朽ちし桜と舞う巫女に、春よ呪詛の嘔を詠め

十和井ろほ

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四幕 海境

二.

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 黒い影は何かの生物と思って間違いないだろう。
 気になるのは光る物体の方である。先程棠鵺が落とした光の玉を反射しているのだろうが、それにしてはやけに光が強い。だが、それをするまで何も見えなかったと言うことは、やはり光を反射する物質としか思えない。
 じっと光を見つめていると、それの真上で黒い影がぴたりと止まった。絶え間無く動いて気が付かなかったが黒い影はヒトのようななりをしていた。
 だが、それは異常と言えるほどに細い。骨と皮しかないのかと思えるような、不気味なまでの細さだ。髪のようなものがゆらゆらと海藻のように揺らめいていた。するとそれはゆっくり、ゆっくりと振り返ろうとする。
 まずい――何が、と問われれば分からないとしか言いようがない。しかし本能がそう告げていた。
 見られたらダメだ――アレは自然界にある動物ではない。妖族として組み込まれた遺伝子ほんのうがそう伝えてくる。
 棠鵺は白秋扇を急いで閉じ、下の光を消す。それと同時に跳ぶように後ろへ退った。
 明らかに不審な行動にレイと琅果が驚いて棠鵺に近寄った。
「どうしたの……?」
「大丈夫か?」
 棠鵺の視線は未だ水面に向かったままだ。やや息が荒い。頬をつうっと冷や汗が伝った。固唾を飲み込み、息を整える。
 棠鵺は肯定も否定もせず、何を答えるでもなく、ただ立ち尽くす。
 遅かったかも知れない――白秋扇を閉じたその瞬間、見えてしまった。裂けたように三日月形をした口と、獰猛な獣が持つような鋭い牙。そして、闇の中、炯々けいけいと見開かれた二つの赤いまなこが。
「見える」と言うのは一方的なものではない。間に障害物がない限り、こちらから見えるのならば向こうからも見える。「見る」のは一方的な行為だが、「見える」のは相互のものだ。

 こちらから、見えてしまった――つまり。

 棠鵺は静かに二把の扇を構える。玄冬扇と朱夏扇だ。そしてレイと琅果を庇うように一歩前へ出た。
「すみません。僕が余計なことをしたばかりに、厄介なことになるかも知れません」
 一度言葉を切り、音を立てて扇を開く。
「琅果、あと少しだけ、精霊界に行くのが遅れそう…。ごめんね」
 棠鵺はそう言いながら振り返る。眉を八の字にしながら唇を軽く上げていた。そしてすぐに正面を向いた。
 棠鵺の突然の行動に、二人は戸惑いながら目を見合わせた。そして互いに頷く。

「……――っ」
 全身の神経を研ぎ澄ます。今、頼るべきは何処の器官か。使うべきはどれだ。
 海の光は既に消え、視界は暗い――棠鵺は目を閉じる。どの道大した役には立たないのだ。ならば少しでも闇に慣らすが得策だろう。
 においは四方八方、海独特の潮の香りだ――そして、アレも同じく海のものだ。これも頼りにすべきではない。呼吸を落ち着かせ、集中力を高める。嗅覚への意識は最低限度に留めるようにする。

 コポ……

 波の音、風と、それに奏でられる木々の音、そして鈴の音。互いに美しく融合するそれに極めて異質なものが紛れ込んだ。鼓膜の震動を認識し、全身の毛が逆立つ。

 パシャン……!

 風とは別の空気の移動に、ざわりと全身が反応する。空気の動きが肌を刺激する。次第に強くなるそれは読み通りに動いていた。音の根源から、真っ直ぐに、自分の元へ――
「……っ!」
 眼を見開き、棠鵺は豪快に扇を振るう。冷気が踊り、粉雪が舞った。その冷たさに怯むようにそれは後ろへと下がった。
 一瞬の出来事だった。朱夏扇を持った右手は顔前で庇うように構えていたが、ソレの爪が触れ、僅かばかり傷が入る。ソレは目前まで迫っていた。
「棠鵺くん、大丈夫!?」
 琅果の心配そうな声が聞こえてくる。
「うん、大丈夫」
 極めて明朗な声音で答える。意識はソレに向けたままに。大丈夫、とは言ったものの、心臓は今にも張り裂けそうだった。
 あと一秒、いや半秒遅ければ恐らく――。
 ざざっと音を立てて影は地面を滑る。
 目は完全に闇に慣れ、視界は先程よりも幾分良好だ。棠鵺は視界を遮っていた朱夏扇を下げ、ソレを睨みつける。
「え……?」
 言葉を失った――ソレは完全にヒトの形をしている。ヒトのような、ではない。ヒトの形そのものだ。
 だが、やはり異常に細い。その痩躯は猫背のように折れ曲がっている。髪は無造作に散り、まるで柳のようだ。
 赤い目が、こちらを見ている。獲物を追う獣のそれとは違う。それが宿すのは本能に基づく執着ではない。
「ヒヒッ……」
 弓のように曲がる口から漏れる音は声とは形容し難い。そう、弓が奏でるのは弦楽器、それも壊れた弦楽器の如き不快な音だ。だが、強いて声と言うなれば、感情による笑いとは違う、笑い声。
「何、あれ……?」
 琅果の声は震えている。ソレが琅果の姿を捉える。ぎょろりと動く炯眼が宿すもの――それは、紛れも無い狂気だ。
「分からない。けど……」
 ソレが動く。ソレは一目散に琅果の方へと襲い掛かった。
「琅果! 危ない!」
 棠鵺は琅果の手を引く。足を力一杯踏み出し、自分の場所と入れ代わるように、強く、強く引いた。
「棠鵺くん!」
 長く鋭い爪が眼前に迫る。目を閉じてはいけない。閉じたら、終わりだ。
 何とか応戦しようとしたその時、ソレがあらぬ方向に吹き飛んだ。
「っ……何でこんなもんがいるんだよ……!」
 片足を上げた姿勢のまま、レイは舌打ちをする。どうやらレイが蹴り飛ばしたらしい。そして深いため息と共にその足は下ろされた。
「トーヤ、ロウカの傍にいてくれ」
 レイは棠鵺の前を通り過ぎ、真っ直ぐにソレへと向かった。
「レイさん! 僕は、自分の責任は自分で取ります!」
 棠鵺はレイの後を追おうと前に乗り出す。だが、レイはそれを許さない。どこからともなく大鎌を取り出し、それを片手で薙ぐ。はらりと舞う木の葉が切れた。棠鵺はびくりと踏み出しかけた足を止める。
「いいから…」
 レイは大鎌を地面に突き立てる。怒気を含んだその低い声に、棠鵺は完全に怖気づいた。

(でも、ここで何もしないなんて……!)
 元はと言えば自分が蒔いた種だ。ただ傍観するなど、できようはずもない。
 何かできないか、そうは思うも己が如何に無力かと言うことは自分が一番よく分かっている。かえって足手まといとなるのも重々承知だ。
(それでも……)
 棠鵺はきゅっと唇を結ぶ。
 自分の責任すら取ることができない――それ程までに無力であることが悔しかった。
 棠鵺はレイに言われた通りに琅果の傍近くに駆け寄る。そして、ぺたりと座り込み、茫然としながら微かに震えている琅果の両の肩に手を置く。
 琅果はハッとして棠鵺を見た。
「琅果、ごめんね。怪我はない?」
琅果の目に生気が戻る。琅果は何かを言おうと口をパクパクと動かすが言葉にならない。それは次第に涙という形で現れた。
 ぎゅっと棠鵺の衿元を握りしめる。嗚咽を漏らしながら、棠鵺の胸に顔を埋めた。
「よかっ、たぁ……! あたしのせい、で……とうやくんが……って、思って……! 無事で、よかったぁ……!」
「琅果のせいじゃ、ないのに……」
 全て自分が悪いのに――棠鵺はそれ以上のことを口にできず、そっと琅果の髪を撫でた。
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