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六幕 夢魘の日々
一.
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風が吹く。桜が舞う。恐らくこの世で最も大きく、最も長寿の桜であろうそれは、連綿と続くこの桃李京の歴史を象徴する。それは、彼女の父や、その祖先が永きに亘って佳き統治を続けた証でもある。
今年は心なしか花弁の色が濃い。手を伸ばし、無数に舞い散るその中の一枚をつかみ取る。ゆっくりと拳を開けば、それはたちまち宙へと戻っていった。
「桜の花びらをね、地面に落ちる前に掴めると願いが叶うんだって」
「そんなの嘘に決まってるだろ? 本当にお前はいつまでも子供だな」
「何てこと言うの!? じゃああんたは絶対にお願いしちゃダメなんだからね!」
「なっ、しないとは言ってない」
「もう、本当にあんたはいつまで経っても――……」
脳裏を駆け抜ける記憶に、漠然とした虚しさを覚える。それはまだ一緒に居たときの――一緒に居られた時の記憶。幸せを疑いもしなかった時の記憶。あぁ、やっぱり、嘘じゃないか。少なくとも、俺たちの願いは叶わなかっただろ?
『あんたなんか大っっっ嫌い!! さっさと消えてよ!!』
あの日から消えることなく頭の中に反響し続ける言葉。幾度となく忘れようと思い、その度に自分への戒めだと心に留めた言葉。俺にとっての一番新しいお前の声が消えない。怨嗟と、怒りと、絶望と――……得も言われぬ哀しみで嗄れた声が、消えないんだ。全て塗り変えてしまう。お前の笑い声はどんなだった? 忘れたくない。――忘れたくない? いや、違う。もう一度聴きたい。
「あー! ずるい! あたし一枚も取れなかった!」
「下手くそ。動きが鈍いんだよ。それから動体視力どうにかした方が良いんじゃない?」
「何それ、ムカつく! それ頂戴! あたしがお願いする!」
「お前は本当に馬鹿だな。それじゃ意味ないだろ。だから、お前の願いに合わせるから、何て願おうとしたのか教えろよな」
「……! うん、あのね――……」
***
嫌な夢を見てしまった――と、爛瀬は額を伝う汗を袖で拭う。寝ても覚めても脳が見せるのは彼女の姿で、今となってはどちらが夢でどちらが現実なのかも曖昧になってしまう。せめて彼女の微笑う世界が現実だったなら――そんな願いも虚しく、和気香風とした至福の日々はいつも突然終わりを告げる。プツンと切れた記憶の残照は途端に意識を暗澹たる暗闇へと突き落とす。息苦しさに目覚めてみればそこは見慣れた自室の天井で、早鐘を打つ鼓動にこちらが真実の世界なのだということを嫌というほど突きつけられる。
覚醒した意識を再び闇に鎮めることはままならず、爛瀬は臥榻からゆっくりと足を下ろした。未だ荒いままの息を整え、籠った熱を冷ますために寝間着の襟を緩める。ふと窓を見遣れば、空は未だ暗色の薄絹を纏ったままで、まだ暫くは陰の支配が続くことを示していた。しかしこのまま眠れる気がしないと、次に衣装掛けに掛かっている上着を手に取る。袖を通し、背中に入り込んだ鮮やかな朱の髪を払う。流石に肩や項を出すのは寒いかもしれないと、長い髪は結い上げることなく風に遊ばせる。どうせ誰も見ないのだから問題ないだろう。
極力音を立てないようにそっと扉を開き、左右を確認する。誰もいない。物音の一つも聞こえない。いや、風の音は少し聞こえるかもしれない。燭台に揺らめく僅かな光を頼りに、暗い廊下を裸足のまま歩いていく。どこか目的があるわけではない。ただ、どこかに行きたい。それだけだった。
とはいえ、この近辺の治安を考えればこの時間に屋敷の外を徘徊することは流石に憚られる。未だ元服も済まぬ若輩の身とはいえ、いや、だからこそ、それくらいの分別はあるつもりだった。すると足は自然と城壁側の廊下へと向かう。途中にある窓から露台へと出て、そこから架かる橋を伝って歩廊に登る。
冷たい夜風が頬を切り、今年の春は随分と寒いな――と漠然と思いながら、都の外の景色を眺望する。
見えるのは丹燕湖と呼ばれる広大な湖だけだ。ちゃぷん、ちゃぷんという囁きと共に、波打つ湖面の上で星々の煌めきが船を漕ぐ。この景色もまた、彼女と一緒に慈しんだものの一つだ。
結局のところ、この桃李京という世界に居る限り、どこへ行っても必ず彼女の姿が脳裏に浮かぶのだ。自分の家、自分の部屋ですら彼女との思い出が溢れている。この歩廊だって、飽きるほど一緒に歩いた。朱雀門の近くにある遊技場ではいつも勝敗を争ったし、鍛錬場では同じ師を仰ぎ互いの技を研鑽した。西側にある商業地区においては互いに相手の髪色の結紐を送り合い、東側の青龍門の近くでは必要もないのに官吏になるための試験勉強だと言って、その辺の役人を巻き込んだ。皇宮やその付近などはもはや彼女の庭だ。この街にあって、彼女の面影の残らない場所は一つもない。
「今どこに居るんだよ、琅果――……」
自身の不甲斐なさが情けなくて、爛瀬は深い溜め息と共にその場にへたり込む。その時だった、ひゅうと冷たい風に乗って、どこからか喧騒が聞こえてきたのは――。
途端に立ち上がって、爛瀬は内側――街側――の狭間から身を乗り出す。聞こえてきたのは東側だ。ということは青龍門付近で何かあったのだろうかと目を凝らしてみるも、ここからではよく見ることができない。強い風に髪が無造作に弄ばれ、更に視界を邪魔する。
直後、何かが破壊されるような大きな音が聞こえてくる。何が起きたのか、椋杜は無事なのかと、様々な不安が一挙に押し寄せてきた。
このまま真っ直ぐ城壁の上を歩いていけば青龍門に辿り着く。しかしそれはいつだ。どんなに走っても数時間は掛かる。確認に行きたいのなら馬を出すべきだとも思う。だが、こんな時間に馬を出すことを厩番は許してくれないだろう。未だ無力な子供でしかない自分自身に嫌気が差す。暫く東方を凝視し、耳を澄ませ、少なくとも今ここで分かる限りでは子細ないことを確認する。安心するには材料が足りないが、そもそも自分が行ったところで何の役にも立たない。きっと大丈夫なはずだと、これ以上気を揉まないためにも、爛瀬は静かにその場を後にした。
今年は心なしか花弁の色が濃い。手を伸ばし、無数に舞い散るその中の一枚をつかみ取る。ゆっくりと拳を開けば、それはたちまち宙へと戻っていった。
「桜の花びらをね、地面に落ちる前に掴めると願いが叶うんだって」
「そんなの嘘に決まってるだろ? 本当にお前はいつまでも子供だな」
「何てこと言うの!? じゃああんたは絶対にお願いしちゃダメなんだからね!」
「なっ、しないとは言ってない」
「もう、本当にあんたはいつまで経っても――……」
脳裏を駆け抜ける記憶に、漠然とした虚しさを覚える。それはまだ一緒に居たときの――一緒に居られた時の記憶。幸せを疑いもしなかった時の記憶。あぁ、やっぱり、嘘じゃないか。少なくとも、俺たちの願いは叶わなかっただろ?
『あんたなんか大っっっ嫌い!! さっさと消えてよ!!』
あの日から消えることなく頭の中に反響し続ける言葉。幾度となく忘れようと思い、その度に自分への戒めだと心に留めた言葉。俺にとっての一番新しいお前の声が消えない。怨嗟と、怒りと、絶望と――……得も言われぬ哀しみで嗄れた声が、消えないんだ。全て塗り変えてしまう。お前の笑い声はどんなだった? 忘れたくない。――忘れたくない? いや、違う。もう一度聴きたい。
「あー! ずるい! あたし一枚も取れなかった!」
「下手くそ。動きが鈍いんだよ。それから動体視力どうにかした方が良いんじゃない?」
「何それ、ムカつく! それ頂戴! あたしがお願いする!」
「お前は本当に馬鹿だな。それじゃ意味ないだろ。だから、お前の願いに合わせるから、何て願おうとしたのか教えろよな」
「……! うん、あのね――……」
***
嫌な夢を見てしまった――と、爛瀬は額を伝う汗を袖で拭う。寝ても覚めても脳が見せるのは彼女の姿で、今となってはどちらが夢でどちらが現実なのかも曖昧になってしまう。せめて彼女の微笑う世界が現実だったなら――そんな願いも虚しく、和気香風とした至福の日々はいつも突然終わりを告げる。プツンと切れた記憶の残照は途端に意識を暗澹たる暗闇へと突き落とす。息苦しさに目覚めてみればそこは見慣れた自室の天井で、早鐘を打つ鼓動にこちらが真実の世界なのだということを嫌というほど突きつけられる。
覚醒した意識を再び闇に鎮めることはままならず、爛瀬は臥榻からゆっくりと足を下ろした。未だ荒いままの息を整え、籠った熱を冷ますために寝間着の襟を緩める。ふと窓を見遣れば、空は未だ暗色の薄絹を纏ったままで、まだ暫くは陰の支配が続くことを示していた。しかしこのまま眠れる気がしないと、次に衣装掛けに掛かっている上着を手に取る。袖を通し、背中に入り込んだ鮮やかな朱の髪を払う。流石に肩や項を出すのは寒いかもしれないと、長い髪は結い上げることなく風に遊ばせる。どうせ誰も見ないのだから問題ないだろう。
極力音を立てないようにそっと扉を開き、左右を確認する。誰もいない。物音の一つも聞こえない。いや、風の音は少し聞こえるかもしれない。燭台に揺らめく僅かな光を頼りに、暗い廊下を裸足のまま歩いていく。どこか目的があるわけではない。ただ、どこかに行きたい。それだけだった。
とはいえ、この近辺の治安を考えればこの時間に屋敷の外を徘徊することは流石に憚られる。未だ元服も済まぬ若輩の身とはいえ、いや、だからこそ、それくらいの分別はあるつもりだった。すると足は自然と城壁側の廊下へと向かう。途中にある窓から露台へと出て、そこから架かる橋を伝って歩廊に登る。
冷たい夜風が頬を切り、今年の春は随分と寒いな――と漠然と思いながら、都の外の景色を眺望する。
見えるのは丹燕湖と呼ばれる広大な湖だけだ。ちゃぷん、ちゃぷんという囁きと共に、波打つ湖面の上で星々の煌めきが船を漕ぐ。この景色もまた、彼女と一緒に慈しんだものの一つだ。
結局のところ、この桃李京という世界に居る限り、どこへ行っても必ず彼女の姿が脳裏に浮かぶのだ。自分の家、自分の部屋ですら彼女との思い出が溢れている。この歩廊だって、飽きるほど一緒に歩いた。朱雀門の近くにある遊技場ではいつも勝敗を争ったし、鍛錬場では同じ師を仰ぎ互いの技を研鑽した。西側にある商業地区においては互いに相手の髪色の結紐を送り合い、東側の青龍門の近くでは必要もないのに官吏になるための試験勉強だと言って、その辺の役人を巻き込んだ。皇宮やその付近などはもはや彼女の庭だ。この街にあって、彼女の面影の残らない場所は一つもない。
「今どこに居るんだよ、琅果――……」
自身の不甲斐なさが情けなくて、爛瀬は深い溜め息と共にその場にへたり込む。その時だった、ひゅうと冷たい風に乗って、どこからか喧騒が聞こえてきたのは――。
途端に立ち上がって、爛瀬は内側――街側――の狭間から身を乗り出す。聞こえてきたのは東側だ。ということは青龍門付近で何かあったのだろうかと目を凝らしてみるも、ここからではよく見ることができない。強い風に髪が無造作に弄ばれ、更に視界を邪魔する。
直後、何かが破壊されるような大きな音が聞こえてくる。何が起きたのか、椋杜は無事なのかと、様々な不安が一挙に押し寄せてきた。
このまま真っ直ぐ城壁の上を歩いていけば青龍門に辿り着く。しかしそれはいつだ。どんなに走っても数時間は掛かる。確認に行きたいのなら馬を出すべきだとも思う。だが、こんな時間に馬を出すことを厩番は許してくれないだろう。未だ無力な子供でしかない自分自身に嫌気が差す。暫く東方を凝視し、耳を澄ませ、少なくとも今ここで分かる限りでは子細ないことを確認する。安心するには材料が足りないが、そもそも自分が行ったところで何の役にも立たない。きっと大丈夫なはずだと、これ以上気を揉まないためにも、爛瀬は静かにその場を後にした。
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