ぷかり桟橋

塚本正巳

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ぷかり桟橋

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 正面から歩いて来る男を見て足が止まった。休日の午後、繁華街で買い物を済ませて駅に向かう途中だった。
里緒りお、久しぶり」
 男は懐かしい笑みを浮かべ、気さくに手を挙げた。たちまち全身が凍りつく。私は男の人懐こい視線をはねつけて踵を返した。
「待って、話がしたい」
「私は話なんてない」

 男の名は大樹だいき。実家の近所に住んでいた同級生だ。しかも私たちは高校卒業後に付き合い始め、いつ結婚してもおかしくない仲だった。五年前、彼がすっかり変わってしまうまでは。
 追いかけて来た大樹が、背後から絞り出すような声を出して食い下がる。
「昔のことは反省してる。俺が悪かった」
 横目に映った大樹の顔は心なしか青白く、悲しみに満ちていた。それほど後悔するなら、初めから私を振ったりしなければよかったのだ。

 幸せの絶頂だった五年前のある日、大樹は何の前触れもなく豹変した。会う予定をすべて反故にして連絡を絶ち、それから一週間も経たないうちに別れを切り出してきたのだ。当時はあまりの衝撃に、理由を訊くことさえできなかった。

「ずいぶん大荷物だな。手伝おうか?」
「お構いなく。私、結婚するの。新居用の買い物が残ってるからこれで」
 一年前から勤め先の先輩と交際を始め、つい先月婚約したばかりだ。今さら大樹になどかまっていられない。
 立ち去ろうと歩速を上げると、不意に身体が傾いた。大樹がいきなり私の手首を摑んだのだ。
「結婚……おめでとう」
 無念と安堵が入り混じったような、何とも言えない表情。その言葉、あなたにだけは言われたくない。私は思わず胸中で呟いていた。
「少し話さないか。『ぷかり桟橋』に行こう」

 大樹は私の手を引いて、駅前でタクシーを拾った。何だかんだ言いながらもその手を振りほどけなかったのは、不本意ながら私にも期待があったからだろう。決して復縁の期待などではない。あの日ぽっかり空いてしまった心の穴を、けじめという栓できっちり塞いでしまうための儀式。やっと大樹を忘れられるという期待が、渋る私の背中を押したのだ。
 並んで後部座席に座っていると、『ぷかり桟橋』の思い出がぼんやりと蘇ってきた。横浜の港湾から伸びた、海に浮いている長い桟橋。その先には青緑色の洋館が建っており、ライトアップされ暗い海に浮かぶそのたたずまいは幻想的でとても美しい。高校を卒業したばかりの大樹は、その洋館の前で私への想いを打ち明けた。辺りの夜景、大樹、そして私。すべてが純粋で無垢でけがれたところが少しもなくて、とても眩しかった。

 気がつくとタクシーは停まっていた。大樹はいつの間にか降りていて、一人でどんどん桟橋に向かっていく。慌てて彼の背中を追いかけた。幼い頃からずっと追いかけてきた、広くて温かくて、世界一大好きだったその背中を──。

「里緒を傷つけたくなかったんだ」
 桟橋の手すりに両手をかけた大樹は、昼間のくすんだ東京湾を遠い目をして眺めている。あなたは傷つけていないつもりでも、私は十二分に傷ついた。そう言い返してやりたかったが、やめた。今さら恨み言を突きつけたところで何になる。
「俺、今も昔の彼女につきまとわれててさ。実は里緒と付き合ってる間もずっと」
 初耳だった。かつて大樹が年下と付き合っていたことは知っているが、その彼女とは高校卒業と同時に別れたはずだ。
「まさかこんなにこじれるなんてな。別れた後、最初はたまに連絡してくるだけだった。でもそのうち家に押しかけるようになって、俺の仕事先に現れたことも一度や二度じゃない」
「ストーカーってこと?」
「ああ。彼女はそんな生活を続けるうち、とうとう自分自身を制御できなくなった。里緒と付き合い始めて二年くらい経った頃、俺のうちに匿名で一本の動画が届いたんだ」
 苦々しくかぶりを振った大樹は、口元をきつく強張らせた。
「女性の部屋を盗撮した動画。絶対外に漏らしてはいけない、部屋の主のプライベートな様子が映っていた」
 ひどい悪寒が背筋を駆け上がった。彼が気を遣ってぼかした盗撮の内容が、否応なく頭の中に映し出されていく。
「俺と関わり続けると被害が増す。悩んだ末、俺は里緒と縁を切ることにした。同時に彼女から逃れるため、会社に異動を申し出た」
 とても嘘をついているようには見えなかった。とすると、この期に及んで私の前に現れた理由は──。
「……無理だよ。私、婚約しちゃった」
 大樹はぎこちなく頷くと、見ているほうが泣きたくなるくらいの晴れやかな笑顔を作った。
「会えてよかった。俺の分も幸せにな。ほら、ウミネコも祝福してる」
 彼が指差した先には、紺碧こんぺきを滑る二つの白い点があった。寄り添って羽ばたく二羽のウミネコ。つがいだろうか。無邪気にじゃれ合うような二羽の姿に、不思議な懐かしさを覚えた。そういえば、幸せに溢れているあのウミネコのつがいみたいな時期が私たちにもあった。大樹に降りかかった災難さえなければ、今頃私たちもあんな風に並んで大空を飛んでいたのかもしれない。
 ふと向き直ると、すでに彼の姿はなかった。長引くと別れが辛くなると思い、私が空を見上げている間に立ち去ったのだろうか。

 穏やかな潮風が、すっかり濡れてしまった頰をひやりと撫でる。我に返ってバッグに手を突っ込み、手探りでスマホを探した。きっと化粧が崩れてひどい顔になっているに違いない。
 スマホのミラーアプリを立ち上げようとした矢先、メッセージの通知が目に入った。大樹と別れてすっかり疎遠になっていた、彼の母からだ。

〝里緒ちゃん、急にごめんなさい。今朝、大樹が亡くなりました。自宅アパートの玄関先で若い女性に刺されたそうです。あの子はストーカー被害にあっていたのですが、別れたあともずっと里緒ちゃんのことを気にかけていました。いつか本当のことを話したいと言っていたのに、残念でなりません〟

 私はウミネコを探したが、そこにはもう、のっぺりとした海辺の青しかなかった。
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