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六十話
しおりを挟むそうだ。そうだった。
あの早朝、井戸で会った時の事を思い出す。
あの時の尋は今まで見慣れていた尋の姿とは違い、疲れ果てていた。
それまでの数日間、尋は消耗が激しく龍体になってしまっていた、と言っていた。
龍神の力が強く、自力で龍神の力と霊力の調整が取れずに居た数日間。
だから尋は緋色と会う事が出来なかった、と。
(あれから、日にちが経っていない……! いつも通りの尋さまに見えていたけど、無理をしていたのかもしれない……!)
現に今、緋色の視線の先で戦う尋は何か見えない力のような物がゆらゆらと揺らめいているように視える。
尋の体から自由を得て、外に出て行きたがっているように視えるのだ。
そして、時折感じる大きな大きな気配。
気持ちを強く保っていないと、今すぐ膝をついてしまいそうな程の、そうしなければいけない、と言うような不思議な感覚に陥る。
──今、膝をついてしまっては駄目だ。
緋色は何故かそんな事を考えていて。
「尋さま!」
「──っ!?」
尋と朱音が一旦距離を取った所で、緋色は尋の側に駆け付けた。
「緋色!? 何故こっちに来た! 芙蓉の下に戻れ……!」
《名無し──!》
尋の鋭い声と、朱音の悍ましい声が響く。
まさか緋色がこちらに来るとは思わなかったのだろう。
ぎょっと目を見開いた尋は、一瞬だけ反応が遅れてしまう。その瞬間を朱音が見逃すはずがなく。尋から少しだけ離れた場所に居た朱音が緋色を見た瞬間、緋色だけに狙いを定め攻撃を繰り出した。
足元にいた菖蒲が急いで朱音の攻撃を防ごうと動いたが、間に合わず朱音の風の刃が緋色に迫る。
尋の横を一瞬で通り過ぎた風の刃は、瞬く間に緋色に迫り、物凄い速度で通り過ぎた風の刃に頬を斬った尋が薄らと血を滲ませながら緋色の名前を叫んだ。
「緋色──!」
まるで悲鳴を上げるように悲痛な面持ちで尋が緋色の名前を叫ぶ。
尋の下に駆け付けた緋色は、焦る周囲とは反対に何故かとても冷静で。
少し前に居る尋が焦ったように緋色に向かって腕を伸ばすのも、尋がぶわり、と感情を揺らがせて霊力が溢れる様も何故か見えた。
菖蒲が必死に緋色と朱音の間に自分の体を割り込ませようとしている様もはっきり見える。
窮地に陥った時は、全ての出来事がゆっくり、景色が遅く流れる、と聞いた事がある緋色は「これ」がそうなのか、と何処か妙に冴えている頭の片隅で納得した。
途端、先程までゆっくり流れていた周囲の景色が突然現実に戻ったかのように一気に流れ出す。
(防ぐっ、防ぐ──!)
そうなる寸前に、緋色は芙蓉に強く念じた先程と同じように心の中で叫ぶ。
すると、目前まで迫っていた朱音の風の刃が緋色の目の前で見えない壁にぶつかり、破裂したかのような音が響いた。
──ばちん!
と耳障りな破裂音がして、緋色の髪の毛や頬を強い風が撫ぜる。
《──えっ》
まさか緋色に自分の攻撃が防がれるとは思わなかったのだろう。
驚きに満ちた声を上げ、狼狽えた。
朱音のその隙を、今度は尋と菖蒲が見逃すはずがなく、素早く朱音に迫り、尋は自分の刀に力を込めて体当たりするように突き立てた。
菖蒲は、尋が龍神の力を使っている事を理解し、毒液を朱音に向かって噴出する。
ただの人間の体であれば毒液に巻き込まれた尋もただでは済まないだろうが、今であれば致命傷を受ける程では無いだろう。
尋は自重を乗せてそのまま刀を深く食い込ませ、畳に叩き付けるようにして朱音諸共倒れ込んだ。
朱音の悲鳴のような悍ましい声が響き、倒れ込んだ畳からぶわり、と黒い靄が込み上がる。
黒い靄に尋の体はすっぽりと埋まってしまっていて、緋色は一目散に尋に駆け寄った。
「尋さま!」
「──近付くな、緋色……! 靄に触れれば侵蝕される……! ただの人間の身には猛毒だ!」
靄の中から鋭く叫ぶ尋の声が聞こえるが、靄に包まれている尋もただでは済まない事が簡単に想像出来る。
「──嫌です! このままじゃあ、尋さまもお体に影響が残ります……!」
尋の言葉を跳ね除け、緋色は止めようとする菖蒲を振り切り、黒い靄に自らも飛び込んだ。
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