裏の林に近づくな

塚本正巳

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後編

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 ほどなくして、奥田結衣は学校を休みがちになった。最初のうちは圭介の事故がよほどショックだったのだろうと思われていたが、その後みるみる生気を失っていく姿は異様としか言いようがなかった。圭介同様、朗らかで笑顔がよく似合う少女だった奥田は、そのうち重苦しく陰気な雰囲気になり、そしてとうとう誰とも関わろうとしなくなってしまった。
 圭介が誰よりも大切にしていた奥田。彼女の変わり果てた姿を見ていられなくなった僕は、あるとき思い切って彼女に声をかけてみた。奥田は最初、僕などまったく相手にしなかった。だがそれでも根気よく声をかけ続けていると、そのうち少しずつ目を合わせてくれるようになった。
 声をかけ始めてふた月ほど経った頃だった。奥田は放課後、何も言わず僕に一枚の紙切れを手渡した。その紙には彼女の字で、駅前の公園で待っていてほしいとだけ書かれていた。手紙を渡してすぐに立ち去った彼女の、いやに緊張した面持ちが目に焼きついて離れない。只事でないことは容易に想像できた。嫌な予感が胸中を埋め尽くし、心臓がたちまち暴れ出す。
 逃げ出したい気持ちをぐっとこらえて待っていると、奥田は人目を気にしながら小走りで公園にやってきた。そこで彼女は、今の自分の状況を涙ながらに語った。圭介と一番仲が良く、他に友達もいない僕なら信用できると思ったのだろう。
 奥田は茂木に脅され、屈辱的な手段でけがされていた。茂木にとって彼女は、弱虫な僕と違っていつまでも圭介の事故に異論を唱え続ける邪魔者だった。しかも茂木が彼女に並々ならぬ好意を抱いていることは、学校内では周知の事実だ。茂木が圭介を目の敵にしていた理由はいくつかあっただろうが、その中には彼女をかっさらわれた逆恨みも含まれていたに違いない。
 圭介の事故から二週間ほど後のことだ。奥田は、茂木と数人の取り巻きによって神社の裏手に誘い込まれた。そこには、彼女にとっていつ終わるとも知れない地獄が待っていた。茂木は狡猾にも、取り巻きたちも共犯にすることで彼らの口を封じた。しかもその現場を動画に収めており、それをネタに彼女の口も塞いでいるらしかった。
 僕は声を殺して泣き続ける奥田に、何一つ言葉をかけてあげられなかった。僕がどれだけ言葉を尽くして慰めたとしても、最悪の現状は少しも変わらない。決心はすぐに固まった。圭介と奥田の無念を晴らせるのは、すべてを知り、頭の隅々まで怒りの猛火に焼き尽くされてしまった僕しかいない。
 罪深さを思い知らせるため、場所は奥田に屈辱を強いた神社裏の雑木林に決めた。僕は事前に穴を掘り、後日茂木の机に手紙を忍ばせた。匿名で書いたその手紙には、撮られた動画を買い取りたい旨を記した。匿名ではあるが、中身を読んだ茂木は間違いなく奥田が書いたものだと考えるはずだ。極秘で取引きをしたいので、必ず一人で来て欲しいと付け加えることも忘れなかった。
 日が暮れると、茂木は要求通り一人でのこのこと神社裏にやって来た。少しも悪びれることなく軽い足取りで現れたその間抜けヅラには、啞然を通り越して堪え難い怒りを覚えた。きっと交渉にかこつけて、誰もいない林でまた犯してやろうとでも思っていたのだろう。
 ならば望み通り、今すぐ昇天させてやる──。

 数日経っても茂木は行方不明のままだった。ただ僕は、そのことにはあまり興味がない。いずれ見つかれば、警察は残しておいた髪の毛から僕にたどり着くだろう。そうなったなら正直に罪を認めようと思っている。僕はもう十五歳だ。自分が犯した罪の重さくらいわかっている。罪を犯した人間が、相応の罰を受けるのは当然だ。
 茂木の取り巻きたちが、そろそろリーダーの存在を忘れ始めているようだ。最近、取り巻きの中でも特に目つきの悪い加藤が、茂木に代わって校内で幅を利かせている。今朝の教室の空気は、彼の気だるい笑い声のせいで澱んだ水底のように重く冷ややかだ。
 加藤は隠れるように教室に入ってきた奥田の前に立ちはだかると、ぎらついた視線を彼女の顔から足先まで滑らせた。避けて通ろうとする彼女の手首を、にやけ顔の加藤が素早く摑む。
「なあ、また一緒に遊ぼうぜ」
 僕はおもむろに席を立ち、黙って二人の間に割って入った。加藤の鋭い眼光が鼻先に迫る。
「んだよ樺島、文句あんのか。それとも心を入れ替えて、自分から金を差し出しにきたってか?」
 そう言って薄笑いを浮かべた加藤は、奥田の手首を離すと僕の胸ぐらを乱暴に締め上げた。
「ほら、早く出せよ。俺に金を渡したくて仕方がないんだろ、泣き虫カバちゃん」
 次の瞬間、鈍い音と共に加藤が数歩後ずさった。彼の鼻からは真っ赤な血がぼたぼたと滴っている。僕の頭突きが加藤の鼻を潰したのだ。
「何しやがる、このクソカバ!」
 怒りに任せた加藤の前蹴りが、僕の腹を勢いよく抉った。避けることもできたが、後ろにいる奥田を危険に晒すわけにはいかない。
 腹から胸にかけて強烈な鈍痛が広がり気分は最悪だったが、こんなものはいくらでも我慢できる。圭介と奥田が強いられた痛みに比べれば、こんなものは蚊に刺されたようなものだ。
 僕はなおも殴りかかろうとする加藤を睨みつけて、冷たく言い返した。
「もう一度言ってみろ」
 予想もしなかった言葉に気圧されたのか、加藤は拳を振り上げたまま動きを止めた。その胸ぐらを今度はこちらが摑み返す。僕は両腕をぐっと引き寄せ、加藤の耳元で優しく囁いた。
「──殺すぞ」
 よほど凄みを感じたのか、青ざめた加藤は摑まれた胸ぐらを慌てて振りほどくと、ばつが悪そうに足音を響かせて廊下へ出ていった。
 僕はその後ろ姿を見届けながら、圭介が言った言葉を思い返していた。今、僕の胸中を満たしているのは、彼が持てと言ってくれた自信ではない。では何か。あえて近い感情を挙げるなら、すっかり肝が据わったこの感覚は覚悟と言い表すことができるかもしれない。まだまだ自信なんて持てそうもないが、彼が僕に伝えたかったことはきっとこういうことだったのだろう。
 自信はなくとも、覚悟を決めさえすれば恐怖はなくなる。今思えば、いじめられっ子の僕をかばい続けていた圭介からは、常に覚悟が感じられたような気がする。だからこそ彼は誰からも頼られる、憧れの存在だったのだろう。
 ただ皮肉なことに、僕の覚悟を呼び起こした引き金は救いようのない破滅だった。僕はもう、圭介のように気高く生きることは許されない。
 僕の人生をすっかり変えてしまった、年中薄暗くて湿っぽい林。あそこは神社の目と鼻の先だ。きっと神様は、あの夜の一部始終を静かに傍観していたことだろう。だからもし僕をとがめるつもりなら、悪事はすぐに露見して重い罰が課されるに違いない。
 しかし万が一、世間の目が永遠にあの林へ向かなかったとしたら──。そのときはこう解釈しようと思う。神はおそらく僕に、圭介がやり残したすべてを背負って生きろと言っているのだと。
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