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しおりを挟む──何故、こんなに大事な事を忘れていたのだろうか。
理仁は、年配の女性──占い師に声を掛けられた事を今の今まですっかりと忘れてしまっていた事に愕然とする。
(ならば、この箱根旅行、は……? 藤川さんと付き合った事も……何処から何処までが本当なんだ?)
「大隈さん? どうしました?」
到着したエレベーターにいつまで経っても乗り込まない理仁に、琴葉が不思議そうな表情を浮かべている。
理仁は心配させないように琴葉に笑い掛けたかったが、自分の表情が引き攣っているのが見なくても分かる。
これは、この状況は自分自身が望んだ世界なのだろうか。
だって、怪我をした事も覚えていなかった。
救急搬送されている筈なのに、その記憶が全く無い。
あれだけ、自分の耳元で救急隊員の人間の声が聞こえていたと言うのに。
理仁は、まるで夢を見ている時にそれが夢だと気付いたような不思議な感覚に陥る。
不思議で、何処か少し不気味なこの状況はなんなのだろうか。
理仁は急いで先程すれ違った筈の占い師を振り返るが、理仁の視線の先にその占い師の姿は無く、不思議そうな表情で理仁を心配しているような琴葉が側に居るだけだ。
「──大隈さん、? 本当にどうしたんですか? 顔色が凄く悪いです……っ!」
「いや、……何で……俺、何してんだ……」
この状況が分からない。
何故、自分自身が階段から落ちたと言う事を忘れていて、変わらぬ日常を送っていたのか。
それとも、日常だと思っていたこの日々が全てまやかしで、既に自分が命を落としていたら──?
だからこそ、このような変な夢を見ているのだろうか。
「そもそも、現実って、なんだ……」
ぽつり、と呟いた理仁の言葉に反応した琴葉が、何処かほったしたような表情を浮かべて「良かった」と小さく呟いた。
「──え、? 藤川さ……」
琴葉の呟きに理仁がぱっ、と顔を上げると目の前に居る琴葉は瞳に目一杯の涙を溜めて安心したように、嬉しそうに理仁に向かって唇を開いた。
「良かった、大隈さん……。思い出したんですね」
琴葉の言葉を聞いた瞬間、理仁の意識はそこでぷつり、と途切れた。
◇◆◇
ガラガラ、と扉を開けて室内に視線を向けて扉を閉める。
清潔感のある広い室内にぽつん、と置かれたベッドに横たわる人物の胸元が呼吸によって僅かに上下しているのを確認して、室内に入ってきた女性──藤川琴葉はほっと安心したように溜息を零した。
この病室に通い出して一週間。
一週間、毎日通い、琴葉はベッドに横たわる人物──大隈理仁の呼吸を確認する事が癖になってしまった。
琴葉はきょろり、と室内を見回して室内に誰も居ない事に首を傾げる。
理仁の眠るベッドの横には丸椅子が置かれていて、その側にある棚には女性物のバッグが置かれている事から、そのバッグの持ち主は少しだけ席を外しているのだろう、と分かると琴葉は理仁に近付いて行き、そっと顔色を伺う。
「──良かった、顔色も……良さそう……」
血色も良く、こうして見るとただ眠っているだかに見えるが、理仁はあの日以降目を覚ましていない。
階段から落ちる時、咄嗟に琴葉を庇ってくれたのだろう。
理仁は琴葉が落下しないように琴葉を階段から遠ざけるように突き飛ばした後、その反動でバランスを崩して階下へと落下してしまった。
頭や体のあちらこちらを打ってしまったからだろう、頭からの出血の骨盤の骨折、腰椎の椎体骨折と手首の骨折を起こしていた。
幸い、頭部は出血していたものの検査上何も異常は無く、骨盤の骨折で手術は行われたが順調に回復しているらしい。
腰椎の骨折も手術が必要な程の怪我では無かった為命に別状は無い。
手首の骨折についても、ギプスでしっかりとガチガチに固定されている為、時間が経過すれば治るだろう。
だが、何故か意識だけが戻らない。
脳に異常は見られなかったからその内意識を取り戻すだろう、と駆け付けた理仁の母親から教えて貰ったが、琴葉はいつまで経っても目を覚まさない理仁に、ただ眠っている理仁の顔を見る度に泣きたい気持ちになって来る。
琴葉は理仁の側に丸椅子をもって来ると、そっと腰掛けて鞄から旅行雑誌を取り出して、それを開く。
「──昨日は、何処まで見ましたっけ……。大隈さん、大隈さんが社員旅行で泊まった場所って何処なんですかね? 私も箱根旅行に行く時には色々大隈さんに相談したいんですよ。……だから……」
早く目を覚まして、と言う一言がどうしても琴葉は口に出来ず、ぐっと唇を噛み締める。
警察の事情聴取から解放され、病院に来れるようになってから一週間。
理仁に実際怪我を負わせてしまった樹はその場で現行犯逮捕されて拘留されてしまったが、計画性が無いのと、樹本人も理仁を突き飛ばした事を認め、悔いている事、理仁の家族が事故なのだから、と言ってくれた事もあり樹は逮捕をされてはいるものの、釈放されている。
傷害事件として扱われるが、重い罪を償うと言う結果にはならないだろう、と言う事らしかった。
自分達の事情に理仁を巻き込んでしまい、大怪我を負わせてしまった事を琴葉は申し訳なく思い、駆け付けた理仁の母親に謝罪し、事情を説明した。
お見舞いに行きたい、などと言う琴葉の言葉に頷いてくれないだろう、と覚悟していたが理仁の母親は「是非来てやって欲しい」と琴葉に優しく言ってくれて、訪問を許可してもらってから、琴葉は一日も欠かすことなく毎日理仁の元へ見舞いに訪れていた。
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