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その涙さえ命の色 ――Navy
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バスを降りると、さっそく魚のにおいが鼻をついた。その中には磯の香りも感じられたが、とにかく魚のにおいが強い。これぞまさしく漁村といった感じである。名前からして「漁村」らしいし。
何と読むかはわからないが、ともかく私が乗っていたバスには「漁村行き」とあった。冗談か通称か何かだと思っていたが、降りたバス停の近くにあった、今にも倒れそうな木製の電柱には「漁村一丁目6番地」と書かれたプレートが付いているから、この辺は実際に「漁村」という名前の村なのだろう。険しい山と断崖絶壁の海に挟まれた狭い土地に、年期の入った家が建っているのが見える。私が今いる山側というか崖側というかの坂道沿いには数軒がぽつぽつと建っているだけだが、海岸線沿いには詰め込まれるように密集している。
スマホで確認すると、時刻は16時を過ぎている。そうでなくとも、どんよりとした雲が空を覆って薄暗い。
私が降りたバスは、そのままそこでエンジンを停止し、運転手は降りてどこかへ行ってしまった。つまり、このバスの今日の仕事はおしまい。動くのはまた明日、ということである。
時刻表を見ると、このバスが次に東尋坊に向かうのは明日の朝5時となっている。つまり、半日ほどここでなんとかしなければならないわけだ。
そもそも私がなんでこんなところにいるかというと、乗るバスを間違えた上に居眠りをしてしまったからだった。
正月休み中に、バンドのみんなで一泊二日の東尋坊見学旅行に来たのだが、各人いろいろ都合があって、現地集合、現地解散することになった。
みんなと別れた後、私は三国駅行きのバスに乗った……はずだった。しかし、実際には「漁村行き」という、スマホでバスの時刻表を調べても、どこにも書かれていない謎のバスに乗ってしまったらしいのである。
スマホの地図アプリで現在地を確認しようとしたが、どうもうまくいかない。そのうち電波の状態も悪くなって、辛うじて圏外ではないものの、通信速度が遅すぎてスマホが使い物にならない状態になってしまった。今や私のスマホは、懐中電灯兼でっかい時計に過ぎない。ああ、まあ、デジカメとか音楽プレーヤーとかにも使えるか。こんな地域が未だに日本本土に存在したのかと、私は感心した。
どう見ても観光地っぽくないので期待はできないものの、宿か何かがあることを期待して、私はベースギターの入ったケースを背負い、昨日着替えた服やらが入っているバッグを肩に引っかけて、海の方へと坂道を下っていった。
坂道はつづら折りになっていて、坂と坂の間に家が建っている。その多くは空き家のようだった。
坂を下っていくと、魚のにおいはますます強くなっていった。やがて坂は緩やかになり、家が密集したところへと入り込む。こちらはきちんと繕われた漁網が壁に引っかけてあったり、玄関前に自転車が置かれてあったりと、生活感がある家が多い。ただ、それにしては誰にも出会わなかったし、家の中に人がいそうな気配もない。まだ漁に出ている時間だったりするのだろうか。
今まで通ってきた道は車がすれ違えるだけの広さはあったが、この道は海と平行して左右に延びており、これを辿っていくといつまで経っても海辺の方には出られそうになかった。
それで、家と家の狭い空間をくぐり抜けることにする。人もすれ違えないようなそこが、この村で道として認識されているかはわからなかったが、迷子にならないように、できるだけ目標に向かってまっすぐ進みたかった。
そうやって家の間を2回くぐると、けっこう広い、アスファルトで舗装された二車線の道路と、その奥に整然と並ぶ、船の家のようなもののところに出た。浜に一隻ずつ船着き場のようなところがあって、そこにそれぞれ屋根が付いている。その「家」の中には船があったりなかったりした。その多くはちゃんと使えそうだったが、中にはすっかり朽ちて放置されているように見える船もある。
しかし、今のところ、船の心配をしている場合ではない。これまでのところ、どうもこの村にはよそ者相手に商売をしている気配が感じられない。今夜どう過ごすかを真剣に考えなければならなくなってきた。
とりあえずは道に沿って歩いてみる。しかし、大して歩かないうちに船の家はなくなり、人の家も少なくなり、あるのは岩っぽい海辺と崖だけになってきた。
サバイバル番組や漫画で得た知識が頭の中を巡り、乾いた葉っぱを集めるべきなのか、などと思い始めたとき、崖側の道沿いに「お食事処・ご宿泊」と書かれた看板が立っているのが見えた。本来なら裏から蛍光灯で照らして光らせるタイプのアレである。その看板は光ってなかったし、本来なら「お食事処・ご宿泊」の下に赤色で大きく書かれていたはずの店の名前はすっかり色褪せて判読不能になっていたから、すでに閉店して看板があるだけ、という可能性もあったが、私はいつの間にか小走りでそちらの方に向かっていた。
その「お食事処・ご宿泊」は、ひとまずは営業しているようだった。店内に明かりが点いている。たたずまいとしては、山の中の道路沿いにある古い休憩所兼お土産屋、といった様子。長方形で二階建ての素っ気ない建物で、一階の道路に面した側はガラス張りで、中は食堂のようだった。
ガラス戸を開けて中に入ると、食堂のカウンターに男が居たので、声を掛けて、泊まれないか尋ねてみた。その人はのそのそと事務的に、一泊素泊まりでいくらで、風呂はなく、シャワーは20時まで、チェックアウトは10時まで、といった説明をした。どうも心ここにあらずといった調子の、ロボットのような接客だったが、私としてはありがたかった。あまり親しげにいろいろ聞かれても困る。
部屋のキーを受け取ったついでに、私はカウンターの側に置いてあったビスケット2箱と、ペットボトルのお茶を3本買った。この食堂で夕飯にしてもいいのだが、どうも気乗りしない。今日はシャワーもやめて、部屋に立て籠もることにする。
部屋はビジネスホテルみたいな感じだった。狭い室内に、ベッドひとつ、テーブルひとつ。未だにブラウン管の有料テレビが置かれているあたりからして年季を感じさせるが、覚悟していたよりはずっと良かった。
残る問題は暖房がどのくらい効くか、である。とりあえずエアコンが有料ではないことを確かめてから電源を入れてみる。
それから荷物を下ろして、テーブルでビスケット1箱とお茶1本を開けて夕食にした。
食べ終わる頃には部屋もまあまあ暖まってきて、想像していた以上に快適に一晩過ごせそうなのにほっとする。
できればお風呂に入って着替えもしたいところだが、さきほどまでサバイバル生活するべきか考えていたことからすれば、それは贅沢というものだろう。シャワーはあるらしいが……どうも入る気がしない。馬鹿馬鹿しい話だが、こういうところで一人でシャワー室に入っていると、後ろから刺されるような気がしてならない。
となると、これからどうするか、である。スマホはほぼ圏外で使い物にならないし、有料のテレビを見たいとも思わない。普段こういうときはベースの練習でもするのだが……他に宿泊客がいるかはわからないが、まあ、常識的判断としてはやめておいた方がいいだろう。
バッグからノートとシャーペンを取り出してテーブルに広げ、曲でも書いてみようかと意気込んでみたものの、真っ白なページに五線譜を書いたところでペンの動きが止まってしまった。
時刻を見ると、まだ19時過ぎ。さすがに眠くない。ただ、明日は余裕を持って3時45分起きするとすれば、もう寝てもいい時間だともいえる。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
私は無意識に窓の方を見た。もし逃げるとすればあそこから飛び降りるしかない。
しかし、よく考えると、なぜ逃走経路を確認しなければならないのか、謎ではあった。現実的に考えて、ノックの主が私を殺したり拉致ったりしようとしている可能性はどのくらいあるだろうか。そもそもそういうことをする気なら、ノックよりも先にノブを回そうとしないだろうか。
そう考えつつも、どうしても返事をする気になれず、息を殺してドアを見つめる。
しばらくの沈黙の後、ドア越しに声がした。
「お休みのところ、申し訳ありません。実はその、お願いがあって参ったのです。そのままで構いませんから、少し、聞いてください」
その声は、なんとも奇妙な感じを受けた。男性の声のようだったが、風邪でも引いているかのように、隙間風のような高い呼吸音が混ざっていた。あと、声の抑揚の付け方が妙だった。訛っているのとは違う感じ。
未だに返事をするのはためらわれたので黙っていると、やがて、声の主は話を続けた。
「実は今夜、私達は海辺から船に乗るのです。その際に、楽器を演奏して見送る方が必要なのですが、演奏者が来られなくなってしまいました。それで、その、あなたにお願いできないかと、思いまして」
「私の楽器はベースなんですけど」
うっかり声を出してしまって、私は少なからず後悔した。しかし、こうなると後には引けない……か。
「ベース?」
「ええ。あと、アンプを持ってきていないので、演奏しても音が小さいんですけど」
ベースとかアンプとか、意味分かるのかな、と思いつつも、他に何と言っていいか分からないので、とりあえず言いっぱなしにして待ってみる。
しばらく、何か話し合うような声が聞こえ、それから返事が返ってきた。
「あの、こちらでアコースティックギターを用意できます。それでよろしければ、お願いできないでしょうか」
私は一応ギターも演奏できる。ベースの方がカッコイイからベースを担当しているだけである。アコギはあんまり使わないが、超絶技巧な曲を弾けとかいう話ではないだろうから、まあなんとかなるだろう。
「わかりました。いいでしょう」
「ありがとうございます。本当に助かります。あの、では、ご準備ができましたら、お願いできますか」
準備も何もあったものではないので、私は颯爽と立ち上がり、ドアのノブに手をかけた……ところで、再び不安な気持ちが湧き上がってきた。それで、慎重にロックを外し、ゆっくりとドアを開けることにした。
うっすらとドアを開けて廊下を覗き込んでも、誰もいなかった。まさか幽霊? もしくは気のせい? と思いつつ、もう少し大きく開いて顔だけ出して見ると、ドアから3メートルは離れたところに、フードを目深に被った人影が見えた。
ただ、それが人なのかどうかは何とも言い難かった。フードの隙間からちらちらと覗いていた肌は、鱗のようなものに見えた。部屋からの明かりをときおり反射して、ちらちらと光っている。
そのフードを被ったのは、制止を促すように、片手の掌を肩の辺りまで上げて見せた。その掌の肌はやはり鱗っぽく、また、指と指の間には水かきのようなものがあった。
「あの、驚かせてしまったら申し訳ありません。この格好は、気になさらずに。ギターは海辺の方に用意しますので、付いてきてください」
そう言って、その人(?)は歩き出した。私はドアから出ると、一応カギを締めて、それからそのまま、3メートルくらい間隔を開けたまま付いていった。
その人は、私が食堂から部屋に行く際に使った廊下を通らなかった。どうやら裏口から外に出たらしかった。
外に出ると、さきほどまでどんより曇っていた空はいつの間にか晴れて、まんまるの月がはっきりと見えた。あとは、プラネタリウムかと錯覚しそうなほど、くっきりとした星空が広がっている。この辺では当たり前の光景なのだろうが、ちょっと現実感を見失いそうだった。
しかし、現実感云々と言えば、私が今やっていることは現実なのだろうか? なんで私はこんな怪しいのについて行っているのだろうか。
そんなことを考えている内にも、私達は例の船の家みたいなところまでやってきて、そこからさらに、ゴツゴツした岩がところどころに見える浜辺を歩いた。
やがて、海のほうに、何やら大きな影があるのに気付いた。明かりも何も灯していないため、はっきりとはわからないが、おそらくあれが船なのだろう。距離感がはっきりと掴めないが、浜辺から50メートルだか100メートルだか、あるいはそれ以上かもしれないが、そのくらい離れたところに停泊しているようだった。
「こちらで、お願いできますか」
フードの人が指さしたのは、私の腰くらいの高さで平らになっている岩だった。広さは畳2つ分くらいある。
岩に手をかけて登り、辺りを見回してみる。今のところフードの人以外誰もいないし、真っ暗ではあるが、一段高いところに立つだけで、結構テンションが上がってくるもんである。しかも、月明かりの下で潮騒の音のバッグサウンド付きというのはなかなか洒落ているのではないだろうか。魚臭いのはアレだが。
おっしゃ、やるぞ! と、心の中で気合いを入れたところで、肝心なことを忘れていたのを思い出した。
「あ、ああの……」
ステージの端で屈んで、フードの人に声を掛ける。
「あ、ギターならすぐ届きますので」
「あ、いや、そうじゃなくてですね。何を演奏すればいいんです? 知らない曲とかだとまずいというか……」
「ああ。なんでも構いません。好きに演奏してください。船乗りには20分くらいかかると思いますので、その間、演奏していただければ嬉しいのですが、よろしいでしょうか?」
「はあ。時間は大丈夫と思いますが、本当になんでもいいんですか?」
「ええ。なんでも構いません」
よくわからないが、なんでもいいというならなんでもいいのだろう。私達が普段演っているのは、だいたい呪われそうなドス暗い曲だが、ただまあ、まさか私のことを知っていて指名してきたわけではないだろう。ここは趣味と現実を折衷して、仄暗いくらいのリフを弾くのはどうだろう。Opethの"Harvest"くらいの。とりあえずそのくらいから始めて、あとは客の反応を見ながら考えようか。
なんだかんだ考えていると、もう一人フードを被ったのがやってきて、わざわざ深々と私に向かって一礼してから、ギターケースをステージ岩に置き、また礼をして去って行った。
そんなに畏まることないのにと思いつつ、ギターケースを開ける。人間に弾けないような変な形状をしたギターだったらどうしようと、一瞬いらん心配がよぎったが、中に入っていたギターは、とりあえず常識的な形をしていた。
ただ、ギターに描かれた絵柄というか図柄が、月明かりの下なのでよくはわからなかったが、血糊をぶちまけたような感じだったのはちょっとびっくりした。おとなしそうな民族? 種族? に見えて、結構イカした趣味をしているのかもしれない。
ギターにはベルトが付いていて、肩に引っかけて演奏できるようになっていた。そういえば、立って演奏するのか、座ってか、については聞いておくべき項目のひとつだった。まあ、私としては立って演奏した方がヤル気が出るというもんである。
あと、ギターケースにはご丁寧に、ピックが何枚か入っていた。ギターとお揃いの血糊柄である。フィンガーピッキングするには爪の手入れが全然出来てなかったし、そもそも私の爪はヘタレですぐ割れるから、これはありがたい。
音程の確認のために開放弦を鳴らしてみる。チューナーとか音叉とかはないので何とも言えないが、聞いた感じは問題ない。今回は他の楽器との兼ね合いはないから、これでいいことにする。
「オーケー。いつでもいける」
誰にともなく呟いたが、フードの人は聞いていたらしい。
「それではお願いします」
潮騒の音だけが静かに反復する中に、湿っぽいコードが響く。この船乗りの儀? だかなんだかがどういう類いのものかは知らないが、船出にしては暗すぎるのかな? などと、自分で弾いておきながら思った。今にも船が沈みそうな、景気の悪い音過ぎるだろうか。
フードの人に目をやったが、彼は私ではなく浜辺の方を向いており、特に注文があるようでもなかったから、そのまま続けた。
やがて、ステージから何十メートルだか離れたところに、何かの行列があるのが見えてきた。やはりフードを被った人が、一列になって海へ向かってそろそろと歩いている。
やがて、先頭は海へと行き着いたが、そのまま船へと一直線に歩いて行っている、ように私には見えた。実際にはたぶん、途中から足が付かなくなるだろうから、泳いでいるのだと思うが。
ともかくそんな感じで、浜から船へと列になって静かに歩いて行くのを眺めながら、私は演奏し続けた。
「ありがとうございます。もう、よろしいですよ」
その声に、私は我に返った。気付くと、浜辺の列はもう無かった。月の位置も、心なしか結構動いたように見える。
私は演奏する手を止めた。……つまり、どういうことだろうか。私は自分の演奏に陶酔しすぎて、時間も忘れて弾きまくっていた、ということなのか。
事前の説明によると、弾き始めてから20分ほど経過したと思われるのだが、全然その感覚がない。大丈夫なのか、私。
「今日は本当にありがとうございました。おかげで助かりました」
「あ、ああ。いえ。どうも」
深々と頭を下げるフードの人に、よくわからない返事をする。
ゆっくりと頭を上げると、フードの人は言った。
「私達には、お礼できるものがないのですが、せめて、よければ、そのギターは差し上げます。お持ち帰りください」
「え、いいんですか?」
私は露骨に嬉しそうに聞き返してしまった。もう少し遠慮するとかなんとか、あって然るべきではないかと、もう一人の自分が突っ込みを入れる。
「はい。ぜひ、お持ち帰りください。今日はありがとうございました。それでは」
フードの人はまた礼をすると、さきほどの列の人達のように、船へと歩いて行った。
私はしばらく、その姿を眺めていたが、ふと気付いて、再び演奏することにした。この演奏がどういう意味を持つのか、私にはさっぱりわからなかったが、たぶんあの人が船に乗るときにも、演奏があった方がいいのだろうと思って。
フードの人の影が船の影と重なり、違いが分からなくなって、しばらくすると、船の影がゆっくりと動き始めた。
船は音もなく沖へと進んでいく。私はその影が小さくなり、水平線に消えていくまで、演奏し続けた。
ここからは余談になるが、私がこのときもらった「血糊をぶちまけたような絵柄のイカしたギター」は、明るいところでよく見たら錦鯉の柄だったことがわかった。錦鯉の雅な柄を血糊と間違えるのは私らしいと、メンバーのみんなにはさんざんからかわれた。
あと、この時の演奏からアイデアを得て曲を書いたところ、評判はイマイチだったわりにダウンロード販売では妙によく売れた。もしかしたらあのフードの人達の仲間が、例の儀式に使うために買ったんじゃないかなと私は思っている。
何と読むかはわからないが、ともかく私が乗っていたバスには「漁村行き」とあった。冗談か通称か何かだと思っていたが、降りたバス停の近くにあった、今にも倒れそうな木製の電柱には「漁村一丁目6番地」と書かれたプレートが付いているから、この辺は実際に「漁村」という名前の村なのだろう。険しい山と断崖絶壁の海に挟まれた狭い土地に、年期の入った家が建っているのが見える。私が今いる山側というか崖側というかの坂道沿いには数軒がぽつぽつと建っているだけだが、海岸線沿いには詰め込まれるように密集している。
スマホで確認すると、時刻は16時を過ぎている。そうでなくとも、どんよりとした雲が空を覆って薄暗い。
私が降りたバスは、そのままそこでエンジンを停止し、運転手は降りてどこかへ行ってしまった。つまり、このバスの今日の仕事はおしまい。動くのはまた明日、ということである。
時刻表を見ると、このバスが次に東尋坊に向かうのは明日の朝5時となっている。つまり、半日ほどここでなんとかしなければならないわけだ。
そもそも私がなんでこんなところにいるかというと、乗るバスを間違えた上に居眠りをしてしまったからだった。
正月休み中に、バンドのみんなで一泊二日の東尋坊見学旅行に来たのだが、各人いろいろ都合があって、現地集合、現地解散することになった。
みんなと別れた後、私は三国駅行きのバスに乗った……はずだった。しかし、実際には「漁村行き」という、スマホでバスの時刻表を調べても、どこにも書かれていない謎のバスに乗ってしまったらしいのである。
スマホの地図アプリで現在地を確認しようとしたが、どうもうまくいかない。そのうち電波の状態も悪くなって、辛うじて圏外ではないものの、通信速度が遅すぎてスマホが使い物にならない状態になってしまった。今や私のスマホは、懐中電灯兼でっかい時計に過ぎない。ああ、まあ、デジカメとか音楽プレーヤーとかにも使えるか。こんな地域が未だに日本本土に存在したのかと、私は感心した。
どう見ても観光地っぽくないので期待はできないものの、宿か何かがあることを期待して、私はベースギターの入ったケースを背負い、昨日着替えた服やらが入っているバッグを肩に引っかけて、海の方へと坂道を下っていった。
坂道はつづら折りになっていて、坂と坂の間に家が建っている。その多くは空き家のようだった。
坂を下っていくと、魚のにおいはますます強くなっていった。やがて坂は緩やかになり、家が密集したところへと入り込む。こちらはきちんと繕われた漁網が壁に引っかけてあったり、玄関前に自転車が置かれてあったりと、生活感がある家が多い。ただ、それにしては誰にも出会わなかったし、家の中に人がいそうな気配もない。まだ漁に出ている時間だったりするのだろうか。
今まで通ってきた道は車がすれ違えるだけの広さはあったが、この道は海と平行して左右に延びており、これを辿っていくといつまで経っても海辺の方には出られそうになかった。
それで、家と家の狭い空間をくぐり抜けることにする。人もすれ違えないようなそこが、この村で道として認識されているかはわからなかったが、迷子にならないように、できるだけ目標に向かってまっすぐ進みたかった。
そうやって家の間を2回くぐると、けっこう広い、アスファルトで舗装された二車線の道路と、その奥に整然と並ぶ、船の家のようなもののところに出た。浜に一隻ずつ船着き場のようなところがあって、そこにそれぞれ屋根が付いている。その「家」の中には船があったりなかったりした。その多くはちゃんと使えそうだったが、中にはすっかり朽ちて放置されているように見える船もある。
しかし、今のところ、船の心配をしている場合ではない。これまでのところ、どうもこの村にはよそ者相手に商売をしている気配が感じられない。今夜どう過ごすかを真剣に考えなければならなくなってきた。
とりあえずは道に沿って歩いてみる。しかし、大して歩かないうちに船の家はなくなり、人の家も少なくなり、あるのは岩っぽい海辺と崖だけになってきた。
サバイバル番組や漫画で得た知識が頭の中を巡り、乾いた葉っぱを集めるべきなのか、などと思い始めたとき、崖側の道沿いに「お食事処・ご宿泊」と書かれた看板が立っているのが見えた。本来なら裏から蛍光灯で照らして光らせるタイプのアレである。その看板は光ってなかったし、本来なら「お食事処・ご宿泊」の下に赤色で大きく書かれていたはずの店の名前はすっかり色褪せて判読不能になっていたから、すでに閉店して看板があるだけ、という可能性もあったが、私はいつの間にか小走りでそちらの方に向かっていた。
その「お食事処・ご宿泊」は、ひとまずは営業しているようだった。店内に明かりが点いている。たたずまいとしては、山の中の道路沿いにある古い休憩所兼お土産屋、といった様子。長方形で二階建ての素っ気ない建物で、一階の道路に面した側はガラス張りで、中は食堂のようだった。
ガラス戸を開けて中に入ると、食堂のカウンターに男が居たので、声を掛けて、泊まれないか尋ねてみた。その人はのそのそと事務的に、一泊素泊まりでいくらで、風呂はなく、シャワーは20時まで、チェックアウトは10時まで、といった説明をした。どうも心ここにあらずといった調子の、ロボットのような接客だったが、私としてはありがたかった。あまり親しげにいろいろ聞かれても困る。
部屋のキーを受け取ったついでに、私はカウンターの側に置いてあったビスケット2箱と、ペットボトルのお茶を3本買った。この食堂で夕飯にしてもいいのだが、どうも気乗りしない。今日はシャワーもやめて、部屋に立て籠もることにする。
部屋はビジネスホテルみたいな感じだった。狭い室内に、ベッドひとつ、テーブルひとつ。未だにブラウン管の有料テレビが置かれているあたりからして年季を感じさせるが、覚悟していたよりはずっと良かった。
残る問題は暖房がどのくらい効くか、である。とりあえずエアコンが有料ではないことを確かめてから電源を入れてみる。
それから荷物を下ろして、テーブルでビスケット1箱とお茶1本を開けて夕食にした。
食べ終わる頃には部屋もまあまあ暖まってきて、想像していた以上に快適に一晩過ごせそうなのにほっとする。
できればお風呂に入って着替えもしたいところだが、さきほどまでサバイバル生活するべきか考えていたことからすれば、それは贅沢というものだろう。シャワーはあるらしいが……どうも入る気がしない。馬鹿馬鹿しい話だが、こういうところで一人でシャワー室に入っていると、後ろから刺されるような気がしてならない。
となると、これからどうするか、である。スマホはほぼ圏外で使い物にならないし、有料のテレビを見たいとも思わない。普段こういうときはベースの練習でもするのだが……他に宿泊客がいるかはわからないが、まあ、常識的判断としてはやめておいた方がいいだろう。
バッグからノートとシャーペンを取り出してテーブルに広げ、曲でも書いてみようかと意気込んでみたものの、真っ白なページに五線譜を書いたところでペンの動きが止まってしまった。
時刻を見ると、まだ19時過ぎ。さすがに眠くない。ただ、明日は余裕を持って3時45分起きするとすれば、もう寝てもいい時間だともいえる。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
私は無意識に窓の方を見た。もし逃げるとすればあそこから飛び降りるしかない。
しかし、よく考えると、なぜ逃走経路を確認しなければならないのか、謎ではあった。現実的に考えて、ノックの主が私を殺したり拉致ったりしようとしている可能性はどのくらいあるだろうか。そもそもそういうことをする気なら、ノックよりも先にノブを回そうとしないだろうか。
そう考えつつも、どうしても返事をする気になれず、息を殺してドアを見つめる。
しばらくの沈黙の後、ドア越しに声がした。
「お休みのところ、申し訳ありません。実はその、お願いがあって参ったのです。そのままで構いませんから、少し、聞いてください」
その声は、なんとも奇妙な感じを受けた。男性の声のようだったが、風邪でも引いているかのように、隙間風のような高い呼吸音が混ざっていた。あと、声の抑揚の付け方が妙だった。訛っているのとは違う感じ。
未だに返事をするのはためらわれたので黙っていると、やがて、声の主は話を続けた。
「実は今夜、私達は海辺から船に乗るのです。その際に、楽器を演奏して見送る方が必要なのですが、演奏者が来られなくなってしまいました。それで、その、あなたにお願いできないかと、思いまして」
「私の楽器はベースなんですけど」
うっかり声を出してしまって、私は少なからず後悔した。しかし、こうなると後には引けない……か。
「ベース?」
「ええ。あと、アンプを持ってきていないので、演奏しても音が小さいんですけど」
ベースとかアンプとか、意味分かるのかな、と思いつつも、他に何と言っていいか分からないので、とりあえず言いっぱなしにして待ってみる。
しばらく、何か話し合うような声が聞こえ、それから返事が返ってきた。
「あの、こちらでアコースティックギターを用意できます。それでよろしければ、お願いできないでしょうか」
私は一応ギターも演奏できる。ベースの方がカッコイイからベースを担当しているだけである。アコギはあんまり使わないが、超絶技巧な曲を弾けとかいう話ではないだろうから、まあなんとかなるだろう。
「わかりました。いいでしょう」
「ありがとうございます。本当に助かります。あの、では、ご準備ができましたら、お願いできますか」
準備も何もあったものではないので、私は颯爽と立ち上がり、ドアのノブに手をかけた……ところで、再び不安な気持ちが湧き上がってきた。それで、慎重にロックを外し、ゆっくりとドアを開けることにした。
うっすらとドアを開けて廊下を覗き込んでも、誰もいなかった。まさか幽霊? もしくは気のせい? と思いつつ、もう少し大きく開いて顔だけ出して見ると、ドアから3メートルは離れたところに、フードを目深に被った人影が見えた。
ただ、それが人なのかどうかは何とも言い難かった。フードの隙間からちらちらと覗いていた肌は、鱗のようなものに見えた。部屋からの明かりをときおり反射して、ちらちらと光っている。
そのフードを被ったのは、制止を促すように、片手の掌を肩の辺りまで上げて見せた。その掌の肌はやはり鱗っぽく、また、指と指の間には水かきのようなものがあった。
「あの、驚かせてしまったら申し訳ありません。この格好は、気になさらずに。ギターは海辺の方に用意しますので、付いてきてください」
そう言って、その人(?)は歩き出した。私はドアから出ると、一応カギを締めて、それからそのまま、3メートルくらい間隔を開けたまま付いていった。
その人は、私が食堂から部屋に行く際に使った廊下を通らなかった。どうやら裏口から外に出たらしかった。
外に出ると、さきほどまでどんより曇っていた空はいつの間にか晴れて、まんまるの月がはっきりと見えた。あとは、プラネタリウムかと錯覚しそうなほど、くっきりとした星空が広がっている。この辺では当たり前の光景なのだろうが、ちょっと現実感を見失いそうだった。
しかし、現実感云々と言えば、私が今やっていることは現実なのだろうか? なんで私はこんな怪しいのについて行っているのだろうか。
そんなことを考えている内にも、私達は例の船の家みたいなところまでやってきて、そこからさらに、ゴツゴツした岩がところどころに見える浜辺を歩いた。
やがて、海のほうに、何やら大きな影があるのに気付いた。明かりも何も灯していないため、はっきりとはわからないが、おそらくあれが船なのだろう。距離感がはっきりと掴めないが、浜辺から50メートルだか100メートルだか、あるいはそれ以上かもしれないが、そのくらい離れたところに停泊しているようだった。
「こちらで、お願いできますか」
フードの人が指さしたのは、私の腰くらいの高さで平らになっている岩だった。広さは畳2つ分くらいある。
岩に手をかけて登り、辺りを見回してみる。今のところフードの人以外誰もいないし、真っ暗ではあるが、一段高いところに立つだけで、結構テンションが上がってくるもんである。しかも、月明かりの下で潮騒の音のバッグサウンド付きというのはなかなか洒落ているのではないだろうか。魚臭いのはアレだが。
おっしゃ、やるぞ! と、心の中で気合いを入れたところで、肝心なことを忘れていたのを思い出した。
「あ、ああの……」
ステージの端で屈んで、フードの人に声を掛ける。
「あ、ギターならすぐ届きますので」
「あ、いや、そうじゃなくてですね。何を演奏すればいいんです? 知らない曲とかだとまずいというか……」
「ああ。なんでも構いません。好きに演奏してください。船乗りには20分くらいかかると思いますので、その間、演奏していただければ嬉しいのですが、よろしいでしょうか?」
「はあ。時間は大丈夫と思いますが、本当になんでもいいんですか?」
「ええ。なんでも構いません」
よくわからないが、なんでもいいというならなんでもいいのだろう。私達が普段演っているのは、だいたい呪われそうなドス暗い曲だが、ただまあ、まさか私のことを知っていて指名してきたわけではないだろう。ここは趣味と現実を折衷して、仄暗いくらいのリフを弾くのはどうだろう。Opethの"Harvest"くらいの。とりあえずそのくらいから始めて、あとは客の反応を見ながら考えようか。
なんだかんだ考えていると、もう一人フードを被ったのがやってきて、わざわざ深々と私に向かって一礼してから、ギターケースをステージ岩に置き、また礼をして去って行った。
そんなに畏まることないのにと思いつつ、ギターケースを開ける。人間に弾けないような変な形状をしたギターだったらどうしようと、一瞬いらん心配がよぎったが、中に入っていたギターは、とりあえず常識的な形をしていた。
ただ、ギターに描かれた絵柄というか図柄が、月明かりの下なのでよくはわからなかったが、血糊をぶちまけたような感じだったのはちょっとびっくりした。おとなしそうな民族? 種族? に見えて、結構イカした趣味をしているのかもしれない。
ギターにはベルトが付いていて、肩に引っかけて演奏できるようになっていた。そういえば、立って演奏するのか、座ってか、については聞いておくべき項目のひとつだった。まあ、私としては立って演奏した方がヤル気が出るというもんである。
あと、ギターケースにはご丁寧に、ピックが何枚か入っていた。ギターとお揃いの血糊柄である。フィンガーピッキングするには爪の手入れが全然出来てなかったし、そもそも私の爪はヘタレですぐ割れるから、これはありがたい。
音程の確認のために開放弦を鳴らしてみる。チューナーとか音叉とかはないので何とも言えないが、聞いた感じは問題ない。今回は他の楽器との兼ね合いはないから、これでいいことにする。
「オーケー。いつでもいける」
誰にともなく呟いたが、フードの人は聞いていたらしい。
「それではお願いします」
潮騒の音だけが静かに反復する中に、湿っぽいコードが響く。この船乗りの儀? だかなんだかがどういう類いのものかは知らないが、船出にしては暗すぎるのかな? などと、自分で弾いておきながら思った。今にも船が沈みそうな、景気の悪い音過ぎるだろうか。
フードの人に目をやったが、彼は私ではなく浜辺の方を向いており、特に注文があるようでもなかったから、そのまま続けた。
やがて、ステージから何十メートルだか離れたところに、何かの行列があるのが見えてきた。やはりフードを被った人が、一列になって海へ向かってそろそろと歩いている。
やがて、先頭は海へと行き着いたが、そのまま船へと一直線に歩いて行っている、ように私には見えた。実際にはたぶん、途中から足が付かなくなるだろうから、泳いでいるのだと思うが。
ともかくそんな感じで、浜から船へと列になって静かに歩いて行くのを眺めながら、私は演奏し続けた。
「ありがとうございます。もう、よろしいですよ」
その声に、私は我に返った。気付くと、浜辺の列はもう無かった。月の位置も、心なしか結構動いたように見える。
私は演奏する手を止めた。……つまり、どういうことだろうか。私は自分の演奏に陶酔しすぎて、時間も忘れて弾きまくっていた、ということなのか。
事前の説明によると、弾き始めてから20分ほど経過したと思われるのだが、全然その感覚がない。大丈夫なのか、私。
「今日は本当にありがとうございました。おかげで助かりました」
「あ、ああ。いえ。どうも」
深々と頭を下げるフードの人に、よくわからない返事をする。
ゆっくりと頭を上げると、フードの人は言った。
「私達には、お礼できるものがないのですが、せめて、よければ、そのギターは差し上げます。お持ち帰りください」
「え、いいんですか?」
私は露骨に嬉しそうに聞き返してしまった。もう少し遠慮するとかなんとか、あって然るべきではないかと、もう一人の自分が突っ込みを入れる。
「はい。ぜひ、お持ち帰りください。今日はありがとうございました。それでは」
フードの人はまた礼をすると、さきほどの列の人達のように、船へと歩いて行った。
私はしばらく、その姿を眺めていたが、ふと気付いて、再び演奏することにした。この演奏がどういう意味を持つのか、私にはさっぱりわからなかったが、たぶんあの人が船に乗るときにも、演奏があった方がいいのだろうと思って。
フードの人の影が船の影と重なり、違いが分からなくなって、しばらくすると、船の影がゆっくりと動き始めた。
船は音もなく沖へと進んでいく。私はその影が小さくなり、水平線に消えていくまで、演奏し続けた。
ここからは余談になるが、私がこのときもらった「血糊をぶちまけたような絵柄のイカしたギター」は、明るいところでよく見たら錦鯉の柄だったことがわかった。錦鯉の雅な柄を血糊と間違えるのは私らしいと、メンバーのみんなにはさんざんからかわれた。
あと、この時の演奏からアイデアを得て曲を書いたところ、評判はイマイチだったわりにダウンロード販売では妙によく売れた。もしかしたらあのフードの人達の仲間が、例の儀式に使うために買ったんじゃないかなと私は思っている。
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