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「起きろ!」
「⋯⋯っ」

どかり、と自分の体に走った衝撃で目を覚ます。
大きく咳き込みながら、男はゆっくりと瞼を開けた。
開けた先には昨日の父親ではなく、見慣れない顔の男がいた。粗末ながらも武装していると言う事は父親の治める領地の私兵かもしれない。
子供の頃何度も「訓練」と称して暴力を振るわれた記憶がある。
ゲホゲホと咳き込んでいると「着替えろ」と声を掛けられ、薄汚れたぼろ布を投げ寄越された。
いつの間にか自分は眠りに落ちていたようで、起こされたと言う事はもう朝になっているのだろう。光のささない地下牢では朝なのか夜なのか時間の感覚が狂ってしまっていて分からない。
男はのろのろと起き上がると、投げ寄越されたぼろ布と思っていた物を広げる。自分が身に纏っている布よりは多少綺麗で、臭いもしないし破れてもいない。

「体を拭いてから着ろ。着替え終わったらお前を外に出す。抵抗なんて馬鹿な真似するなよ」

贄となる前にはある程度体裁を繕う必要があるって事か、と男は考えると大人しく自分の体を用意された水に布を浸し拭っていく。薄汚れた体、顔を拭うと心持ちさっぱりとした気分になる。
伸びきった髪の毛も軽く水で流し、布で水分を吸い取り軽く整える。ちらり、と桶の横に視線を移すと、黒パンが木製のトレーにぽつりと乗せられている。一口程の大きさのそれを口の中に放り込むと渡された布に腕を通した。
ちらちらと急かすようなその視線に男は「終わった」と言葉を放つと私兵が牢の鍵を開け外に出るように促してくる。牢屋から出ると穴の開いた靴を渡され、足を通している間に逃亡阻止の為だろうか細い手枷を嵌められる。

「ほら、進め」

どん、と背中を力強く押されて男はたたらを踏むように一歩、二歩と前につんのめる。細く息を吐き出すと促された言葉に従い歩いて行く。
地下牢に続く階段を、今度は地上に出るために踏みしめ進んで行く。「外に出れたら」と何度願った事だろうか。無事外に出れた時の事を想像して現実に何度絶望した事だろうか。

「──っ!」

眩しい光にさらされ、目を細める。
太陽の光はなんて力強いのだろうか。

ぽかん、としている内に私兵の男に無理矢理引っ張られ、粗末な荷馬車に押し込まれる。どうやらこのまま「生贄の洞穴」へ連れて行かれるようだ。
がたがたと馬車の揺れに揺れながら、男はぼうっと外を眺めた。
太陽の光に照らされ草木がきらきらと黄金の煌めきを放っている。少し遠くにある湖は水面を風に揺らしている。空を飛ぶ鳥達は悠々と羽を伸ばし気持ち良さそうに風に身を任せ飛んでいる。

「あぁ⋯⋯最後にこんな綺麗な世界を知れて良かった」

男は嬉しそうにぽつりと呟くと諦めたように瞳を閉じた。



「ターモ様!連れて参りました!」
「うむ、道中ご苦労だったな、抵抗しなかったか?」
「ええ。この男驚く程静かで不気味でしたよ」

荷馬車が止まり、私兵の男がターモと言う男と話している。
ちらり、と確認するとターモと呼ばれているのはどうやら自分の父親らしい。昨日と同じく無駄に華美な衣装で男が到着するのを待っていたらしい。
周りをそっと伺えば、ターモの他にも何人か華美な衣装の人間が数人ターモの後ろにいる。ターモとよく似た顔立ちの男もいる事から「家族」なのだろうと言う事がわかる。
ターモの横にいた女性が顔の下半分を扇で隠しながら嫌そうな表情を隠しもせず甲高い声で叫ぶ。

「あぁ!嫌だ嫌だ!このような不潔な人間目に入れたくもございませんわ!あの女の息子というだけで憎たらしいのに早く洞穴に入れて下さいませ!」
「まあまあ、言ってやるな。あれでも昨日の恰好よりはマシなのだ。それにしても⋯⋯アレの母親は傾国の美姫とまで謳われておった美女なのに何一つ受け継いでおらん。精霊の血を引いておるといったのに呆気なく死んでしもうたし、あの話は嘘だったのだろうよ」

頭が割れそうに痛む。キンキンと高い声で叫ぶ女の声も、「父親」の話す言葉もうまく聞き取れない。

「父上、そろそろこの男を」
「ああ、そうだな。⋯⋯おい」

ターモが男の後ろにいる私兵に向かって顎をしゃくる。
その合図に私兵の男は頷くと、手枷から伸びた細い鎖を力任せに引っ張ると洞穴の方に進んで行く。

「ここは、古代龍の住む洞穴だ。我が領地では200年に一度龍へ供物を捧げている。そうしないと古代龍が怒り暴れるという言い伝えがあるからだ。お前が入った後、この洞穴の入り口は2年間塞がれる為、一度お前が入ったら二度と外に出られる機会はないと思え」

父親にそう言われると、私兵に促され洞穴の中へと男は足を進めた。

「自害する事も許さん、お前は龍への供物だ。必ず最深部の龍の塒へと到達してそこで贄となれ」

手枷を外されそのまま背中を力強く押される。

「⋯⋯っ!」

男が振り向いた時には既に洞穴の入り口に堅牢な柵がはめ込まれ、体力も気力もない男にはそのはめ込まれた柵をどうにかする事など出来そうにない。

このまま自分はここで朽ち果てるのか。
男はただ茫然と自分の目の前を塞ぐ堅牢な柵を見つめる事しか出来ない。
自分をこの洞穴へ押し入れた私兵の男と、自分の父親とその家族達が最後に蔑んだ瞳で一瞥するとそのまま何も言葉を発さずこの場から遠ざかっていく。

その後ろ姿をただただ何の感情も抱かない虚ろな瞳で男は見つめ続けた。
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