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──何故、自分が。
という考えはとうの昔に消え去った。

以前は痛みに叫ぶ事も理不尽な扱いに異を唱える事も、怒りや憤りをぶつける事も出来た。
だが、その先に待っていたのは想像を絶するような惨い仕打ちで数年も持たずに男の心は折れた。

その場所で男は明日、18になる。

昔から「父親」に言われていた。
18になったら自分はこの領地の為命を奪われるのだと。

元より物心がついた頃から人らしい生き方をしてこれなかった人生だ。
今更この世界に未練もない。
明日、この世を去ったら次は幸せな人生を送りたい、と「人並」な事を考えている自分がおかしく思えてくる。

「人並⋯⋯、人並の人生、なんてろくに意味もわかっていないくせに、な⋯⋯」

自分の唇から渇いた笑いが零れ出る。
しゃがれた老人のような酷い声音に自嘲するように口端を歪める。数日間まともに水も食べ物も口に入れていなかった。渇きに渇いた喉はひゅーひゅーと細い息を吐き出し、声を出すとうっすらと血の味がする。
ここ数日は「贄」となる自分が死んではまずいからと、常日頃行われていた暴力も軽減された。それでも常習化した暴力は体力を奪い、栄養面も良くない男の体は回復する事が出来ず、長期間体の痛みに呻く日々が続いていた。

幼い頃から罵詈雑言を浴びせられ、生まれて来た事が間違いだとも罵られた。
母親は自分を産み落とした後、すぐに死んだらしく母親の記憶はなく自分の親という存在は「父親」という物しか記憶にない。
幼い頃は今に比べればましだった。
酷く冷たく当たられたり、たまに殴られたり、食事を抜かれたり、といった今に比べればまだ生ぬるい仕打ちだった。
それが、年々成長するにつれ。
目付きが気に入らない、顔が気に入らない、と理不尽な理由を並び立てて、暴行がエスカレートしていった。
そして5年前のある日、突然地下牢へ引きずられてきたと思ったらこの劣悪な地下牢に閉じ込められ、それ以来この地下牢で過ごしている。
最初から自分はこうなる運命だったのだと知らされた。生まれた時には18年後に生贄の洞穴に「贄」を捧げる事が決まっていたらしい。その対象となったのが自分だ。

「畜生⋯⋯なんで俺を作った⋯⋯こんな人生なら生まれてこなきゃよかったんだ⋯⋯!」

なんで、どうして、と考えても仕様がない事ばかりが頭の中でぐるぐると回り続ける。未練がないなんて嘘だ。
本当はもっと生きたかったし、太陽の下で生活をしたかった。人から自分の名前を呼ばれるのはどんな気持ちだろうか。笑顔で人生を送れるというのはどんな気持ちだろうか?
そんな些細な希望さえも男は打ち砕かれてきた。

「おい!」

不意に自分が横たわる地下牢に野太い男の声が響き渡る。
「父親」の声だ。
僅かに頭を動かし、声の聞こえた方向へ視線を向けると、顎鬚をたっぷりと蓄え、キラキラと刺繍が美しいコートを羽織る恰幅のいい男が汚い物を見るような視線で男を見下ろしていた。

「明日、お前は“生贄の洞穴”へと身を投じるんだ。誰の役にも立たなかった人生が私たちの為に命を捧げられる。光栄に思うんだな」

父親はそう吐き捨てるように言葉を紡ぐとこの場所に一秒でもいたくない、とでも言うように顔をしかめると早々に地下牢から出て行く。
遠ざかる足音に男は「ははは」、と渇いた笑いが唇から零れ出る。あんな人間たちの為に自分はこの命を散らすのか。
この18年間、自分は死ぬ為に生きて来たのか。あんな人間たちの為に生き永らえて馬鹿馬鹿しい理由で呆気なく殺される。
今の自分には逆らう程の気力も体力も無い。
きっと、明日には父親の言った通り生贄の洞穴に連れて行かれてそこで命を落とすだろう。
地下牢には月の光も何も差し込まない。ぴちょん、ぴちょんと雨水が地面を打ち鳴らす音をただただ聞きながら男は目を閉じた。
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