【完結】龍神の生贄

高瀬船

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六十二話

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《──? 何を笑って……》

 朱音は気付いていないのだろう。
 目の前の尋にだけ集中している朱音は、名無しと蔑んでいた緋色がまさか自分の結界を自力で破り、に戻って来ている事に。
 そもそも朱音は自分の体に深く突き刺さる尋の刀にも既に苦痛を感じていない様子だ。
 そんな状態の朱音が尋の背後から徐々に靄が晴れて来ている事に気付くはずがない。
 目の前にいる尋に意識を集中している朱音は、今にも自分を滅してしまいそうな雰囲気だった尋がゆるり、と表情を緩め暖かな微笑みを浮かべた事に戸惑いを隠せない。

「──緋色」

 尋が緋色の名前を口にする。
 暖かく、信頼しきった尋の声音に導かれるようにして自然と朱音は尋の背後を見るように視線を動かした。

「尋さま……っ!」

 無事で良かった、とばかりに弾けんばかりの笑顔を浮かべ、当たり前のように尋の隣に立つ緋色に朱音は戸惑い、狼狽える。


 あの日。
 緋色を呼び出し、籘原の家の事を教えてやったあの時。
 緋色なぞ、ただの生贄だ、と。籘原に使い捨てにされる存在なのだ、と教えてやった時は絶望していたのに。
 籘原の事を信じられなくなり、家でも結局緋色は里で暮らしていた時のように大事にされず、一人孤独に苛まれ、籘原の家の中で孤立してしまえばいいと思っていたのに。
 そうはいかなくとも、緋色と尋、二人の仲が壊れてしまえば良かったのに、と思っていた。思っていた、のに。


「緋色。これは緋色が……? 凄いな……この黒い靄は最早妖魔の妖力よりも強大な力を感じるのに……こんな事まで緋色は出来るのか」
「あ、ありがとうございます、その……芙蓉さんも、尋さまも助けなきゃ、と思って無我夢中で……」

 照れ臭そうに笑う緋色と、その緋色を優しい眼差しで見詰める尋に、朱音は状況が飲み込めない。

 何故、二人が笑い合っているのだろうか。
 関係に亀裂が入っていてもおかしくないのに。
 騙された、と怒り恨んでもいいはずなのに。
 それなのに、何で──。

 朱音の頭の中は「何で」ばかりが浮かぶ。
 そうして朱音が呆然としている内に、緋色は朱音に視線を向けて来て、朱音はひゅっと息を飲んだ。

 何故だか、この体になったからこそ分かる。
 目の前にいる緋色は、とても危険な存在だ、と言う事に。
 このままでは滅されてしまう、だから早くこの場から逃げてしまわないと、と焦りを見せる朱音だが自分の体をまるでこの場に縛り付けるようにして尋の刀が深く畳に突き刺さっており、朱音は何とか脱しようと苦しげに藻掻く。

「緋色。この女から溢れる広範囲の靄も、全て消滅させる事が出来るか?」
「全部……」
「ああ。出来たら……お願いしたい。出来ればこの女は元に戻し、堕ちた理由と堕ちるに至った行動を調査し、人間が妖魔に堕ちる現象を調査したい……元籘院に専門の部署がある。そこに預けたいんだ」
「や、やってみます……!」
「ああ。あの女が逃げないよう、俺がこの場に縛り付ける」
《──嫌だっ、やめろ……っ、ふざけるな……っ! 私はこのままっ、このまま名無し、お前をっ》

 自分の力が緋色の力によって消される。
 それを理解した朱音がバタバタと力を振り絞り暴れ出す。
 だが、滅する必要はなく、朱音をその場に縛り付けるだけであれば龍神の力を使う尋には造作もない。

 畏れを抱く程の霊力を尋から感じ始め、尋の瞳が青く輝き刀の柄を握る手の甲に薄らと鱗が現れ始める。

 尋が隣に居てくれる安心感に背中を押されるようにして、緋色は先程と同じように心の中で強く強く言葉を紡ぐ。

(消えてしまえ……っ、朱音様が纏うこの黒い靄なんて、全部消えてしまえっ)

 心の中で強く願い、緋色は自分の腕を靄を払うようにして動かして行く。

 一度目、緋色の腕が前方にある靄に向かって振るわれ、緋色の腕が靄の前を通過した途端に黒い靄は跡形も無く消え去った。
 二度目、再び緋色の腕が今度は尋の斜め向かいに向かって振るわれ、その場所付近にあった黒い靄が消えた。
 三度目、今度は緋色の少し前方にある黒い靄に向かって緋色が腕を伸ばした途端、ぱんっ、と小さく空気が弾けるような音がして、その周囲にあった黒い靄が消え去った。

《──あっ、あっ、》

 朱音は目の前で起こる光景に、信じられないと言った様子で驚愕に満ちた声を上げる。
 自分の体に満ちていた込み上げるような力が徐々に薄れて行き、消えて行く。
 朱音の体に満たされていた力が、緋色が腕を振るう度に消失していく。

《ふざっ、けるな……っ、何でっ何でお前がっ、名無しばかりが……っ》

 か細く泣き出してしまいそうな朱音の声がしん、と静まり返った広間にぽつりと落ちる。

 朱音の周囲に肥大するように満ちていた黒い靄が緋色によってどんどん消し去られて行き、今ではもう朱音の体を薄く覆う程度の靄しか残っていない。
 辛うじて残っていた黒い靄。朱音を守るようにして残っていた靄までも、緋色の霊力が触れ、触れた途端に消失する。まるで、黒い穢れを浄化するような不思議な緋色の霊力に妖力に満ちていた朱音は畏れさえ抱く。

 黒い靄が完全に消え去り、そこに残されたのは醜く変貌してしまった元は人間の体だった朱音だけで。
 肌は浅黒く変色してしまっており、黒く艶やかだった朱音の髪の毛は艶を無くし、まるで老婆の髪の毛のように真っ白になってしまっている。
 珠のような白くなめらかな肌は亀裂のようなひび割れが入ってしまっており、かくりよの里で里中の女性から羨望の眼差しを一身に受けていた朱音は見るも無残な姿に変貌してしまっていた。


「──緋色、すまない体調は大丈夫か……?」

 ずぶり、と朱音の体から刀の切っ先を抜いた尋は警戒するように朱音から視線を外さないまま、緋色に問い掛ける。

「大丈夫、です尋さま」
「顔色が悪い。やっぱり無理をさせてしまったな……だが緋色のお陰でこの女を生きたまま捕らえる事が出来る、──ありがとう」

 血の気が引いた真っ白な顔で大丈夫だ、と言う緋色をちらりと横目で確認した尋はきゅっ、と眉を顰め申し訳なさそうに言葉を返し、力無く立ち竦む緋色の肩に手を回し、自分の体に引き寄せる。
 とん、と自分の体に掛かる緋色の重みを感じた尋は緋色の肩を抱く自分の手のひらに力を込め、芙蓉と菖蒲を呼んだ。



 畳に力無く倒れたままの朱音は、緋色や尋の耳には届かないくらい小さな声で狂ったように同じ単語を呟き続けていたが、緋色も尋もそれには気付かなかった。
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