皇を失った我らはもはや死体も同然。誰に遠慮をする必要があろうか」

 闇の中で、小さな笑いが揺れた。

「いつ現れるとも知れぬ次の主君を待つと」
「待つとも。魔族の寿命は人のように短くはないからな。百年でも千年でも待ってみせる」

「何とも気の長い」

「魔族には国が必要だ。しかし我らが諦めれば本当にすべてが終わる。それは炎竜皇のご遺志に背く事にもなろう。なすべき事など最初から決まっているのではないか、スラよ」

 聞こえる小さなため息。そして地面をこするような音と共に、闇の中から巨大な毒蛇が姿を現した。

「いいだろう。その口車、乗ってやる」

 もたげた鎌首から、カーナに視線が落とされる。

「おまえ、どうする」

 黒山羊公は八本の足のうち一本を何とか挙げて賛意を示した。

「これで三名」

 残るは妖人公のみ。フンムの声が静かにたずねる。

「ゼタよ。お主はどうする」
「……少し考えさせて」

 かそけき声は震えていた。

「わかった。今夜はまず体を休めるとしよう」

 フンムがそう言うと、うっすらと張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。遠雷の音が聞こえる。


 進軍に次ぐ進軍。しかし当初こそ破竹の勢いで村や町を陥落させながらダナラム領内を北上し続けたアルハグラの軍勢であるが、体力は無限ではない。

 ただでさえ鍛え上げられた正規軍ではないのだ、徴発した民衆の反乱を抑え込む事すら難しく、さらには自分たちを率いるゲンゼル王が行方不明ときては、三十万の軍団もただの烏合の衆。戦略などなく、休む事もままならず、ただ前に進む事しかできなかった。

 その結果、首都グアラグアラの郊外で限界に達し、身動きが取れなくなって立ち往生していたところにフーブ神殿の周囲で始まった異能の戦い。まさか自分たちがそこに飲み込まれるなどとは思いもよらず。

 フーブの力は突然、内心に泉の如く湧き上がった。自分の意思との区別などつかない。ただフーブ神のために命をかける事のみが正義であると、怒りにも似た激情が兵たちの体を突き動かし、目の前に現れた聖騎士たちに闇雲に襲いかかった。しかし、波が引くのは一瞬。

 不意に心の中にぽっかりと穴が開き、戦意は失われる。隙間を埋めるのは絶望と恐怖。押し寄せる聖騎士軍団にアルハグラの軍勢は背を向け、元来た道を逃げ出した。だが山間を走るダナラムの道は狭く、大軍が一斉に後退するなど不可能。あっという間に渋滞し、足を止めざるを得なかった。そして兵の首は麦の穂のように刈り取られて行く。

 追い打ちをかけるのは稲妻。夜の暗闇に降る青い稲妻が大地をえぐるたび、兵たちが打ち倒されて行く。稲妻は決して聖騎士を打たない。アルハグラの兵だけを狙い撃ちにする。みるみるうちに築かれる死体の山。もう終わりだ、誰かがそう口にした、そのとき。

 稲妻が不意に止んだ。いや、雷鳴は聞こえている。幸いにもその場から逃げ出せた者の幾人かが空を見上げた。

「……海?」

 空に水が広がっている。浮かぶ透明な水の原を照らし出す青い閃光。落雷を受け止め、飲み込んでいるのだ。その中央真下に人の影が浮かぶ。だがそれが誰なのかにまで思い至る余裕のある者はさすがにいない。

 そこに聖騎士団が現れた。脇道などないはずなのに、回り込んでいたのだ。人の壁に阻まれて、もう逃げる場所などない。悲鳴が上がった。しかし次の瞬間、聖騎士たちの体は分厚い氷に閉じ込められる。

「いまのうちだ、逃げろ!」

 白い剣を振るう少年が叫んだ。言われなくても逃げる、逃げる、逃げる。兵たちは我先に、仲間の体を踏み越えて逃げ去って行った。

 少年は舌打ちをした。正直なところ、あいつらを助ける理由などない。天罰など信じてはいないが、ここで殺される理由を作ったのはあいつら自身だ。一切同情できないという訳ではないものの、自分の命をかけて助けるほどの事ではないはず。ただ、姫にとってはそうではない。

 悲鳴に向かってランシャは跳んだ。そして聖騎士の集団に向かって魔剣を振るう。数十人の集団を氷に閉じ込め、また次の悲鳴へと向かう。

 他人の信じる正義のために戦うなど、馬鹿げていると心底思う。だがいまのランシャには、リーリア姫以外に信じるものはない。リーリアは兵を助けろとランシャに言わなかった。しかし言わずともわかってしまうのだ、ならばそうする以外に何ができる。

 おそらく天上から稲妻を放っているのはギーア=タムール。いずれ姫の前に姿を現すだろう。それまで、とりあえずそのときまでは聖騎士たちの足を止めてやろう。その後の事までは知らない。


 まるで永遠に続く青い花火のように、ちらちらと水の中できらめき続ける光。それはとても怖い光なのだけれど、リーリアは見上げながら美しいと思ってしまった。その光が不意になくなり、空は闇に包まれる。

「お出ましだぞ」

 頭の中に聞こえるラミロア・ベルチアの声。自動的に体が動き、顔が向く。水の下、宙に浮く青い光。輝く聖剣リンドヘルドを右手に携えた男の姿。

「水の大精霊ラミロア・ベルチアか。考えてみれば、相対するのは始めてだな」

 リーリアの口から勝手に言葉が湧き出す。

「こちらとしては、できれば会いたくはなかったが」
「ザンビエンに手を貸すと決めたのは貴様自身の判断だろう。まさか人間どもに同情したなどとは言うまい」

「情にほだされるのは愚か者かね。ずっと人間に近い場所で暮らして来たんだ、多少は贔屓目にもなる」
「黙って隠れていれば、もう少し長生きはできたな」

「長生きするのが幸せだと思うのかい」

 ギーア=タムールは満面に笑みを浮かべた。

「いいや、まったく」

 そこに真下から白い光が、稲妻の速度で伸び上がってくる。青い聖剣は切っ先で軽々とそれを受け止めた。

「天よりいただいたこの命、天界のために使えぬのなら生きていても仕方ない。そうは思わないか」
「思わない。天から降ろうが地から湧こうが、私の命は私の物だ。私のために使ってこそ価値がある」

「それを独善と言うのだよ」
「まるで奴隷の発想だな」

 白い閃光が水平に飛ぶ。ギーア=タムールは聖剣を、今度は力を込めて振り下ろした。砕け散る白い無数の破片の向こう、リーリアの前に浮かぶのはランシャ。青い髪の聖騎士団長は微笑んだ。

「人助けはもう終わりか」
「キリがないからな。たぶん、あんたを倒す方が早い」

 白い魔剣を斜に構えてランシャは答えた。やれやれ何とも生意気な、相手はそんな顔で、しかし少し面白そうに青い聖剣の切っ先を向けた。

「貴様を斬らねばならんというのは、つくづく惜しい」
「だったら負けてくれると助かる」

「悪いがそうも行かなくてな」

 そう口にした途端、聖剣リンドヘルドの刃は六十四の断片と化し、六十四方向からランシャに襲いかかった。だがそれと同時に、上空に浮かんでいた大量の水が落下する。そしてすべてが凍り付いた。
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