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【五ノ章】納涼祭
第九十九話 響き渡る破滅の号砲
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「セリス姉ちゃん、早く!」
「そんな急かさなくても分かってるよ!」
直感に背中を押されるようにして辿り着いた廃墟で、エリック達はキオからクロトの状態を聞き、行動を起こした。
自身のスキル、魔法での治療が可能なセリスはクロトの方へ。
出合い頭に殴り飛ばした誘拐犯の対処にエリック、カグヤとルシアが回ることになった。
「ヨムル、ユキ! 姉ちゃん達が来てくれたぞ!」
「っ、こっちだよ!」
引きずられた血の跡を追って廃墟の外に出たセリスに、物陰から顔を出したヨムルが手を振る。
セリスがそちらに走り寄れば、鼻腔をくすぐる鉄錆の臭いが漂ってきた。浮かべそうになったしかめっ面を抑えて、眼下にクロトの姿が映る。
──凄惨。まさに、その一言に尽きた。
酷く青ざめた生気の無い顔。身動ぎ一つせず力無く閉じられた瞼。
口元から顎下、胸元に至るまで身体の正中線は赤黒く染まり、今も命を垂れ流している。いや、見た目以上に身体の中がどうなっているかなどセリスでは把握しきれない。
ずくり、と胸が痛む。呼吸が荒くなる。
賢明な応急処置を続ける子ども達は赤く濡れていた。碧混じりの白髪が特徴のユキが別人に見えたほどだ。
「セリスねぇ……」
「っ……よく、頑張ったね。後は任せな」
細く、消え入るようなユキの声。
かろうじて姉としての体裁を保ったまま応えたセリスはクロトの傍で膝をつき、両手をかざした。
「“聖なる光 癒しの息吹をここに”──《セイント・ヒール》」
魔法陣でなく魔素を活性化させたような輝きが辺りを充満する。それは尾を引きながらセリスの手元に収束したかと思えば、音も無く弾けてクロトの身体に放射された。
詠唱スキルと呼称されるその力はクラス《ヒーラー》が持つ技の一つ。
クラス自体は特別珍しいモノではないが、特筆すべきはセリスの持つ《セイント・ヒール》。
知識とイメージが重要なのは変わらないが、治癒魔法や回復魔法とは異なり自身や他者の魔力消費は無く、ただ唱えるだけで傷を癒す。
まるで奇跡のような、他の《ヒーラー》とは一線を画す破格の性能を誇っているのだ。
回復速度も凄まじく、大穴と呼んでも差し支えないほど広がっていたクロトの傷は急速に塞がりつつあった。これが実弾であれば別の問題が発生していたが、魔法弾であったのは僥倖と言える。
「ごめ、ごめんなさいっ……ユキのせいで、こ、こんな……」
「……何があったんだい?」
地面に点々と染みを作りながら俯くユキは声を震わせる。
順調に回復していくクロトから目と手を離さず、セリスは静かに問い返した。
「ずっと、ユキがユキじゃないみたいで……頭に声が、こ、殺せって……! ダメなのに、わかってるのに、止められなくて!」
「ユキ……」
「気づいたら、にぃにを刺してて……! 血っ、血まみれなのに、ユキを助けてくれたのにっ……」
悲痛な懺悔の吐露は止まらない。掛ける言葉が見つからないキオとヨムルが軋むほど強く拳を握り締める。
エリックが吹き飛ばした男に何か細工をされたのだろう。ユキの言動から察するのは容易だった。
先にぶん殴っておけばよかったとセリスは鳴らしかけた舌打ちを抑えて、ふと思い出す。
親しい者の命が目の前で失われていく光景。セリスも過去に被害者として同じような経験をした覚えがある。
火の手が回る教会の中。助けを求められない悲しみも、動けないでいる苦しみも、見ていることしか出来ない痛みも、救われた側の存在だからこそよく理解できるのだ。
ましてやユキに自覚が無かったとはいえ、己の手で命を奪っていたかもしれない。その精神的な負荷は尋常なものではない。
「安心しな」
治療を終えて幾分か顔色の良くなったクロトの顔を見下ろしながら。
セリスは暗い空気を変えるように声色を明るくさせて、ユキの頭に手を乗せる。
「クロトはこの程度でユキを責めるような器の小さい男じゃあないよ。悪いのはお前らを攫ったクソ野郎の方だ、気に病む必要は無い。やっちまったもんはしょうがないが……自分を責めるのはやめな。クロトも、そんなこたぁ望んでないだろうよ」
「だけどっ……!」
「……やりきれないよな。ああ、わかるよ……だから、今は好きなだけ泣いていい。コイツが目を覚ます前に、悔しい気持ちを全部、流し出してやれ」
「うっ、ぅあ、あああぁ──!」
糸が切れたように涙が溢れ、慟哭は虚空に溶けた。
エリックであれば、もっと気の利いた励ましが出来たのだろうか。……いや、きっとクロトの声で伝えなければ、ユキはずっと自分を責め続ける。
目の前で既に起きた事象に対処するしかないセリスでは、妹分の心に巣くう影を照らす事はできない。
──頼りがいの無い自分が嫌になる。子ども達の不安を拭えないで何が姉だ。
その場の誰にも気づかれないよう、下唇を血が出そうなほど噛み締めて。
セリスは泣きじゃくるユキを胸に抱き、何度も、ゆっくりと背中を撫で続けた。
◆◇◆◇◆
ずり、ずり、と。
脚を引きずりながら荒い呼吸を繰り返して。
ルーザーは燐光が照らす灰色の洞窟を進んでいた。
「──ッ」
身体を這い回る激痛。途切れそうになる意識を繋ぎとめて、声を上げずに歩き続ける。
既に混合液の効果は切れていた。キオによって折られた腕は歪なまま修復され、追撃で叩き込まれた大剣の一撃はルーザーの生命を確実に脅かしていた。
追加の回復材も混合液も無い。しかし、まだ生きている。
幸運にも事前に隠しておいた逃走経路に飛び込み、命からがら逃げおおせていた。悪運の強い男だ。
──終われない。終わってたまるものか。
爛々と輝く瞳。奥底に悪意の種火を残したルーザーは朦朧とした思考の中で、ただ一点、クロトへの復讐だけを突き詰めていく。
この身体がどうなろうと関係ない。
カラミティの事など心底どうでもいい。
クロトをもっと苦しめるにはどうしたらいい。
都合の良い御託を並べて、因果が巡り巡って己を追い詰めているとは露知らず。
そうして辿り着いた目的の場所。
巨大なドーム状の広間だ。目算でも天井まで二〇メートル以上はあり、荒々しい灰色の岩肌の壁とは打って変わり、研磨された大理石のように魔力結晶の灯りを反射する地面。
どこか厳かで、不自然で異様な空間の中央。唐突に現れた山のように巨大な生物。
結晶の明かりが偏っているせいで全貌は明らかではないが、それこそがルーザーの求めていたモノだった。
壊れた人形のような動作で──持ち前の手癖の悪さで、回収していた魔剣を振りかざす。
怪しく光り輝く魔剣は目の前で佇む巨大生物へ異能を作用させる。
外的な刺激を受けた生物はおもむろに面を天井に向け、次いでルーザーの方に。
異能が効いていると信じて疑わないルーザーはその反応を待っていたかのように近づき、魔剣を持つ手を伸ばした。
──コイツの力さえあれば……!
魔剣さえあれば、何でも思い通りになると驕っていたのが仇となったのだろう。
室内に現れた餌が差し出した腕を見やった巨大生物は一鳴きした直後、大きく広げた口腔の内に腕を収め、白磁の牙で噛みちぎった。
無情にも、一瞬で。喰われた腕の切断面から飛び出る血飛沫が身体を、地面を汚す。
「…………は、っ?」
掠れた声が喉奥から漏れる。
脳を焼くような熱が全身を巡る。
ごくん、と。一際大きく嚥下する音が響いた。
「ッ、ぁああああああああッ!?」
灼熱の痛みが枯れた叫びを呼び起こす。
魔剣と利き腕の喪失。無慈悲な現実を直視し、グルグルと回る思考と激痛は容易くパニックを引き起こし、愚かな復讐者の精神を破壊する。
汗を、涙を、唾液を撒き散らし、その場でへたり込む。
呆然と見上げた巨大生物に対して──己の行いが軽率であった事を自覚する。
この生物に手を出すべきではなった。
これは、人が支配できる魔物ではなかった。
こんな迷宮主を、呼び起こしてしまうなんて。
後悔しても時は既に遅く。
巨大な体躯を持ち上げた迷宮主は、鎖から解き放たれた事を歓喜するように。
目に見えるほど濃密な魔力を励起させ、息を吸い、膨らんだ全身を振るわせて。
『──ォォォオオオオオオオオオオオッッ!!』
腹の底から大咆哮を轟かせた。
無防備な鼓膜が破裂する。
割れた地面の欠片が皮膚を裂く。
身構えることもできず、発生した衝撃波はルーザーの身体を浮かばせ、壁面へ叩きつけた。
全身の肉は弾け、骨は無残にへし折れる。もはや痛覚は麻痺していた。
常人であれば死は免れない。それでも意識を失わず、死なず、激痛の渦に囚われているのは、己の身に打ち込んだ薬剤の影響だ。
様々な薬品が相乗効果をもたらし、苦痛を増長させ、命の終わりを引き延ばしていた。
「……ひはっ」
しかし命を対価として、この迷宮主を解放できるならどうなっても構わない。元よりクロトへの嫌がらせ、復讐心のみで動いてきた。
偶々適合しただけの便利な道具である魔剣も。
言葉巧みに騙して連れてきたカラミティ幹部も。
体の良い操り人形として使っていた実験体も。もはや何もかもどうでもいい。
原動力である歪んだ望みを成就しうる最大の切り札が、目の前にいる。
ならば、後は託すとしよう。
壊れた精神が漏らした笑み。それは眼前に迫る迷宮主に対する絶望か、本望を果たした事への喜びか。
どちらにせよ、邪悪なる献身は真なる破滅をもたらすだろう。
自らの腹を突き破る牙の感触を噛み締めながら。
迷宮主が放つ壊滅的な産声に揺さぶられて、ルーザーは薄れゆく意識を手放した。
◆◇◆◇◆
「何の反応も無いから妙だとは思っていたが……」
キオに連れられ走り去っていくセリスの背を見送り、カグヤを中心に左右で別れたルシアとエリックが男を叩き込んだ資材の山に近づく。
警戒を怠らずにじり寄り、しかしいくら時間が経っても起き上がる気配が無かった。
不審に感じたエリックが乱雑に散らかった資材をどかすと、現れたのは底が見えないほど深い穴。なだらかな傾斜がついており、直径は大剣を持つエリックでも余裕で入れる程度。
痕跡を見るに男はこの穴に逃げ込んだらしい。
「この感じ……迷宮で見かける罠と同様の物ですね」
「そんな物がなんでここに?」
「迷宮が成長したんだろうよ。再開発区画が封鎖された理由の一つだ」
ルシアの疑問に答えたエリックが、心底面倒そうに顔を歪める。
今日に至るまで再開発区画に手が出せなかったのは、過去に企業が掘り起こした迷宮より流出する魔物だけが脅威な訳ではない。
──迷宮は、時間の経過と共に肥大化していくのだ。
外界とは隔絶した自然環境と常識では考えられない生態系を維持し、空間を歪ませ、文字通りの異界である迷宮は埒外の魔素を蓄えている。
そんな魔素の許容量が限界を迎えた時、迷宮は新たな段階へ到達する。
手始めに格が低い近隣の迷宮を巻き込み、取り込む。より内部構造を複雑化させ、より大きく広く深く──そして、外界への浸食を開始。魔物が生まれ、資源を蓄えた迷宮のように地表を変化させてしまう。
例として挙げるならば、ワイバーンなどの強力な魔物や血仙花といった希少な薬草が採取できる“霊峰”が該当する。
「あの野郎がこの穴を使って逃げたとしても、負傷した状態じゃあ満足に動けねぇはずだ。今すぐ追えば捕まえられ──」
エリックが新たな提案をしようと声を上げ、
──ォォォオオオオオオオオオオオッッ!!
地の底から響く咆哮に遮られる。
凄まじい音圧。空気を、鼓膜を、身体を揺らす轟音はエリック達の動きを止めさせた。
耳を押さえ、何が起きたと視線だけを巡らせたルシアの足下が罅割れ、それは加速度的に広がっていく。
まるで蜘蛛の巣のように砕け、割れて、地面が隆起する。割れた地面から垣間見える暗闇が背筋を泡立たせた。
このまま立ち尽くしていたら巻き込まれるのは必然だった。
声は届かない。仕草だけでエリックとカグヤに廃墟の外に出るよう指示を出し、頷いた彼らを伴って走り出す。
しかし強まる振動の影響で上手く進めない。天井を支える骨組み、落ちてくる天窓、崩れていく廃墟が行く手を阻む。
ついには目指していた出口が塞がってしまう。もはや退路は無く、駆り立てる焦燥が思考を鈍らせる。
万事休す。その四文字が各々の脳内をよぎる中、エリックが二人の腕を掴み、引き寄せた。
「──ッ!」
そのまま有無を言わさず、大剣を構えて叫ぶエリックを中心に半透明の結界が展開される。
どんな災いをも防ぐ神聖なる絶対守護の盾《イグニート・ディバイン》。
エリック達を包むように覆う薄赤色の結界は内外を隔絶し、安全圏を形成する。だが、それだけでは不十分だったようだ。
……ォォォオオオオオオオオオオオッッ!!
遠くから響く、魔力の込められた獣の咆哮。空間はさらに強く激震した。
荒ぶる土属性の魔力が、かろうじて保たれていたわずかな安定さを失わせる。
バキリッ、バキリッ、と。嫌な音が《イグニート・ディバイン》の周囲を取り囲み──地面が崩落する。
冗談のように、一点の穴が吸い込むように。砂塵の如く廃墟を呑み込んでいく。
それはエリック達も例外ではなかった。
肝の冷える自由落下。不快な浮遊感。
声の出ない悲鳴は誰の耳にも届かず、暗闇の底へ三人は落ちていった。
「そんな急かさなくても分かってるよ!」
直感に背中を押されるようにして辿り着いた廃墟で、エリック達はキオからクロトの状態を聞き、行動を起こした。
自身のスキル、魔法での治療が可能なセリスはクロトの方へ。
出合い頭に殴り飛ばした誘拐犯の対処にエリック、カグヤとルシアが回ることになった。
「ヨムル、ユキ! 姉ちゃん達が来てくれたぞ!」
「っ、こっちだよ!」
引きずられた血の跡を追って廃墟の外に出たセリスに、物陰から顔を出したヨムルが手を振る。
セリスがそちらに走り寄れば、鼻腔をくすぐる鉄錆の臭いが漂ってきた。浮かべそうになったしかめっ面を抑えて、眼下にクロトの姿が映る。
──凄惨。まさに、その一言に尽きた。
酷く青ざめた生気の無い顔。身動ぎ一つせず力無く閉じられた瞼。
口元から顎下、胸元に至るまで身体の正中線は赤黒く染まり、今も命を垂れ流している。いや、見た目以上に身体の中がどうなっているかなどセリスでは把握しきれない。
ずくり、と胸が痛む。呼吸が荒くなる。
賢明な応急処置を続ける子ども達は赤く濡れていた。碧混じりの白髪が特徴のユキが別人に見えたほどだ。
「セリスねぇ……」
「っ……よく、頑張ったね。後は任せな」
細く、消え入るようなユキの声。
かろうじて姉としての体裁を保ったまま応えたセリスはクロトの傍で膝をつき、両手をかざした。
「“聖なる光 癒しの息吹をここに”──《セイント・ヒール》」
魔法陣でなく魔素を活性化させたような輝きが辺りを充満する。それは尾を引きながらセリスの手元に収束したかと思えば、音も無く弾けてクロトの身体に放射された。
詠唱スキルと呼称されるその力はクラス《ヒーラー》が持つ技の一つ。
クラス自体は特別珍しいモノではないが、特筆すべきはセリスの持つ《セイント・ヒール》。
知識とイメージが重要なのは変わらないが、治癒魔法や回復魔法とは異なり自身や他者の魔力消費は無く、ただ唱えるだけで傷を癒す。
まるで奇跡のような、他の《ヒーラー》とは一線を画す破格の性能を誇っているのだ。
回復速度も凄まじく、大穴と呼んでも差し支えないほど広がっていたクロトの傷は急速に塞がりつつあった。これが実弾であれば別の問題が発生していたが、魔法弾であったのは僥倖と言える。
「ごめ、ごめんなさいっ……ユキのせいで、こ、こんな……」
「……何があったんだい?」
地面に点々と染みを作りながら俯くユキは声を震わせる。
順調に回復していくクロトから目と手を離さず、セリスは静かに問い返した。
「ずっと、ユキがユキじゃないみたいで……頭に声が、こ、殺せって……! ダメなのに、わかってるのに、止められなくて!」
「ユキ……」
「気づいたら、にぃにを刺してて……! 血っ、血まみれなのに、ユキを助けてくれたのにっ……」
悲痛な懺悔の吐露は止まらない。掛ける言葉が見つからないキオとヨムルが軋むほど強く拳を握り締める。
エリックが吹き飛ばした男に何か細工をされたのだろう。ユキの言動から察するのは容易だった。
先にぶん殴っておけばよかったとセリスは鳴らしかけた舌打ちを抑えて、ふと思い出す。
親しい者の命が目の前で失われていく光景。セリスも過去に被害者として同じような経験をした覚えがある。
火の手が回る教会の中。助けを求められない悲しみも、動けないでいる苦しみも、見ていることしか出来ない痛みも、救われた側の存在だからこそよく理解できるのだ。
ましてやユキに自覚が無かったとはいえ、己の手で命を奪っていたかもしれない。その精神的な負荷は尋常なものではない。
「安心しな」
治療を終えて幾分か顔色の良くなったクロトの顔を見下ろしながら。
セリスは暗い空気を変えるように声色を明るくさせて、ユキの頭に手を乗せる。
「クロトはこの程度でユキを責めるような器の小さい男じゃあないよ。悪いのはお前らを攫ったクソ野郎の方だ、気に病む必要は無い。やっちまったもんはしょうがないが……自分を責めるのはやめな。クロトも、そんなこたぁ望んでないだろうよ」
「だけどっ……!」
「……やりきれないよな。ああ、わかるよ……だから、今は好きなだけ泣いていい。コイツが目を覚ます前に、悔しい気持ちを全部、流し出してやれ」
「うっ、ぅあ、あああぁ──!」
糸が切れたように涙が溢れ、慟哭は虚空に溶けた。
エリックであれば、もっと気の利いた励ましが出来たのだろうか。……いや、きっとクロトの声で伝えなければ、ユキはずっと自分を責め続ける。
目の前で既に起きた事象に対処するしかないセリスでは、妹分の心に巣くう影を照らす事はできない。
──頼りがいの無い自分が嫌になる。子ども達の不安を拭えないで何が姉だ。
その場の誰にも気づかれないよう、下唇を血が出そうなほど噛み締めて。
セリスは泣きじゃくるユキを胸に抱き、何度も、ゆっくりと背中を撫で続けた。
◆◇◆◇◆
ずり、ずり、と。
脚を引きずりながら荒い呼吸を繰り返して。
ルーザーは燐光が照らす灰色の洞窟を進んでいた。
「──ッ」
身体を這い回る激痛。途切れそうになる意識を繋ぎとめて、声を上げずに歩き続ける。
既に混合液の効果は切れていた。キオによって折られた腕は歪なまま修復され、追撃で叩き込まれた大剣の一撃はルーザーの生命を確実に脅かしていた。
追加の回復材も混合液も無い。しかし、まだ生きている。
幸運にも事前に隠しておいた逃走経路に飛び込み、命からがら逃げおおせていた。悪運の強い男だ。
──終われない。終わってたまるものか。
爛々と輝く瞳。奥底に悪意の種火を残したルーザーは朦朧とした思考の中で、ただ一点、クロトへの復讐だけを突き詰めていく。
この身体がどうなろうと関係ない。
カラミティの事など心底どうでもいい。
クロトをもっと苦しめるにはどうしたらいい。
都合の良い御託を並べて、因果が巡り巡って己を追い詰めているとは露知らず。
そうして辿り着いた目的の場所。
巨大なドーム状の広間だ。目算でも天井まで二〇メートル以上はあり、荒々しい灰色の岩肌の壁とは打って変わり、研磨された大理石のように魔力結晶の灯りを反射する地面。
どこか厳かで、不自然で異様な空間の中央。唐突に現れた山のように巨大な生物。
結晶の明かりが偏っているせいで全貌は明らかではないが、それこそがルーザーの求めていたモノだった。
壊れた人形のような動作で──持ち前の手癖の悪さで、回収していた魔剣を振りかざす。
怪しく光り輝く魔剣は目の前で佇む巨大生物へ異能を作用させる。
外的な刺激を受けた生物はおもむろに面を天井に向け、次いでルーザーの方に。
異能が効いていると信じて疑わないルーザーはその反応を待っていたかのように近づき、魔剣を持つ手を伸ばした。
──コイツの力さえあれば……!
魔剣さえあれば、何でも思い通りになると驕っていたのが仇となったのだろう。
室内に現れた餌が差し出した腕を見やった巨大生物は一鳴きした直後、大きく広げた口腔の内に腕を収め、白磁の牙で噛みちぎった。
無情にも、一瞬で。喰われた腕の切断面から飛び出る血飛沫が身体を、地面を汚す。
「…………は、っ?」
掠れた声が喉奥から漏れる。
脳を焼くような熱が全身を巡る。
ごくん、と。一際大きく嚥下する音が響いた。
「ッ、ぁああああああああッ!?」
灼熱の痛みが枯れた叫びを呼び起こす。
魔剣と利き腕の喪失。無慈悲な現実を直視し、グルグルと回る思考と激痛は容易くパニックを引き起こし、愚かな復讐者の精神を破壊する。
汗を、涙を、唾液を撒き散らし、その場でへたり込む。
呆然と見上げた巨大生物に対して──己の行いが軽率であった事を自覚する。
この生物に手を出すべきではなった。
これは、人が支配できる魔物ではなかった。
こんな迷宮主を、呼び起こしてしまうなんて。
後悔しても時は既に遅く。
巨大な体躯を持ち上げた迷宮主は、鎖から解き放たれた事を歓喜するように。
目に見えるほど濃密な魔力を励起させ、息を吸い、膨らんだ全身を振るわせて。
『──ォォォオオオオオオオオオオオッッ!!』
腹の底から大咆哮を轟かせた。
無防備な鼓膜が破裂する。
割れた地面の欠片が皮膚を裂く。
身構えることもできず、発生した衝撃波はルーザーの身体を浮かばせ、壁面へ叩きつけた。
全身の肉は弾け、骨は無残にへし折れる。もはや痛覚は麻痺していた。
常人であれば死は免れない。それでも意識を失わず、死なず、激痛の渦に囚われているのは、己の身に打ち込んだ薬剤の影響だ。
様々な薬品が相乗効果をもたらし、苦痛を増長させ、命の終わりを引き延ばしていた。
「……ひはっ」
しかし命を対価として、この迷宮主を解放できるならどうなっても構わない。元よりクロトへの嫌がらせ、復讐心のみで動いてきた。
偶々適合しただけの便利な道具である魔剣も。
言葉巧みに騙して連れてきたカラミティ幹部も。
体の良い操り人形として使っていた実験体も。もはや何もかもどうでもいい。
原動力である歪んだ望みを成就しうる最大の切り札が、目の前にいる。
ならば、後は託すとしよう。
壊れた精神が漏らした笑み。それは眼前に迫る迷宮主に対する絶望か、本望を果たした事への喜びか。
どちらにせよ、邪悪なる献身は真なる破滅をもたらすだろう。
自らの腹を突き破る牙の感触を噛み締めながら。
迷宮主が放つ壊滅的な産声に揺さぶられて、ルーザーは薄れゆく意識を手放した。
◆◇◆◇◆
「何の反応も無いから妙だとは思っていたが……」
キオに連れられ走り去っていくセリスの背を見送り、カグヤを中心に左右で別れたルシアとエリックが男を叩き込んだ資材の山に近づく。
警戒を怠らずにじり寄り、しかしいくら時間が経っても起き上がる気配が無かった。
不審に感じたエリックが乱雑に散らかった資材をどかすと、現れたのは底が見えないほど深い穴。なだらかな傾斜がついており、直径は大剣を持つエリックでも余裕で入れる程度。
痕跡を見るに男はこの穴に逃げ込んだらしい。
「この感じ……迷宮で見かける罠と同様の物ですね」
「そんな物がなんでここに?」
「迷宮が成長したんだろうよ。再開発区画が封鎖された理由の一つだ」
ルシアの疑問に答えたエリックが、心底面倒そうに顔を歪める。
今日に至るまで再開発区画に手が出せなかったのは、過去に企業が掘り起こした迷宮より流出する魔物だけが脅威な訳ではない。
──迷宮は、時間の経過と共に肥大化していくのだ。
外界とは隔絶した自然環境と常識では考えられない生態系を維持し、空間を歪ませ、文字通りの異界である迷宮は埒外の魔素を蓄えている。
そんな魔素の許容量が限界を迎えた時、迷宮は新たな段階へ到達する。
手始めに格が低い近隣の迷宮を巻き込み、取り込む。より内部構造を複雑化させ、より大きく広く深く──そして、外界への浸食を開始。魔物が生まれ、資源を蓄えた迷宮のように地表を変化させてしまう。
例として挙げるならば、ワイバーンなどの強力な魔物や血仙花といった希少な薬草が採取できる“霊峰”が該当する。
「あの野郎がこの穴を使って逃げたとしても、負傷した状態じゃあ満足に動けねぇはずだ。今すぐ追えば捕まえられ──」
エリックが新たな提案をしようと声を上げ、
──ォォォオオオオオオオオオオオッッ!!
地の底から響く咆哮に遮られる。
凄まじい音圧。空気を、鼓膜を、身体を揺らす轟音はエリック達の動きを止めさせた。
耳を押さえ、何が起きたと視線だけを巡らせたルシアの足下が罅割れ、それは加速度的に広がっていく。
まるで蜘蛛の巣のように砕け、割れて、地面が隆起する。割れた地面から垣間見える暗闇が背筋を泡立たせた。
このまま立ち尽くしていたら巻き込まれるのは必然だった。
声は届かない。仕草だけでエリックとカグヤに廃墟の外に出るよう指示を出し、頷いた彼らを伴って走り出す。
しかし強まる振動の影響で上手く進めない。天井を支える骨組み、落ちてくる天窓、崩れていく廃墟が行く手を阻む。
ついには目指していた出口が塞がってしまう。もはや退路は無く、駆り立てる焦燥が思考を鈍らせる。
万事休す。その四文字が各々の脳内をよぎる中、エリックが二人の腕を掴み、引き寄せた。
「──ッ!」
そのまま有無を言わさず、大剣を構えて叫ぶエリックを中心に半透明の結界が展開される。
どんな災いをも防ぐ神聖なる絶対守護の盾《イグニート・ディバイン》。
エリック達を包むように覆う薄赤色の結界は内外を隔絶し、安全圏を形成する。だが、それだけでは不十分だったようだ。
……ォォォオオオオオオオオオオオッッ!!
遠くから響く、魔力の込められた獣の咆哮。空間はさらに強く激震した。
荒ぶる土属性の魔力が、かろうじて保たれていたわずかな安定さを失わせる。
バキリッ、バキリッ、と。嫌な音が《イグニート・ディバイン》の周囲を取り囲み──地面が崩落する。
冗談のように、一点の穴が吸い込むように。砂塵の如く廃墟を呑み込んでいく。
それはエリック達も例外ではなかった。
肝の冷える自由落下。不快な浮遊感。
声の出ない悲鳴は誰の耳にも届かず、暗闇の底へ三人は落ちていった。
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そう思った両親は幼少の頃よりリクトにを鍛え上げる事にした。
父は家の蔵にあったボロボロの指南書を元に剣術を、母は露店に売っていた怪しげな魔導書を元に魔法を教えた。
それから10年の時が経ち、リクトは成人となる15歳を迎えた。
両親の危惧した通り、継ぐ土地のないリクトは食い扶持を稼ぐために、地元の領軍に入隊試験を受けると、両親譲りの剣術と魔法のおかげで最下階級の二等兵として無事に入隊する事ができた。
軍と言っても、のどかな田舎の軍。
リクトは退役するまで地元でのんびり過ごそうと考えていたが、入隊2日目の朝に隣領との戦争が勃発してしまう。
おまけに上官から剣の腕を妬まれて、単独任務を任されてしまった。
その任務の最中、リクトは平民に対する貴族の専横を目の当たりにする。
生まれながらの体制に甘える貴族社会に嫌気が差したリクトは軍人として出世して貴族の専横に対抗する力を得ようと立身出世の道を歩むのだった。
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