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息を呑む。
悲鳴を上げないように、ぐっと膝の上で拳を握りしめて堪えた。
おそろしい。ナーバルの魔法具がなかったら一体今頃どんな目に遭っていたことか分からない。
呼吸ができなくなるような感覚に襲われる。だが、気付いたことに気付かれてはならない。相手は秘密裡に事を進めたいはずだ。だから連れていた騎士たちにイジーを攻撃させるようなことは命令しなかった。
「まあ。それは素晴らしいですわ!」
じわじわと背筋を冷たいものが這い上がり、目に涙が溜まっていくのが分かる。かろうじて出した声は震えていなかっただろうか。
私、本当は愛されていなかったのかもしれない。それどころか、こうして危害を加えようとするくらい嫌われていたのかも。
今はそんなことを考えている場合ではないのに、嫌な想像ばかりが頭に浮かんでしまう。
彼の婚約者としてつり合うように今まで頑張ってきたのは何だったのだろう。無駄な努力だったのかもしれない。彼だけが私を愛してくれていると思っていたから、どんなに皇太子妃となる教育がつらくて厳しくても耐えられた。それなのに――
イズは転移の魔法具を使おうとした。
こんな仕打ち、耐えられない。
しかし、直前にその手を止めた。
本当に、めそめそと泣くばかりで良いのだろうか。いや、実際には微笑みを崩さず涙も見せていないが、このままおめおめとやられっぱなしなんて、あんまりだ。ひどすぎる。
今までに感じたことがないくらいの激しい感情が腹の奥底から沸き上がってくる。
私が一体、何をしたって言うのよ。
この年齢まで遡ってしまう前は、婚約者として献身的に尽くしてきたはずだ。彼が愛していると言うから、どんなに辛いことがあっても耐えた。他の貴族令嬢からのやっかみや嫌がらせだって、何も言わずにただただ微笑んで許してきた。だって目の前の元婚約者は、私を助けてくれたから。誰にも必要とされていない私を必要だと言ってくれた。彼だけが家族からも見捨てられて惨めで情けない私を救い上げてくれた。だから全部許した、そして言いたいことがあっても全て飲み込んだ。全部全部、心の中にしまい込んだ。
その結果、数年後の成長したマルクスは他の女性に目移りして大衆の面前で有る事無い事でっちあげてイジーの尊厳をズタボロにし、今まさに理由は分からないけれど明らかな敵意を向けられている。
何としても一矢報いてやらなければ気が済まない。
口を開きかけたそのとき、また視界が歪むような感覚がした。
「イズ、おまえ本当に後で覚えておけよ」
「……え?」
いきなり目の前が真っ暗になる。耳元で恐ろしく低い声が聞こえたかと思うと、ドンッと床に尻餅をついた。
後ろに倒れかかったのをトリスが支えてくれる。ナーバルは声だけ残して霧のように消えてしまった。
どうやらナーバルと暮らしている屋敷に瞬間移動してきてしまったらしい。呆然と周囲を見渡す。
どう見てもイズの部屋ではない。入ったことがないので確信はないがナーバルの部屋だろう。意外にも整理整頓されていて、埃ひとつ落ちておらず清潔感がある。
気付かぬうちに発動させてしまったかと転移の魔法具を見てみるも、使用した形跡はない。首を傾げていると、「あーあ」というトリスの溜息が降ってきた。
「まずいぞ。あいつ相当怒ってる」
「何言ってるの。怒ってるのは私のほうよ」
「頼むから、戻ってきたナーバルにそんな口の利き方しないでくれよ。連帯責任で俺までブッ殺される」
情けない声を出す彼に抗議しようと顔を上げる。だが、その表情を見て、早々に反論する気がなくなってしまった。
「なんて顔してるのよ……」
顔面蒼白のトリスが震える指先を伸ばしてくるので、イズはぎゅっとその手を握った。
「ねぇ……私、そんなに心配かけると思ってなかったの。ただ彼があんまりにもぞんざいな扱いをしてくるから、ちょっと嫌味の一つでも言ってやろうとしただけ。……言い訳にしかならないのは分かってるわ。約束破ってごめんなさい。お願い、許して」
先程までのマルクスにやり返してやろうという威勢はすっかりどこかへ行ってしまった。代わりに、ギリギリまでイズが魔法具を使うのを待ってくれていたであろう二人に申し訳ない気持ちが胸を占める。
「あのローブの女がおまえに近付いてすぐ、毒の魔法を使った。無効化の魔法具を持ってなかったら間違いなく遅効性の毒で数時間後には心臓が止まってた」
イズは無言で頷く。
「イズにも考えがあるだろうからって、すぐに強制転移させようとしたナーバルを止めたのは俺だ。でも怖かった。おまえは何も分かってない。俺たちがどれだけ焦ったか分かるか? 分からないんだろうな、いつまでも。おまえはそういうやつだ。俺は、またおまえが死んだらどうしようって、それが一番怖かった」
「私、ちゃんと分かってるわ」
彼らが自分を少なくとも親しい知り合いくらいに思ってくれているであろうことは分かっている。
「分かってたら、あんなところに留まることはしない。すぐに逃げてほしかった。何のためにナーバルが命削って魔法具作って持たせてやったんだよ。言っとくけどな、まともに作ろうとしたら一つ作るのにも数ヶ月はかかるんだからな
「ごめんなさい……」
抑えたような声で話すトリスの目をじっと見つめながら再び謝ると、「その見た目だと俺がおまえをいじめてるみたいになる」と苦々しげに言われる。
ただ、マルクスにやり返したかっただけだった。入れ替わってからずっと、トリスやナーバルに頼るばかりで自分一人では何もできていない。そんな自分が嫌になった。だが、それは彼らに余計な心労を与えるだけだった。
悲鳴を上げないように、ぐっと膝の上で拳を握りしめて堪えた。
おそろしい。ナーバルの魔法具がなかったら一体今頃どんな目に遭っていたことか分からない。
呼吸ができなくなるような感覚に襲われる。だが、気付いたことに気付かれてはならない。相手は秘密裡に事を進めたいはずだ。だから連れていた騎士たちにイジーを攻撃させるようなことは命令しなかった。
「まあ。それは素晴らしいですわ!」
じわじわと背筋を冷たいものが這い上がり、目に涙が溜まっていくのが分かる。かろうじて出した声は震えていなかっただろうか。
私、本当は愛されていなかったのかもしれない。それどころか、こうして危害を加えようとするくらい嫌われていたのかも。
今はそんなことを考えている場合ではないのに、嫌な想像ばかりが頭に浮かんでしまう。
彼の婚約者としてつり合うように今まで頑張ってきたのは何だったのだろう。無駄な努力だったのかもしれない。彼だけが私を愛してくれていると思っていたから、どんなに皇太子妃となる教育がつらくて厳しくても耐えられた。それなのに――
イズは転移の魔法具を使おうとした。
こんな仕打ち、耐えられない。
しかし、直前にその手を止めた。
本当に、めそめそと泣くばかりで良いのだろうか。いや、実際には微笑みを崩さず涙も見せていないが、このままおめおめとやられっぱなしなんて、あんまりだ。ひどすぎる。
今までに感じたことがないくらいの激しい感情が腹の奥底から沸き上がってくる。
私が一体、何をしたって言うのよ。
この年齢まで遡ってしまう前は、婚約者として献身的に尽くしてきたはずだ。彼が愛していると言うから、どんなに辛いことがあっても耐えた。他の貴族令嬢からのやっかみや嫌がらせだって、何も言わずにただただ微笑んで許してきた。だって目の前の元婚約者は、私を助けてくれたから。誰にも必要とされていない私を必要だと言ってくれた。彼だけが家族からも見捨てられて惨めで情けない私を救い上げてくれた。だから全部許した、そして言いたいことがあっても全て飲み込んだ。全部全部、心の中にしまい込んだ。
その結果、数年後の成長したマルクスは他の女性に目移りして大衆の面前で有る事無い事でっちあげてイジーの尊厳をズタボロにし、今まさに理由は分からないけれど明らかな敵意を向けられている。
何としても一矢報いてやらなければ気が済まない。
口を開きかけたそのとき、また視界が歪むような感覚がした。
「イズ、おまえ本当に後で覚えておけよ」
「……え?」
いきなり目の前が真っ暗になる。耳元で恐ろしく低い声が聞こえたかと思うと、ドンッと床に尻餅をついた。
後ろに倒れかかったのをトリスが支えてくれる。ナーバルは声だけ残して霧のように消えてしまった。
どうやらナーバルと暮らしている屋敷に瞬間移動してきてしまったらしい。呆然と周囲を見渡す。
どう見てもイズの部屋ではない。入ったことがないので確信はないがナーバルの部屋だろう。意外にも整理整頓されていて、埃ひとつ落ちておらず清潔感がある。
気付かぬうちに発動させてしまったかと転移の魔法具を見てみるも、使用した形跡はない。首を傾げていると、「あーあ」というトリスの溜息が降ってきた。
「まずいぞ。あいつ相当怒ってる」
「何言ってるの。怒ってるのは私のほうよ」
「頼むから、戻ってきたナーバルにそんな口の利き方しないでくれよ。連帯責任で俺までブッ殺される」
情けない声を出す彼に抗議しようと顔を上げる。だが、その表情を見て、早々に反論する気がなくなってしまった。
「なんて顔してるのよ……」
顔面蒼白のトリスが震える指先を伸ばしてくるので、イズはぎゅっとその手を握った。
「ねぇ……私、そんなに心配かけると思ってなかったの。ただ彼があんまりにもぞんざいな扱いをしてくるから、ちょっと嫌味の一つでも言ってやろうとしただけ。……言い訳にしかならないのは分かってるわ。約束破ってごめんなさい。お願い、許して」
先程までのマルクスにやり返してやろうという威勢はすっかりどこかへ行ってしまった。代わりに、ギリギリまでイズが魔法具を使うのを待ってくれていたであろう二人に申し訳ない気持ちが胸を占める。
「あのローブの女がおまえに近付いてすぐ、毒の魔法を使った。無効化の魔法具を持ってなかったら間違いなく遅効性の毒で数時間後には心臓が止まってた」
イズは無言で頷く。
「イズにも考えがあるだろうからって、すぐに強制転移させようとしたナーバルを止めたのは俺だ。でも怖かった。おまえは何も分かってない。俺たちがどれだけ焦ったか分かるか? 分からないんだろうな、いつまでも。おまえはそういうやつだ。俺は、またおまえが死んだらどうしようって、それが一番怖かった」
「私、ちゃんと分かってるわ」
彼らが自分を少なくとも親しい知り合いくらいに思ってくれているであろうことは分かっている。
「分かってたら、あんなところに留まることはしない。すぐに逃げてほしかった。何のためにナーバルが命削って魔法具作って持たせてやったんだよ。言っとくけどな、まともに作ろうとしたら一つ作るのにも数ヶ月はかかるんだからな
「ごめんなさい……」
抑えたような声で話すトリスの目をじっと見つめながら再び謝ると、「その見た目だと俺がおまえをいじめてるみたいになる」と苦々しげに言われる。
ただ、マルクスにやり返したかっただけだった。入れ替わってからずっと、トリスやナーバルに頼るばかりで自分一人では何もできていない。そんな自分が嫌になった。だが、それは彼らに余計な心労を与えるだけだった。
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