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「へ?」
 ぽかんと口を開けてナーバルの顔を見つめる。
 トリスの反応はわずかに眉を動かすのみだった。イズは視線を彷徨わせて、最終的に間違いなく味方であろう方に手を伸ばす。ぎゅうっと強く腕を取られて胸を撫で下ろした。
 早鐘を打つ心臓を上から押さえつけ、ゆっくりと鼻から息を吸う。呼吸を整える間、トリスはナーバルから目を離さなかった。
「アイツに何か言われたか?」
「いや、オレが下手を打っただけだ。ちょっと叱ってやろうとしたら逆に制限を増やされた」
「はぁ?」
 舌打ちして、「残念だったな、イズ」とトリスまで諦めるようなことを言う。何が残念なのだろう。何がどうなって、ナーバルがマルクス側に立つことになったのかが分からない。
 ずっと分からないことばかりだ。この二人の頭の辞書には弁明とか懇切丁寧とか、そういう誠意の欠片みたいなものは入っていないのだろうか。
「イズ、オレには妹がいるって言ったよな。マルクスと一緒にいた魔法使いがそうだ」
 イズの思いが伝わったのか、さすがに説明がなさすぎると心から反省してくれたのか、ナーバルは言う。
「……え? えぇ? でも、だって、どう見たって、年上にしか見えないわ。成人しているでしょう、彼女」
 攻撃魔法を使ってきたローブの女性の背丈は成人のそれだった。マルクスより頭一つか二つ分は背丈が高い。
「む、胸だってあったわ」
 今それは問題じゃないだろうということまで口走り、すぐに恥ずかしくなって俯く。
 そんなイズの様子を見て、まるで孫を見る年寄りのようにナーバルは目を細める。
「オレの妹もおまえくらい可愛げがあったらよかったんだろうけどなぁ。今ちょうど反抗期で、兄貴の言うことなんか聞きもしない」
「仮にあなたの言うことを信じるとして、どうしてあなたまであっちの味方することになるのよ」
「オレに妹の敵になれって言うのか? いや、冗談だよ。そのイーッて顔やめろ。おまえらに会う遥か昔に妹と交わした契約を魔法で上書きされたんだ。あれはそういうことに関しては上手だからしてやられた。ここまでやるやつだとは思ってなかったが、油断したオレが悪いよ。ごめん」
 素直に謝られたので余計に恐怖が増す。ごめんという語彙が彼にあったのか。普段からもっとありがとうとかごめんなさいとか言ったほうが良いわ。円滑な人間関係を築く基本よ。
「ナーバルも私を殺すの?」
「まさか。咄嗟に抵抗したから、そこまでの強制力はない。ただ少し血をくれ」
「駄目だ」
 それまで黙っていたトリスがイズを後ろ手にかばう。さらっと言われたので素直に頷きそうになったが、今もしかして血をくれと言われたのかしら。さすがにそれは怖過ぎる。「血や唾液は魔法使いとの最も強い強制力がある契約に使われる。最悪、契約に反することをすれば、命を奪うような契約だっておまえならできるだろう。そもそも、おまえの妹にしたって、イズを殺せと契約を上書きすることだってできたはずだ。何に使うつもりか知らないが、それは看過できない。ナーバル、おまえは自分の手抜かりの責任を自分で取る必要がある。イズに負担をかけるようなことをするな」
「契約によって殺人を強制することはできない。いかにもあれのやりたがりそうなことではあるが、いくらあれが規格外だからって、その不文律は崩せない。そこの無理を通そうとすれば絶対に契約自体に矛盾が生まれる。その矛盾の隙をつつけないほどオレも耄碌してないよ。だが、例えばオレが契約違反をすれば契約書の記載内容によっては命を取られる。つまり、オレとイズが契約したことにより、どちらかが契約違反で死ぬことはあっても、妹との契約でオレがイズを殺すことはない。まあ、そんなややこしいことは一旦置いておくとして、オレが今やろうとしているのは逆だ。契約により、イズをどんな理由であれ傷付けないっていう安全策を取りたい。さっきも言ったけど、オレの妹は少しばかり普通じゃない。目的のためなら何をするか分からないから、今のうちに対策しておきたい」
「もし契約に反したら?」
「イズは死なない。そもそも、そんな要項は組み込まない。オレが契約に反してイズに何か危害を加えたら、オレは死ぬ。イズは、死なない。トリス、いいだろう、それで」
「どうして私のことをトリスに聞くのよ」
「コイツが文句言ってくるからだろう。イズだけだったら、すんなり丸め込めたのに」
 めんどくせぇと毒づくので、思わず指を差す。今の言葉を聞いた? ひどいわ。やっぱり信用できないわよ、この人。
 一生懸命そう訴えるが、トリスが「いいだろう」と言うせいで話がまとまってしまった。
「ガキみたいにキーキーと喚くなよ、イズ。野生の猿のほうがまだお行儀がいいぞ」
「そうだぞ。ちゃんと淑女らしくしろ。せっかく魔法のおかげで今は可愛い見た目してるんだから」
「信じられない……一瞬で仲直りしちゃったわ……」
 先程まで睨み合っていたとは思えないほど仲良く肩を組む二人を、イズは恨みがましく睨む。何なのよ、この人たち。
「ほら。はやく手を出せ。切るぞ」
「血を取ったら、すぐに治癒魔法かけてくれる? 痛いの嫌い」
「わかった、わかった」
 ナーバルは軽く返事をしつつ、ナイフを構える。手のひらに刃が食い込み、血の粒が大きくなるのを上体を反らしながら見つめる。
 約束通り、必要量が取れるとすぐに治癒の魔法をかけてくれた。小指の爪くらいの血が、魔法で出現させた契約書の上を走っていく。契約内容に問題がないかを確認する二人の後ろからイズも覗き込み、「うん、良いな」と頷き合うトリスとナーバルをひたすら睨み続けた。契約者は私なのに。
 イズがむくれていると、ナーバルが自分の耳に付けていたピアスを外して渡してくる。
「何よ、これ」
「認識阻害の魔法がかかってる。世界がおまえに気付きづらくなる」
「世界が?」
「世界が」
 どういう意味?と聞くが、ナーバルは曖昧に笑うだけだった。
 魔法で作成した契約書は、また魔法で小さくなっていき、イズの手のひらに吸い込まれていった。同じようにナーバルの契約書も彼の体の中に取り込まれる。
「じゃあ、夕飯の買い物でも行くか」
「えっ。ちょっと待って。まだ何も解決してないわ。ナーバルが私に何かしないようにするっていう応急処置みたいな対応をしただけじゃない。結局私はマルクス様に命を狙われたままなの?」
「ああ、そうだな。まぁ、当面は大丈夫だろう」
「大丈夫って何が大丈夫なの? ねえ、トリス。この適当大魔人にガツンと言ってやって」
「まぁ、大丈夫だろう」
 トリスまで適当大魔人の仲間になってしまったらしい。この二人ときたら根本のところは本当によく似ている。
 そもそもナーバルとその妹の契約は、何が上書きされたのだろう。そこから教えてもらわないと安心できない。
 それなのに、味方であるはずのトリスはもう興味がなさそうに窓の外を眺めている。わぁ小鳥さんだぁとでも思ってるのかしら。腹立たしいこと、この上ない。
「もう!」
「何かうまくいかなくてもナーバルが何とかする。自分のケツくらい自分で拭けるだろ」
「任せとけ」
「絶対何も考えてない! 問題は山積みよ! そもそもマルクス様は今どうしてるの? まさか応接室に残してきたわけじゃないわよね!?」
「応接室ならなくなったぞ。爆破した」
「爆破!?」
 卒倒しそうになるイズをよそに、二人はのんきに夕食の相談を始めている。
 適当だわ、適当過ぎる。
「私がしっかりしなくちゃ……」
 そう呟きながら、爆破された屋敷のことを思い深く深くため息をつく。完璧な淑女だと母親に認めさせたかったのにと歯噛みした。
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