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ロレッタの望み
第四話 守ってくれた無表情な男
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クルツに案内されてロレッタとハンナは王城へと入って行く。灰色の城壁は春だと言うのにうすら寒い印象を与え、ロレッタはもっと白ければいいのに、などと思ってしまう。
「すれ違う人には会釈をしてください」
これから建物の中に入ろうと言う時にクルツが小声で話しかけてくる。ロレッタは今の自分が使用人の身分であることを思い出し、なるほどと思った。と同時に細かいところまで気が付くな、とクルツの心配りを感心する。
「お嬢様、気を付けてくださいね」
「分ってるわよ。それにロゼッタって呼んでって言ったじゃない」
「あ、そうでした!」
ハンナが心配して耳打ちしてくるが、彼女もちょっと抜けているところがあって、先程の約束を忘れてしまっていた。いつもロレッタのことを「お嬢様」と呼んでいるからその癖が出ているのかもしれない。
そんな二人をクルツがじっと見つめていた。
王城の石の廊下を三人は足早に歩いていく。といっても足早なのはロレッタとハンナであり、二人よりも背が高いクルツは普通に歩いているのだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
息を切らしながらロレッタは苦情をぶつける。
「急いだ方が良かったと思いましたので」
クルツはそう言い、歩く速度を緩め、ロレッタとハンナに合わせた。相変わらずの無表情できつめの顔だが、話は聞いてくれる。ロレッタもその点はありがたいと思った。
細かい気遣いもでき、門の前でトラブルを起こしかけていた時もパッと嘘をついてその場を切り抜ける程度には頭の回転も良い。さぞかし有名な貴族なのだろう、とも思った。だがロレッタの知っている名前にはいない。
クルツとは。彼の背中を眺めながら、考えていた。
「いたっ」
考え事をしていたロレッタは歩みを止めたクルツの背中に鼻からぶつかってしまったのだ。
「おじょ、ロゼッタ、大丈夫ですか?」
「ら、らいじょうぶ」
鼻を押えながらロレッタはそう答えたが、目にはちょっと涙が浮いていた。クルツの背中が意外に固く、結構痛かったのだ。
「すみません」
いつの間にかハンカチを取り出していたクルツがロレッタの目に溜まっている涙をスッと拭き取り、何事もなかったかの様に官僚服の内ポケットにハンカチをしまう。一連の動作があまりにも自然だったので、ロレッタは反応も拒否もできなかった。
「今の事は閣下には黙っていてください」
ハッと我に返った時に、ほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を下げたクルツにそう言われた。
涙を拭くような紳士的な行為を黙っている?
ロレッタにはクルツの意図が見えなかった。
クルツが目の前の扉をノックし名乗る。中からは直ぐに返事があり、クルツが静かに扉を開け、ロレッタとハンナを中に入るよう促してきた。言われるがままにロレッタとハンナは部屋に入る。その中では父であるネイサンが二人の姿を見て目を丸くしていた。流石に自分の娘はすぐに分かるのだ。
「な、何故お前がここにいるのだ」
予想外の事態にかなり狼狽えたネイサンが持っていたペンを落とし、やや大きめな声を上げる。クルツが素早く扉をしめたものの、あまり大きな声を出すと廊下にまで聞こえてしまう。クルツが人差し指を口に当て、訴えていた。ネイサンもそれに気が付き、声のトーンを下げた。
「屋敷にいるのではなかったのか」
「あたしはロゼッタと申します、今日から王城で働くことになりました。よろしくお願いいたします」
ロレッタはネイサンに対して堂々と嘘をついた。隣にいるハンナはネイサンから視線を逃がし、汗だくになっている。この状況では発言などできそうもないからだ。
ネイサンがクルツに視線を向けるが、こちらも沈黙していた。公爵親子の会話に割って入るなどできないからだ。
「何故ここに連れてきた?」
ネイサンがギロリとクルツ睨む。だがクルツの表情は変わらない。
「城門前で兵士と揉めていましたので、適当な理由をつけてその場から連れ出しました」
「それでここにか」
事実を聞き、ネイサンが唸る。
「はい。他には連れていけませんので」
クルツの答えにネイサンは頭を抱えた。ネイサンとしてはクルツが断り切れなかったと思ったのだ。しかし実際はそうではなく、どちらかというとクルツがロレッタとハンナを助け出したのが正解だった。
「とりあえず、閣下の雑仕事をするための下女という事にしております」
「……分かった。昨日から色々とすなまいな」
ネイサンは大きくため息をつく。ロレッタには手を焼いているのだが、ここまで行動派だったとは知らなかった。ロレッタからすれば屋敷にはいたくないからどこかに行きたかっただけなのだが、いかんせん行動が突飛過ぎた。
「それで、お仕事はどのような事なのでしょう?」
ロレッタはあくまで演技を通すつもりだ。横にいるハンナが真っ青な顔になっているのは気になるが、今更どうしようもないのだ。ここまで来たら突っ走るしかない。
「クルツ、今日の予定は?」
「はっ、エクセリオン帝国へ送る物資の最終確認です」
「……二人に必要な場所を教えておいてくれ。あと、食事をこの部屋に持ってくるように手配しておいてくれ」
「分かりました。ですが、私ですと立場的に問題がります」
相変わらずクルツの表情は動かない。ロレッタは二人のやり取りの間もクルツを観察している。彼はどこの誰なのか。有能な貴族であれば噂は直ぐに広まるはずだ。公爵令嬢という立場上、有力な貴族の名前は憶えているが、クルツという名前は聞いた事がなかった。さっきの涙を拭いた時の振る舞いを見ていると、きちんと教育されているのがよく分かった。ロレッタなどよりも余程しっかりと躾けられている。
「そうは言ってもこの事を広めたくはない」
ネイサンの顔は渋りきっている。無断で王城に入り込み、それが自分の娘などと知られれば公爵家といえども罰せられるのは間違いないからだ。
クルツが額に手を当て悩むネイサンを見て、口を開いた。
「分かりました、少し席を外します。すぐに戻ります」
クルツは礼をすると、静かに部屋から出て行った。
「ロレッタ様、これを」
部屋を出たクルツが持ってきたのは黒い縁の眼鏡だった。少しレンズが大きめで、若干野暮ったい。クルツがそれをロレッタに差し出してきた。
「あたし、目なんか悪くないわよ」
「いえ、変装用です。度は入ってません」
受け取らないロレッタに対してクルツは理由を述べる、
「ロゼッタさんを見てロレッタ様と見破る者がいないとも限りません。眼鏡をかけたくらいでも、印象が変われば人は気が付かないものです。ロレッタ様の美貌を隠す意味もあります。目立つのは良くないのです」
クルツが少し優しげな口調で、言い聞かせるように語ってくる。まるで幼子に教え込むように。
「なによ、あたしを子供扱いしないで。そもそもアナタは何歳なのよ!」
成人している意地から栗色の髪を振り乱しながらロレッタはクルツに食ってかかった。子供扱いが納得いかなかったのだ。だが端から見たロレッタの行動は、子供そのものだ。
「二十八になります」
「だ、だからってなによ! あたしだって成人してるんだから」
圧倒的年上に、ロレッタは怯んだ。だからといってクルツの表情は変わらない。クルツからみればロレッタは子供扱いだろうが、接する態度にそのような素振りはなかった。たまたま優しく説明したのがロレッタには子供扱いに映っただけだ。
「そのようなつもりはありません。誤解を与えてしまい、申し訳ありません」
「もう子供じゃないんだから、ちゃんと淑女として扱ってよね」
ロレッタはぷいっと顔を背ける。酔っ払いが酔ってなんかいないと言っているのと同じだった。
「ロレッタ。そこが子供だと言うのだ。大人だと言うのならそれらしい対応をしなさい」
ネイサンにビシッと諌められ、ロレッタは首を竦めた。ロレッタと言われた事にも気が付いていない。そして、しぶしぶと言った感じでクルツに向きをかえ、眼鏡を受け取った。
「し、仕方ないわね」
一言文句を言いつつ、ロレッタは眼鏡をかけた。眼鏡のフレームに視界の境界線ができ、ちょっと不思議な感じだった。
「こ、これでいいんでしょ」
ロレッタはクルツをキッと見る。クルツの表情は相変わらずだが、ロレッタを見てくるその目の目尻は、ほんの少しだけ下がっているよう見えた。
あれ、笑ってる?
「良くお似合いです」
ワンテンポ遅れて賛辞の言葉が来る。予想外のクルツの台詞に、ロレッタは自分の頬が少し熱くなるのを感じた。
「ふむ、意外に似合うな」
「本当ですね」
ネイサンとハンナからも同様の声が上がる。
「と、当然じゃない! 眼鏡くらいであたしの可愛さは閉じ込められないのよ」
ロレッタはちらっとクルツを見るが、彼の顔は既に無表情に戻っていた。
あたしの気のせいだったのかしら?
ロレッタは少しがっかりした。
「確かに、一見ではロレッタとは分らんな」
「ホントです。眼鏡だけでも印象は変わるんですね」
「あたしはロレッタではなくてロゼッタです」
腕を組んでロレッタを見ていたネイサンと感心していたハンナが窘められている。思わずネイサンは苦笑した。結局自分がロレッタであると認めているのだ。
眼鏡で変装したロレッタとハンナはクルツに引き連れられ、王城の石の廊下を歩いている。すれ違うたびに会釈をしていくが、みなロレッタとハンナを見てくる。見ない顔というのもあるが、可愛いからだ。
明らかに貴族の役人と見られる男性など遠慮なしにじろじろと品定めをしてくる。彼等の視線が胸や下半身へといくのが分るからだ。相手が下や使用人の時には貴族でも鼻の下を伸ばすのだ、と分ると嫌悪感も湧くが、男とはこうなんだと知れて、それはそれでいい経験だった。
「おい、ちょっと待て」
深緑の官僚服を着た、明らかに貴族と分る若い男性二人が声をかけてきた。顔は優しげだがニヤついた笑みを浮かべ偉そうでイラッとする態度だ。ロレッタとハンナは直視しない様に少し俯き加減でクルツの後ろに控ている。王城では使用人は貴族とは目を合わせないのが基本だ。
「何か御用ですか?」
クルツが背筋を伸ばして淡々と対応する。ロレッタにしゃべらせると何を言うか分らないからだ。
「お前じゃなくて後ろの女に用がある」
男性二人の内、背の高い方がロレッタを見てくる。ロレッタも俯きながらも上目遣いで様子を見ていた。ロレッタはその男の顔に見覚えがあった。ナントカ伯爵の息子だとかで、初めての夜会の時にも挨拶しに来てダンスも踊った。その後屋敷にも来てなにやら自慢していったのだ。
何でこんな所にいるのよ。
ロレッタはやばいと思ったが顔には出せず、背筋に冷たい汗を流すのみだ。
「おい女。俺の愛人になれよ。こんな所にいるよりも良い思いさせてやるぞ? 毎晩可愛がってやるって」
ニヤニヤしながらその男は言い放った。イヤらしい言い方に腹が立つが、ここで声を荒げてはバレてしまう。ロレッタは怒鳴りたい心を我慢して「ご勘弁を」と小さな声を上げた。
「そっちの赤い髪の奴でもいいぞ」
もう片方の男がハンナに言い寄った。二人の男がロレッタとハンナに近づこうとした時、クルツが前に立ち、阻んだ。
「王城でのそのような振る舞いは、折角の格式ある爵位に悪評が付いてしまいます」
「なんだと?」
ロレッタはクルツの背中に隠れてしまっていて前が見えないが、言い寄ってきた男達が文句を言っているのは聞こえる。そしてクルツの「やりますか?」という低い声も。
ハンナがロレッタの肩に手を回し、庇うように自身の半身を前に出す。ここでの最重要人物はロレッタなのだ。二人に庇われたロレッタは、それを理解した。
「……はっ! リッチモンド家がバックにいるから強気か?」
「良い気でいられるのも、今の内だな。後ろ盾が無ければここにいる資格もないくせに!」
しばしの睨みあいの末、捨て台詞を吐いて男二人は去っていった。ロレッタは去っていく二人の背中に向かい苛立ちの視線を送り付ける。彼らの行動は、とても紳士とは言えない物だったからだ。
「不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
クルツがロレッタに振り返り、小声で詫びを入れてきた。あくまでロレッタは下女なのだ。あからさまに謝っているところを見られるのは良くない。
その時のクルツの顔は、表情が乏しいままではあったが、その目はどこか悲しそうにも見えた。
クルツは二人を庇ってくれた。褒められることであり、悲しむことではないはずだ。それでも彼は悲しそうな、苦しそうな目をしている。ロレッタにはそれが不思議でならなかった。
「すれ違う人には会釈をしてください」
これから建物の中に入ろうと言う時にクルツが小声で話しかけてくる。ロレッタは今の自分が使用人の身分であることを思い出し、なるほどと思った。と同時に細かいところまで気が付くな、とクルツの心配りを感心する。
「お嬢様、気を付けてくださいね」
「分ってるわよ。それにロゼッタって呼んでって言ったじゃない」
「あ、そうでした!」
ハンナが心配して耳打ちしてくるが、彼女もちょっと抜けているところがあって、先程の約束を忘れてしまっていた。いつもロレッタのことを「お嬢様」と呼んでいるからその癖が出ているのかもしれない。
そんな二人をクルツがじっと見つめていた。
王城の石の廊下を三人は足早に歩いていく。といっても足早なのはロレッタとハンナであり、二人よりも背が高いクルツは普通に歩いているのだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
息を切らしながらロレッタは苦情をぶつける。
「急いだ方が良かったと思いましたので」
クルツはそう言い、歩く速度を緩め、ロレッタとハンナに合わせた。相変わらずの無表情できつめの顔だが、話は聞いてくれる。ロレッタもその点はありがたいと思った。
細かい気遣いもでき、門の前でトラブルを起こしかけていた時もパッと嘘をついてその場を切り抜ける程度には頭の回転も良い。さぞかし有名な貴族なのだろう、とも思った。だがロレッタの知っている名前にはいない。
クルツとは。彼の背中を眺めながら、考えていた。
「いたっ」
考え事をしていたロレッタは歩みを止めたクルツの背中に鼻からぶつかってしまったのだ。
「おじょ、ロゼッタ、大丈夫ですか?」
「ら、らいじょうぶ」
鼻を押えながらロレッタはそう答えたが、目にはちょっと涙が浮いていた。クルツの背中が意外に固く、結構痛かったのだ。
「すみません」
いつの間にかハンカチを取り出していたクルツがロレッタの目に溜まっている涙をスッと拭き取り、何事もなかったかの様に官僚服の内ポケットにハンカチをしまう。一連の動作があまりにも自然だったので、ロレッタは反応も拒否もできなかった。
「今の事は閣下には黙っていてください」
ハッと我に返った時に、ほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を下げたクルツにそう言われた。
涙を拭くような紳士的な行為を黙っている?
ロレッタにはクルツの意図が見えなかった。
クルツが目の前の扉をノックし名乗る。中からは直ぐに返事があり、クルツが静かに扉を開け、ロレッタとハンナを中に入るよう促してきた。言われるがままにロレッタとハンナは部屋に入る。その中では父であるネイサンが二人の姿を見て目を丸くしていた。流石に自分の娘はすぐに分かるのだ。
「な、何故お前がここにいるのだ」
予想外の事態にかなり狼狽えたネイサンが持っていたペンを落とし、やや大きめな声を上げる。クルツが素早く扉をしめたものの、あまり大きな声を出すと廊下にまで聞こえてしまう。クルツが人差し指を口に当て、訴えていた。ネイサンもそれに気が付き、声のトーンを下げた。
「屋敷にいるのではなかったのか」
「あたしはロゼッタと申します、今日から王城で働くことになりました。よろしくお願いいたします」
ロレッタはネイサンに対して堂々と嘘をついた。隣にいるハンナはネイサンから視線を逃がし、汗だくになっている。この状況では発言などできそうもないからだ。
ネイサンがクルツに視線を向けるが、こちらも沈黙していた。公爵親子の会話に割って入るなどできないからだ。
「何故ここに連れてきた?」
ネイサンがギロリとクルツ睨む。だがクルツの表情は変わらない。
「城門前で兵士と揉めていましたので、適当な理由をつけてその場から連れ出しました」
「それでここにか」
事実を聞き、ネイサンが唸る。
「はい。他には連れていけませんので」
クルツの答えにネイサンは頭を抱えた。ネイサンとしてはクルツが断り切れなかったと思ったのだ。しかし実際はそうではなく、どちらかというとクルツがロレッタとハンナを助け出したのが正解だった。
「とりあえず、閣下の雑仕事をするための下女という事にしております」
「……分かった。昨日から色々とすなまいな」
ネイサンは大きくため息をつく。ロレッタには手を焼いているのだが、ここまで行動派だったとは知らなかった。ロレッタからすれば屋敷にはいたくないからどこかに行きたかっただけなのだが、いかんせん行動が突飛過ぎた。
「それで、お仕事はどのような事なのでしょう?」
ロレッタはあくまで演技を通すつもりだ。横にいるハンナが真っ青な顔になっているのは気になるが、今更どうしようもないのだ。ここまで来たら突っ走るしかない。
「クルツ、今日の予定は?」
「はっ、エクセリオン帝国へ送る物資の最終確認です」
「……二人に必要な場所を教えておいてくれ。あと、食事をこの部屋に持ってくるように手配しておいてくれ」
「分かりました。ですが、私ですと立場的に問題がります」
相変わらずクルツの表情は動かない。ロレッタは二人のやり取りの間もクルツを観察している。彼はどこの誰なのか。有能な貴族であれば噂は直ぐに広まるはずだ。公爵令嬢という立場上、有力な貴族の名前は憶えているが、クルツという名前は聞いた事がなかった。さっきの涙を拭いた時の振る舞いを見ていると、きちんと教育されているのがよく分かった。ロレッタなどよりも余程しっかりと躾けられている。
「そうは言ってもこの事を広めたくはない」
ネイサンの顔は渋りきっている。無断で王城に入り込み、それが自分の娘などと知られれば公爵家といえども罰せられるのは間違いないからだ。
クルツが額に手を当て悩むネイサンを見て、口を開いた。
「分かりました、少し席を外します。すぐに戻ります」
クルツは礼をすると、静かに部屋から出て行った。
「ロレッタ様、これを」
部屋を出たクルツが持ってきたのは黒い縁の眼鏡だった。少しレンズが大きめで、若干野暮ったい。クルツがそれをロレッタに差し出してきた。
「あたし、目なんか悪くないわよ」
「いえ、変装用です。度は入ってません」
受け取らないロレッタに対してクルツは理由を述べる、
「ロゼッタさんを見てロレッタ様と見破る者がいないとも限りません。眼鏡をかけたくらいでも、印象が変われば人は気が付かないものです。ロレッタ様の美貌を隠す意味もあります。目立つのは良くないのです」
クルツが少し優しげな口調で、言い聞かせるように語ってくる。まるで幼子に教え込むように。
「なによ、あたしを子供扱いしないで。そもそもアナタは何歳なのよ!」
成人している意地から栗色の髪を振り乱しながらロレッタはクルツに食ってかかった。子供扱いが納得いかなかったのだ。だが端から見たロレッタの行動は、子供そのものだ。
「二十八になります」
「だ、だからってなによ! あたしだって成人してるんだから」
圧倒的年上に、ロレッタは怯んだ。だからといってクルツの表情は変わらない。クルツからみればロレッタは子供扱いだろうが、接する態度にそのような素振りはなかった。たまたま優しく説明したのがロレッタには子供扱いに映っただけだ。
「そのようなつもりはありません。誤解を与えてしまい、申し訳ありません」
「もう子供じゃないんだから、ちゃんと淑女として扱ってよね」
ロレッタはぷいっと顔を背ける。酔っ払いが酔ってなんかいないと言っているのと同じだった。
「ロレッタ。そこが子供だと言うのだ。大人だと言うのならそれらしい対応をしなさい」
ネイサンにビシッと諌められ、ロレッタは首を竦めた。ロレッタと言われた事にも気が付いていない。そして、しぶしぶと言った感じでクルツに向きをかえ、眼鏡を受け取った。
「し、仕方ないわね」
一言文句を言いつつ、ロレッタは眼鏡をかけた。眼鏡のフレームに視界の境界線ができ、ちょっと不思議な感じだった。
「こ、これでいいんでしょ」
ロレッタはクルツをキッと見る。クルツの表情は相変わらずだが、ロレッタを見てくるその目の目尻は、ほんの少しだけ下がっているよう見えた。
あれ、笑ってる?
「良くお似合いです」
ワンテンポ遅れて賛辞の言葉が来る。予想外のクルツの台詞に、ロレッタは自分の頬が少し熱くなるのを感じた。
「ふむ、意外に似合うな」
「本当ですね」
ネイサンとハンナからも同様の声が上がる。
「と、当然じゃない! 眼鏡くらいであたしの可愛さは閉じ込められないのよ」
ロレッタはちらっとクルツを見るが、彼の顔は既に無表情に戻っていた。
あたしの気のせいだったのかしら?
ロレッタは少しがっかりした。
「確かに、一見ではロレッタとは分らんな」
「ホントです。眼鏡だけでも印象は変わるんですね」
「あたしはロレッタではなくてロゼッタです」
腕を組んでロレッタを見ていたネイサンと感心していたハンナが窘められている。思わずネイサンは苦笑した。結局自分がロレッタであると認めているのだ。
眼鏡で変装したロレッタとハンナはクルツに引き連れられ、王城の石の廊下を歩いている。すれ違うたびに会釈をしていくが、みなロレッタとハンナを見てくる。見ない顔というのもあるが、可愛いからだ。
明らかに貴族の役人と見られる男性など遠慮なしにじろじろと品定めをしてくる。彼等の視線が胸や下半身へといくのが分るからだ。相手が下や使用人の時には貴族でも鼻の下を伸ばすのだ、と分ると嫌悪感も湧くが、男とはこうなんだと知れて、それはそれでいい経験だった。
「おい、ちょっと待て」
深緑の官僚服を着た、明らかに貴族と分る若い男性二人が声をかけてきた。顔は優しげだがニヤついた笑みを浮かべ偉そうでイラッとする態度だ。ロレッタとハンナは直視しない様に少し俯き加減でクルツの後ろに控ている。王城では使用人は貴族とは目を合わせないのが基本だ。
「何か御用ですか?」
クルツが背筋を伸ばして淡々と対応する。ロレッタにしゃべらせると何を言うか分らないからだ。
「お前じゃなくて後ろの女に用がある」
男性二人の内、背の高い方がロレッタを見てくる。ロレッタも俯きながらも上目遣いで様子を見ていた。ロレッタはその男の顔に見覚えがあった。ナントカ伯爵の息子だとかで、初めての夜会の時にも挨拶しに来てダンスも踊った。その後屋敷にも来てなにやら自慢していったのだ。
何でこんな所にいるのよ。
ロレッタはやばいと思ったが顔には出せず、背筋に冷たい汗を流すのみだ。
「おい女。俺の愛人になれよ。こんな所にいるよりも良い思いさせてやるぞ? 毎晩可愛がってやるって」
ニヤニヤしながらその男は言い放った。イヤらしい言い方に腹が立つが、ここで声を荒げてはバレてしまう。ロレッタは怒鳴りたい心を我慢して「ご勘弁を」と小さな声を上げた。
「そっちの赤い髪の奴でもいいぞ」
もう片方の男がハンナに言い寄った。二人の男がロレッタとハンナに近づこうとした時、クルツが前に立ち、阻んだ。
「王城でのそのような振る舞いは、折角の格式ある爵位に悪評が付いてしまいます」
「なんだと?」
ロレッタはクルツの背中に隠れてしまっていて前が見えないが、言い寄ってきた男達が文句を言っているのは聞こえる。そしてクルツの「やりますか?」という低い声も。
ハンナがロレッタの肩に手を回し、庇うように自身の半身を前に出す。ここでの最重要人物はロレッタなのだ。二人に庇われたロレッタは、それを理解した。
「……はっ! リッチモンド家がバックにいるから強気か?」
「良い気でいられるのも、今の内だな。後ろ盾が無ければここにいる資格もないくせに!」
しばしの睨みあいの末、捨て台詞を吐いて男二人は去っていった。ロレッタは去っていく二人の背中に向かい苛立ちの視線を送り付ける。彼らの行動は、とても紳士とは言えない物だったからだ。
「不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
クルツがロレッタに振り返り、小声で詫びを入れてきた。あくまでロレッタは下女なのだ。あからさまに謝っているところを見られるのは良くない。
その時のクルツの顔は、表情が乏しいままではあったが、その目はどこか悲しそうにも見えた。
クルツは二人を庇ってくれた。褒められることであり、悲しむことではないはずだ。それでも彼は悲しそうな、苦しそうな目をしている。ロレッタにはそれが不思議でならなかった。
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