掌編集「十二の月虹」

涼格朱銀

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一夜のキリトリセン ――Yellow

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 夜中に空を見上げると、白い線のようなものが見えた。それは夏の大三角の、アルタイルとベガを結ぶ辺の中間あたりに、垂直に延びている。
 天体観測がブームになったころに買ったものの、大して使わないままほったらかしていた望遠鏡があったので、押し入れから引っ張り出してきて、ホコリをはたき、空に向けて覗き込んでみる。
 その線はミシン目だった。白くて短い棒線が等間隔に並んでいる感じ、と言えばいいのか。きれいにまっすぐ引かれたその破線を辿っていくと、見慣れたハサミのマークがあった。

 これはどういうことなのだろう。あの線に沿って空を切ったら、七夕中止のお知らせになるのだろうか。それとも天の川を切ることで、二人は出会えるようになるのだろうか。
 直観的には、織姫と彦星の中間で空を切ると、二人の仲は裂かれそうな気がする。そもそも空なんか切って大丈夫なのだろうか。しかし、あのハサミマークを見てしまった以上、どうも切ってみたい誘惑に駆られてしまう。

 望遠鏡で線を見つめながらうずうずしていると、突然、声を掛けられた。
 望遠鏡から目を離し、辺りを見回すと、さきほどまで空に昇っていたはずの半月が、近くまでやってきていた。
 半月は言った。
「ようあんた、あの線見たんだろ?」
「やあ、お月様、こんばんは。今日は上弦? それとも下弦?」
「どっちでもいいだろそんなの。それよりさ、せっかくご丁寧にハサミのマークまで付いてるんだからさ、あの線に沿って空を切りに行こうぜ」
「そんなことする必要あるの? だいたい切って大丈夫なもんなの?」
「あんたさあ、こういうときは面白い方を選ぶのが常識ってもんだろ。こんなわけのわからないこと、そうそうあるもんじゃないぜ。そりゃあさ、切るな、と書いてある線だったら切ったらダメかもしれないけどよ、わざわざハサミマークが付いてるんだから、誰かが切らなきゃならないんだよ。ボタンに押せと書いてるなら押す、線に切れと書いてるなら切る。それが正しい人の道ってもんじゃないのかい?」
 半月の言うことには納得できなかったが、切ってみたいのは切ってみたかった。そこで、手持ちの中では一番良く切れるハサミを手に取ると、窓枠を乗り越え、半月に飛び乗った。
 半月は勢いよく飛び上がり、夏の大三角めがけて突き進んだ。
「いやあ、俺も長いこと月をやってるけど、こんな面白いことは初めてだぜ」
「それはいいけど、仕事をさぼってていいの? 誰かに怒られたりしない?」
「俺がいったいどんだけ勤勉実直に地球の周りを回ってると思ってるんだよ。たまにはいいだろ。ちょっとほっといたって死にゃしないって。たぶん」
「たぶんって」
「このくらいで地球とか人類が滅ぶなら、滅びちまえばいいんだ。俺は空を切るまで帰らないぞ。あのマークが俺を呼んでるんだ。あいつが俺を呼んでるんだよ」
 こうなったら、何が何でも空を切らねば収まらないようだった。

 ほどなくして、私たちは線のところまでやってきた。間近で見るそれは、どうにも奇妙だった。夜空にぽっかり破線が浮かんで、それが線路のように結構長く続いている。線は、ひとつひとつが人一人分くらいの大きさだったが、厚さはなくて、角度によっては全く見えなくなってしまう。
「さあさあ、何をやってるんだい。さっさと切っておくれよ」
 半月がせき立てる。
 線の太さに比べて、持ってきたハサミはいかにも小さすぎる感じがしたが、とにかく切ってみることにする。

 足を伸ばすとぎりぎりはさみが届いたが、どうにも切りづらい体勢だった。
「もうちょっと上に行けない?」
「任せな」
 半月が浮かび上がる。今度は位置が高すぎて切りづらい。
「もう少し下」
「なかなか細かい作業だな。ちくしょう」
 悪態をつきながらも、半月はいろいろ位置を調整してくれて、なんとか線にハサミを入れやすそうな位置に付けた。
 切ってみると、今まで感じたことがない、妙な感覚がした。ものすごく切れ味のいいハサミでビニール袋を切っているのに似ていたが、それよりももっと手応えはわずかだった。宙を切っているときのような虚しさはなく、ちゃんと何かを切っているらしい感覚はある。
「切れてるか?」
「たぶん。ただ、切った手応えはあるんだけど、本当に切れてるかはわからないなあ」
 言いながら、切り口に手を突っ込んでみようとしたが、全然手応えがない。
「まあいいさ。まずはちゃちゃっとやってみようぜ」

 言われたとおり、切る作業を続けることにしたが、やっていくうち、これが意外と大変だということがわかってきた。窓から見たときはせいぜい数メートルに見えた線だったが、実際はどれだけ長いのかわかったものじゃない。切っても切っても終わりが見えない。
 刃を滑らせて切ったら一気に終わるんじゃないかと思って試してみたが、それをやると全然手応えがなく、空振りしているっぽかった。ちゃんとチョキチョキしないと切れないらしい。
 持つ手を変えて切り、また持ち替えては切り。半月も、最初は威勢のいいことを言って景気づけしていたのが、だんだん口数が減ってきた。微妙にちょっとずつ動くのがけっこう大変らしい。

 一体どれだけ切り続けただろう。ついに私達の目に、例のマークが見えてきた。……つまり、まだ残り半分ある、ということである。どちらともなくため息が漏れた。
 ふと辺りを見回すと、いつの間にかもやのようなものがかかっていた。なんだろう? と思ったそのとき、突然、聞いたこともないような、変な音がした。巨大なグミの中でガソリンが爆発したような音、とでも言えばいいのか。くぐもった低い爆発音のようだったが、どこかユーモラスな、ぽよん、とした音が混ざった感じだった。
 それは空が裂ける音だった。今まで切ってきた線に沿ってそれがぱっくりとめくれ、中から大量の星が流れ落ちて来たのである。
 それとほほど同時に、半月が勢いよく、その場から弾かれるように飛んだ。流れる星にぶつかったのか、それとも半月が自分から避けたのかはわからない。とにかくその勢いで体勢をくずし、ハサミを落としてしまった。

 離れたところから見て、何が起きたのかわかった。切り口が天の川に達し、そこから星が流れ出てきたらしい。星々は白い帯となって、地面めがけて降り注ごうとしていた。
「あれってまずいんじゃないの? 地球の顔がお月様みたいになっちゃうよ」
「本人のいる前でそういうこと言うなよ。まあ、地球なら大丈夫だろ。何億年かすればでこぼこも均されるだろうし」
「でも、人類は滅亡しちゃうかも。お月様が変なことを言うから、本当になっちゃったじゃないか」
「俺のせいかよ。まあ、実際そうか。でもま、しょうがないよ」
 いずれにしても、こちらではもう、どうすることもできなかった。

 帯はゆっくりと、地表へ向かって流れ落ちていく。やがて、いよいよ最初の一群が文明社会の頭上へと落ちていこうとしたそのとき、星々はそれぞれ白い尾を引いて燃え上がり、そして、地表に落ちる前に消えていった。
「……あー、まあ、なんとか助かりそうだな。もっとでっかいのが落ちなきゃだけど」
 次々に地球の大気に流れ込み、尾を引いては燃え尽きていく星の流れを見下ろしながら、半月が言う。
「それはよかったかもだけど、これからどうするのさ。切ったところは塞いだ方がいいのかな。どうやって塞ぐかわからないけど」
「ダクトテープでも貼ればいいんじゃないの?」
 本気とも冗談とも付かない口調で、半月が言う。

 それからしばらく、白い帯が地球に注がれるのを見つめていた。
 ふと、空が白み始めているのに気付いた。見ると、天の川も、夏の大三角も、いつの間にやらずいぶん低いところまで沈み、ほとんど見えなくなっている。切り口から流れ出る白い帯も薄くなり、やがて消えた。もはや線は見えない。塞がったのか、単に見えないだけかは判断の付きようもなかった。
「いいんかね。放っといて」
 半月が困惑気味に、ぼんやりと言う。だが、すぐに気を取り直して、言った。
「まあ、いいか。じゃあ、送るよ」
「うん」
 ここで半月と言い合っても、何の解決にもならない。ともかくここは、家に帰るしかないだろう。
 ほどなくして、半月と共に家の窓まで戻った。窓枠に手を掛けて、身体を室内へと滑り込ませる。
 そのころにはすっかり太陽も昇り始めて、空は明るくなっていた。
「それじゃあ、俺も帰るわ」
「うん。じゃあ、また今夜」
「はいはい。ていうか、今夜も空を見上げる気なの? 暇だねえ。他にやることないのかよ」
「いや、気にならない? さっきの不始末の経過」
「さあね。どうせもう、あんな線はなくなってるだろ。あんなこと、今までなかったんだし、今夜もないよ」
 その理屈はどうかと思ったが、そう言われるとそういう気もした。
 半月はだるそうに、よろよろと地平線の向こうへと帰っていった。
 それを見送りながら、今回のどさくさでハサミを落としてしまったことを思い出した。結局今回の成果は、一番よく切れるお気に入りのハサミを紛失しただけ、ということになりそうだった。
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