朽ちし桜と舞う巫女に、春よ呪詛の嘔を詠め

十和井ろほ

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四幕 海境

四.

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 ようやく海が元の静けさを取り戻した。
 琅果が瞼を開けることができたのは、それから少ししてレイが肩を叩いた時だった。
「終わった。色々と、悪かったな。術は解除してくれて構わない」
「え、あの、うん……」
 レイに預けた霊力を自身の元に戻しながら、琅果は「ねぇ、」とおずおずと口を開く。
「さっきのあれは、どうなったの……?」
 周囲を見ても死体すら見当たらない。断末魔――と言えるようなものも聞こえなかった。
 何が起きたのか、そもそもあれは何者だったのか。そんな疑問をレイにぶつけてみるが、レイは言葉を濁す。
「そのことについては……トーヤを助けてから話す」
 そう言って、レイはあの泉の方へと足を進めた。

 二人はそっと泉の奥を覗き込む。何も見えない。そこにはただただ深い闇があるだけだ。
「棠鵺くん、大丈夫かな……?」
 棠鵺が落ちてからもう数分は経っている。もしも溺れていたら? もしも下にまた同じような奴が存在していたら? そんな不安ばかりが募っていく。
「少なくとも、スィールの力はまだ残ってる。これが本当に海水なら、息ができなくて死ぬ……ってことは多分ない、はずだ」
 だが、それにしても長すぎる。下で一体何があったのか。後を追って飛び込むべきではあるのかもしれないが、さてどうすべきか――と思考を巡らせる。
「あ、何か光った!」
 琅果が声を上げた。「あそこあそこ」と指を差すが、レイは「あぁ」と曖昧に返事をするだけだった。
 琅果はじっとその光を見つめる。光は次第に強くなる。水面が先ほどのようにキラキラと輝きはじめた。二人の中に「無事かもしれない」という期待が生まれる。
 やはり追いかけた方が良いのかもしれない。もしもこれが彼なりの救援信号だったとしたら? 互いにそう考えて顔を見合わせたとき、突然水面に波紋が起こった。

 *

(僕、何やってるんだろう……)
 何をするでもなく、ただただ流れに身を任せながら、棠鵺は水の中を落ちていく。
 何も見えない。暗い。星の光はただの一筋すら通らない。
(本当、無力、だなぁ……)
ぼんやりと上に手を伸ばした。息ができるお陰で、水の冷たさは寧ろ心地好いものに感じられた。

 今まで生きてきて、殺意とか、狂気とか、そういうものを向けられたことはただの一度もなかったし、戦うなんてことは考えたことすらなかった。
 それはブリトマータの直轄地に生まれ、そこに育ったがゆえだ。平穏な日常が当たり前で、ただ恙無く日々を過ごすことだけを考えていた。その大地を離れ、外へ出ると言うのはこういうことだ。無償の加護を受けられなくなる。つまりそれ相応の覚悟を要するのだ。
 覚悟は、したつもりだった。だがそれは、所詮つもりに過ぎなかった。
 後悔はしていない。もしするとしても、それは世界《モノ》を知らない自分に対してだ。しかし、それを後悔したところで一体何になると言うのか。
 後悔する暇があったら、次にどうすべきなのかを考えた方が余程良い。

 棠鵺は伸ばした手を強く握る。まだ里を出たばかりでこの有様か。
(強く、ならないと……もっと二人に迷惑をかけてしまう……)
 それはダメだ――と自信に強く言い聞かせる。
 背中に何か感触がある。どうやら底に着いたらしい。相変わらず何も見えないが、落ちているときのような閉塞感はなく、広々としているようには思う。
(そういえば……)
 あの光る物体があったのはこの辺りではなかったか――棠鵺は周囲を模索する。
 だが分からない。何かを掴んでも、それが求めているものであるのか、確認することができないのだ。あまり意味はない。
 しかしそこでふと思う――ここで扇は使えないのだろうか、と。

 シャチを呼んだときといい、その後の舟に乗り込んだときといい、今日だけで何度も潮水に浸かっているが、先程開いたときは何ら異常はなかった。
 仮にスィールの術の一環だとしても、息ができている現在、未だその効果はあるのではないか。
(試してみる価値は、ある)
 棠鵺は扇を取り出す。色を完全に認識できるような光はない。勘だけが頼りだ。白秋扇は朱夏扇と同じく左にある。取り出した扇をゆっくりと開く。そして重々しい水圧を感じながら一度だけ横に振るった。
 光が灯る。
 徐々に強くなる光に、海底の様子がよく見えるようになる。
 そこには随分とあっさりした景色が見えた。聳える断崖と、たまに生えている海藻と、それだけだ。
 ぐるりと周囲を見渡すと、一つ、気になるものがあった。横穴がある。
 正しくは、あった、と言うべきか。そこに通り抜けられるトンネルのようなものがあったのは明らかであるのに、今は完全に閉じて閉まっている。しかも、つい最近、即席で閉じられたような、脆いものだ。
(此処から、大海に繋がってた?)
 棠鵺は埋めるように積まれた岩石をそっと撫でる。土が水に溶けるように舞った。

 棠鵺は再び周囲を見た。キラリと光るものがある。目的のものを見つけた。棠鵺は泳いでそれの側に行き、そっと拾い上げる。
(鏡の破片?)
 本体は横穴の反対の位置に立て掛けられていた。人一人易々と写せるくらいの大きな鏡だ。縁の部分もいくらか壊され、それについたまま散っている破片も少なくない。
 棠鵺は鏡をまじまじと見つめる。
(鏡、だよね……?)
 それにしては妙だ。光を反射してはいた。確かにあれは光の反射だった。しかし他のものを一切写さない。棠鵺が覗き見ても、その姿が写ることはなかった。
 色とは全て、光の反射によって認識されるという。ならば全てのものは例外なく光を放っていると思って良いだろう。そしてそれらの光をその色のまま反射するのが鏡だ。
 だが、この鏡は全ての光を反射する訳ではない。この鏡は棠鵺の作り出した白秋扇の光だけを反射している。写す光を、選んでいる。
(何で、白秋扇だけ?)
 そこで棠鵺は一つ思い出す。そう、鏡だ。
(じゃあ、白秋扇はやっぱり……!)
 棠鵺はなるべく大きな破片を一つ持ち上げ、光を消す。そして急いで上へと向かった。
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