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すずきん
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小学校の理科の時間。木下洋子先生はいつものように優しい笑顔で、黒板に『菌』と書いた。
「よく私たちは『ばい菌』という言葉を使いますが、ばい菌という名前の生き物はいません。ばい菌と呼ばれるのは……」
そして木下先生は『細菌』と『真菌』を黒板に書き加えた。
「細菌や真菌といった小さな小さな、顕微鏡でなければ見えないような微生物の中の、さらに私たちを病気にする一部の種類の菌類です。ここまでで何かわからないことはありますか」
「はい!」
クラスで一番元気な、というか賑やかな、というかやかましい、佐野隆が手を挙げた。
「先生についてる菌は、おっぱい菌ですか」
確かに木下先生は胸周りが豊かだ。男子生徒はちょっと笑ったが、女子生徒は一斉に白い目を向けた。
「もう、佐野くん」
木下先生も困り顔。これは受けなかったなと理解はしたのだろう、隆はつまらなそうに横を向いた。窓の外を見ようとしたのだが、その目にいちばん窓側の席の鈴木吉男の姿が映った。
懸命にノートを取っている。ただ、真面目なだけで成績は良くない。体育もできないし、いつもおどおどしている陰気なヤツ。隆は特に何も考えず、思いついたことをつぶやいた。
「鈴木についてる菌はすずきんだな」
と、これが何故か受けた。男子生徒だけではなく、女子生徒も笑っている。やった、笑いが取れた。いま鈴木吉男がどんな顔をしているのかすら気にも留めず、隆は有頂天になっていた。だが。
目の前に木下先生が立った。鬼のような形相で。
「佐野くん、謝りなさい」
静まり返るクラス。しかし隆には意味がわからない。
「え、何を」
「鈴木くんにいますぐ謝りなさい!」
木下先生が怒鳴る姿など、クラスの誰も見るのは初めてだった。普段の彼女の様子からは想像もできないほどの激しい怒りに、空気が凍り付く。
だが一人、隆は違った。自分は面白いことを言っただけだ、何も悪いことはしていない。そんな反抗心がムクムクと頭をもたげる。
「嫌だよ、俺何も悪いことしてないのに何で謝らなきゃいけないんだよ!」
すると思いがけないことが起こった。あの先生が、あの優しい木下先生が、隆の顔を平手で殴ったのだ。髪を振り乱し怒り狂いながら。
「謝れ! 謝れ! 鈴木くんに謝れ!」
あまりの恐ろしさに隆は震え上がった。目には涙が浮かび、体はこわばって動けない。謝ろうにも声が出なかった。
その金縛りが解けたのは、戸が開く音に木下先生が顔を向けたから。黒い軍服のような格好をした男が五人、教室に入ってくる。その前に立ちはだかったのは木下先生。
「待ってください、これは誤解なんです」
しかし五人の先頭に立つ眼鏡の男は無表情にこう言った。
「思想健康庁の者です。自動通報により急行しました。どいていただけますか、先生」
「違うんです、あの子にはすぐ謝らせます、ですから」
「そんな話をしているのではありません」
そう言うと眼鏡の男は木下先生を突き飛ばした。同時に他の四人が隆を取り囲み、腕をつかんで無理矢理に立たせる。
「え、何、何?」
混乱している隆に眼鏡の男は告げた。
「君は今日から思想教練学校へ転校となる。親御さんには私から連絡するので心配は要らない。では行こうか」
眼鏡の男は踵を返して教室の外へと向かい、隆を連れた四人はその後に続く。
「え、ちょっと、何でだよ。嫌だ! 行きたくない! 先生! 先生助けて!」
隆の声が廊下に響く。しかし顔を出してそれを見る者はいない。木下先生は顔を両手で覆い、泣き崩れるしかなかった。
この時代、日本は独裁国家となっていた。政権を握る残虐で苛烈なその独裁者の名前は、鈴原金二郎。
「よく私たちは『ばい菌』という言葉を使いますが、ばい菌という名前の生き物はいません。ばい菌と呼ばれるのは……」
そして木下先生は『細菌』と『真菌』を黒板に書き加えた。
「細菌や真菌といった小さな小さな、顕微鏡でなければ見えないような微生物の中の、さらに私たちを病気にする一部の種類の菌類です。ここまでで何かわからないことはありますか」
「はい!」
クラスで一番元気な、というか賑やかな、というかやかましい、佐野隆が手を挙げた。
「先生についてる菌は、おっぱい菌ですか」
確かに木下先生は胸周りが豊かだ。男子生徒はちょっと笑ったが、女子生徒は一斉に白い目を向けた。
「もう、佐野くん」
木下先生も困り顔。これは受けなかったなと理解はしたのだろう、隆はつまらなそうに横を向いた。窓の外を見ようとしたのだが、その目にいちばん窓側の席の鈴木吉男の姿が映った。
懸命にノートを取っている。ただ、真面目なだけで成績は良くない。体育もできないし、いつもおどおどしている陰気なヤツ。隆は特に何も考えず、思いついたことをつぶやいた。
「鈴木についてる菌はすずきんだな」
と、これが何故か受けた。男子生徒だけではなく、女子生徒も笑っている。やった、笑いが取れた。いま鈴木吉男がどんな顔をしているのかすら気にも留めず、隆は有頂天になっていた。だが。
目の前に木下先生が立った。鬼のような形相で。
「佐野くん、謝りなさい」
静まり返るクラス。しかし隆には意味がわからない。
「え、何を」
「鈴木くんにいますぐ謝りなさい!」
木下先生が怒鳴る姿など、クラスの誰も見るのは初めてだった。普段の彼女の様子からは想像もできないほどの激しい怒りに、空気が凍り付く。
だが一人、隆は違った。自分は面白いことを言っただけだ、何も悪いことはしていない。そんな反抗心がムクムクと頭をもたげる。
「嫌だよ、俺何も悪いことしてないのに何で謝らなきゃいけないんだよ!」
すると思いがけないことが起こった。あの先生が、あの優しい木下先生が、隆の顔を平手で殴ったのだ。髪を振り乱し怒り狂いながら。
「謝れ! 謝れ! 鈴木くんに謝れ!」
あまりの恐ろしさに隆は震え上がった。目には涙が浮かび、体はこわばって動けない。謝ろうにも声が出なかった。
その金縛りが解けたのは、戸が開く音に木下先生が顔を向けたから。黒い軍服のような格好をした男が五人、教室に入ってくる。その前に立ちはだかったのは木下先生。
「待ってください、これは誤解なんです」
しかし五人の先頭に立つ眼鏡の男は無表情にこう言った。
「思想健康庁の者です。自動通報により急行しました。どいていただけますか、先生」
「違うんです、あの子にはすぐ謝らせます、ですから」
「そんな話をしているのではありません」
そう言うと眼鏡の男は木下先生を突き飛ばした。同時に他の四人が隆を取り囲み、腕をつかんで無理矢理に立たせる。
「え、何、何?」
混乱している隆に眼鏡の男は告げた。
「君は今日から思想教練学校へ転校となる。親御さんには私から連絡するので心配は要らない。では行こうか」
眼鏡の男は踵を返して教室の外へと向かい、隆を連れた四人はその後に続く。
「え、ちょっと、何でだよ。嫌だ! 行きたくない! 先生! 先生助けて!」
隆の声が廊下に響く。しかし顔を出してそれを見る者はいない。木下先生は顔を両手で覆い、泣き崩れるしかなかった。
この時代、日本は独裁国家となっていた。政権を握る残虐で苛烈なその独裁者の名前は、鈴原金二郎。
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