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手と手を取り合うキツネとタヌキ
第三十五話 もう一組の二人
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ローイック達三人が書庫巡りをしたその晩、ハーヴィーの部屋では相も変わらず二人が密会していた。もはや目的がローイックとキャスリーンの行動すり合わせではなく、二人が話をするだけになっているのが実情だ。ミーティアが特に何も言わないのを良い事に、ハーヴィーは気が付かない振りをしている。
慣れない異国での生活と、護衛の緊張感で疲労しているハーヴィーにとっての憩いになっていたのだ。何よりミーティアと話をしているのが楽しい。ハーヴィーは、ローイックが「彼女が全てだった」と言った気持ちが良く分った気がした。ハーヴィーにとっての彼女が、ミーティアになっていたのだ。
「明日、街に行くのですか?」
空になったハーヴィーのグラスにミーティアがワインを注ぎながら、疑問を呈した。
今日はいつものお仕着せの侍女服ではなく、珍しく動きやすそうな淡い桃色のドレスに白いショールを羽織っている。胸元はきっちりと閉じており、体のラインを隠すようなデザインではあるが、残念な事にミーティアの体はそれでは隠し切れないのだ。嫌でもハーヴィーの視線はそこに誘われる。男の悲しい性だ。
髪もおろし、すっかり貴族のお嬢様となっているミーティアは、ハーヴィーにとって色々と嬉しい目の保養にもなっていた。
「アイツがいきなり「行く」と言いだしたんですよ。しかも殿下を連れて。何かあったらどうするつもりなんだか……」
帝都から出なければ良い、と皇帝から許可は得ていた。だが護衛のやり辛さと街中では目立つことを考えれば頭痛が襲ってくるというものだ。ハーヴィーが頭を抱えていると、ミーティアが合いの手を出す。
「どこに行くかなどは、おっしゃってましたか?」
「あぁ、なんでも、アイなんとか商会と、ウルなんたら商会と……」
ハーヴィーは記憶を辿りながらしゃべると、ミーティアが「アイランズ商会」「ウォルシュ商会」とうんうんと頷き相槌の様に訂正していく。ハーヴィーは「あぁ、そんな名前だった」とパチンと指を鳴らした。
「どれも帝国では有力な商家ですね。皇族、有力貴族とも昵懇な関係があります。いささか悪い噂も出ていますね。火のないところに煙りはと言いますし、ちょっと心配ですが、何か買うおつもりなんでしょうか?」
ミーティアも自らのグラスを傾けながら首も傾けた。物を買いたいのなら宮殿に呼べばいい。皇族が買い物の為に街に行くなど、立場上あってはならないのだ。
「買うと言っても、アイツ金なんて持ってないしなぁ」
ミーティアに合わせハーヴィーも首を傾げる。その様子がおかしいのか、ミーティアがフフッと微笑んだ。
ローイックは相変わらず無一文だ。アーガスから持ってきた金はハーヴィーが管理しているし、その金もアーガス国内の通貨であり、エクセリオン帝国で流通している通貨とは違うのだ。使えるだろうが、価値の違いから額面通りの金額とは限らない。
「では、別の目的なのでしょう。あ、姫様にあげる指輪とか?」
「アイツがそこまでマメな奴とは思えないんだが……」
ミーティアはパンと手を叩くがハーヴィーは否定する。そもそも正式に婚約にもなっていないのだ。大体皇女に贈り物など、余程の価値のあるものでなければ失礼に当たる。ハーヴィーもそこまで金は持っていないし、異国であるから請求書での処理も出来ない。高価な買い物はできないのだ。
「まぁ、アイツの事だから意味のない行動はしないだろうが」
ハーヴィーは腕を組んで唸った。ローイックは論理的思考をし効率を重視する。しかして遠回りも辞さない。まさに仕事人間の鑑と言えよう。
そのローイックがこの状況で無駄な動きをするとは、ハーヴィーにはそうは思えないのだ。
「ローイック様も大層な啖呵を切られたそうですね」
ミーティアは口に手を当て愉快そうに笑った。ちょっと酔っているか笑い細めた彼女の目元がほんのりと紅をさしており、いつもの清楚な雰囲気の中にはない色気を感じたハーヴィーの心臓は高鳴る。動揺を悟られないよう短く息を吐いた。
「お姫様がよっぽど大事なんでしょうなぁ」
ハーヴィーは誤魔化しの苦笑いを浮かべた。
「ローイック様があそこまで感情を露わにするのは、初めてかしれません。何があっても我慢して、姫様の前ではいつも笑顔でしたから」
ひとしきり笑ったミーティアがそんな事を呟いた。ローイックは骨折した時ですら、汗だくでも笑顔だった。
「あのバカは、あんな形でも結構頑固というか不器用というか。やると決めたら、やるんですよ。どんなやせ我慢をしてもね」
ハーヴィーはぐいっとグラスを煽った。ローイックの頑固さは、ハーヴィーも良く知っていた。過去にはその為に振り回されることもあったのだ。
それに、あの一件でハーヴィーも注目を浴びてしまったのだ。それまではアーガスから来た騎士団の副団長らしいと言う眉唾の扱いだったものが、皇女との縁談の相手の護衛に格上げされたのだ。
護衛と言っても一人しかおらず、かつまだ若い。余程の腕なのだろう、と勝手に噂されている。実際にハーヴィーの剣の腕はアーガス王国内で三本の指の中に入るものではあるが、帝国ではその片鱗も出してはいない。
「そこまで想われてる姫様は、羨ましいなぁ……」
ミーティアがグラスを両手で弄びながら、視線を下に向けた。
「私にも縁談は一応来るんですよ。でも相手が欲しいのは私ではなく、皇帝陛下や宰相閣下とも面識のある、姫様の侍女を束ねる立場の私が欲しいようで、見たことも聞いたこともない方から縁談が来るんです。父は、誰が一番私を高く買うのか、皮算用をしているんですよ。大した貴族でもない当家でも一応貴族ですから私も覚悟はしてますけど、正直、困っちゃいますよね」
ミーティアの声は段々小さくなる。最後に「姫様はいいなぁ」と囁く程の呟きを零した。ミーティアはため息をつくとグラスを持ち上げ、こくこくと中身を減らしていく。空にするまで一気に飲みきってしまったミーティアが空のグラスをトンとテーブルに置くと、ふー、と大きく息を吐いた。
「殿下が嫁いだ時は、どうなるんですか?」
ハーヴィーはここぞとばかりに知りたかったことを聞いた。その顔は真剣だ。
「……多分侍女の任は解かれて、ただの伯爵令嬢に戻るんでしょう。私としては、好きな人の国とはいえ行ったことのない外国に一人で嫁いでいく姫様が心配なのでついていきたいのですが、そうすると私に価値が無くなってしまうので、父は反対するでしょう」
「そう、ですか……」
ハーヴィーも、ミーティアも黙ってしまった。部屋には嫌な沈黙が訪れ、ハーヴィーはいたたまれなくなってしまっていた。不意にミーティアが顔を上げ、ハーヴィーを見据えてきた。何かを言いあぐねて口を開けては閉めてを繰り返していたが、意を決したのかゆっくりと口を開いた。
「どこかに、私を連れ去ってくれる王子様は、いないかな?」
ミーティアは涙を溜めた目でハーヴィーを見つめてくる。今まで愚痴をこぼす相手もいなかったのだろう。皇女相手に愚痴など零せるはずもない。同じ皇女付の侍女に話せば、自慢だと言われてしまうだろう。ほろ酔いで頬と目元に紅をさした彼女の色香と涙はハーヴィーを盛大に揺さぶる。
彼女の潤んだ目は、あからさまなお願いということを無言で主張し、かつ何かを要求していた。先日もこんな事はあった。彼女は「こうだったらいいな」と他人の願いは口にするが「こうして欲しいな」という自らの望みを口にしない。今までの立場がそうさせていたのだろう。
それに対しハーヴィーが用意できる答えはこれだけだ。
俺が連れて行くから泣くな。
言いよどむ口のなかで言葉が迷子になっている間に腕が先に動き、ミーティアの手をグラスごと両手で覆っていた。大きな手がミーティアの手を完全に隠している。息を吸ったハーヴィーが、口を開いた。
「アーガスに、来ないか? もちろん、俺の妻としてだが」
伝えたい言葉ではなかったが、口から出たソレは、更に上だった。ミーティアの目から頬を伝って一筋の涙が落ちる。ゆっくりと頷いた彼女の下にはいくつもの水の結晶ができていた。
ミーティアの嗚咽が落ち着いた頃には、もうかなりの夜更けだった。日付は超えており、宮殿内とはいえ、女性を一人で帰すのは躊躇われる時間である。送って行こうにも女官舎には入れないばかりか、帰り道は迷子になるのがオチだ。ハーヴィーは自らの方向音痴を呪った。
「流石に遅すぎて危険だ。私はこっちのソファーで寝てるから、ミーティア嬢はベッドで寝てくれ」
彼女の肩を抱きベッドまで誘導するがその手はハーヴィーの袖を掴んだままだ。訴えるように見上げてくるミーティアに対し、ハーヴィーは「ここは堪えろ」と心の中で繰り返し繰り返し自らを説得していた。隣にはローイックが寝ているのだ。起きて様子を見に来られても、困る。
「あの、コルセットが苦しいので、外してください」
袖を離したミーティアは背中を向けた。ボタンでドレスが止まっており、これを外してドレスを脱がし、中のコルセットを外せとミーティアは要求しているのだ。
確かにコルセットをしていれば苦しいだろう。ここには侍女もいなければまさか呼びに行く訳にもいかない。
俺は、試されているのか?
悩めるハーヴィーは震える手でボタンを一つ一つ外していく。頭の中では剣の素振りが繰り返され、色々と抗っていた。
どうにかこうにかコルセットまで外したが、下着姿のミーティアが、どうやっても視界に入って来る。柔らかそうな白い肌が露になり、更にハーヴィーに揺さぶりをかけてくる。伸びる手を反対の手で押さえ込んでいる間に彼女はベッドの横になり、毛布をかぶった。理性が勝ったようだ。
ミーティアにその気があるのか、経験不足なハーヴィーには計りかねている。が、ここで手を出すのは危険だ、と本能は告げていた。男女の間にも順番はあるのだ。まずは手を繋ぐことから、などと考えているが、既に彼女を抱きしめていたことを思い出し自己嫌悪に陥る。現実は、教科書通りにはいかないのだ。
「あの、寒いので……」
ミーティアがちょっと毛布を持ち上げて隙間を作り、何かを要求してきた。確かに下着だけでは寒いだろう。ここには男物しかないが、ないよりはましだ。クローゼットに向かい、新しい肌着とシャツを持ち出す。それを持ちベッドに戻ると、彼女の寂しそうな顔が目に飛び込んでくる。期待を裏切る行為だったのだろう。
「男物ですまないが、ないよりはましだろう」
ミーティアを起こし、慣れない手つきで着せた。何度も柔らかいものに触れるが、気が付かなかったことにした。これくらいの役得は許されるよな、と心で懺悔する。
ぶかぶかなシャツを着せられたミーティアは、心の奥底から凄まじい保護欲を掻き立ててくる。頭の中を剣の素振りから憎き団長との果たし合いに変更して、襲い来る煩悩に耐えた。歯を食いしばって耐えきった。
ハーヴィーは、不満げな顔のミーティアをひょいっと抱えるとベッドにぎしっと乗った。ベッドの真ん中あたりに彼女を降ろし、ハーヴィーも横になる。自分の胸あたりにミーティアの額を当て、ゆっくりと髪を撫でた。
「この続きは、あの二人の関係がきちんと決まってからにしよう」
ミーティアの頬に唇を落とし、髪を撫で、そう言い聞かせた。破裂しそうな心臓を抱えたハーヴィーの、できる限界がこれだった。これ以上は本能を抑えられない自信が、彼にはある。狼になって哀れな子羊をあれやこれやとなぶってしまうだろう。ミーティアに嫌われるのだけは、避けたかった。
毛布を掛けると、胸にぎゅうと押し付ける圧力がかかり、その胸元から「暖かいです」と聞こえてくる。とりあえず回答に満足いただけたらしいことにハーヴィーは安どの息をつき、ミーティアの背中を優しく撫でた。香料の甘い匂いがするミーティアの髪を楽しんでいる間に、安心したのか胸元からはすぐに寝息が聞こえ始めはじめてくる。酒も入っていたし、何より疲れていたのだろ。
ハーヴィーはミーティアの頭に頬を当て、目を閉じた。ミーティアの両親にはいつ挨拶に行けば良いのかを考える。自分の今の状況はローイックと大して変わらない。ミーティアの親は彼女を高く売ろうとしている。だがハーヴィーにはそんな価値はない。ではどうやって説得すればよいのか。考えは纏まらない。そしてある事に気が付いた。
明朝にこの状況の言い訳をどうしたら良いだろうか。
ぼやけた頭では答えなど出ないのだった。
慣れない異国での生活と、護衛の緊張感で疲労しているハーヴィーにとっての憩いになっていたのだ。何よりミーティアと話をしているのが楽しい。ハーヴィーは、ローイックが「彼女が全てだった」と言った気持ちが良く分った気がした。ハーヴィーにとっての彼女が、ミーティアになっていたのだ。
「明日、街に行くのですか?」
空になったハーヴィーのグラスにミーティアがワインを注ぎながら、疑問を呈した。
今日はいつものお仕着せの侍女服ではなく、珍しく動きやすそうな淡い桃色のドレスに白いショールを羽織っている。胸元はきっちりと閉じており、体のラインを隠すようなデザインではあるが、残念な事にミーティアの体はそれでは隠し切れないのだ。嫌でもハーヴィーの視線はそこに誘われる。男の悲しい性だ。
髪もおろし、すっかり貴族のお嬢様となっているミーティアは、ハーヴィーにとって色々と嬉しい目の保養にもなっていた。
「アイツがいきなり「行く」と言いだしたんですよ。しかも殿下を連れて。何かあったらどうするつもりなんだか……」
帝都から出なければ良い、と皇帝から許可は得ていた。だが護衛のやり辛さと街中では目立つことを考えれば頭痛が襲ってくるというものだ。ハーヴィーが頭を抱えていると、ミーティアが合いの手を出す。
「どこに行くかなどは、おっしゃってましたか?」
「あぁ、なんでも、アイなんとか商会と、ウルなんたら商会と……」
ハーヴィーは記憶を辿りながらしゃべると、ミーティアが「アイランズ商会」「ウォルシュ商会」とうんうんと頷き相槌の様に訂正していく。ハーヴィーは「あぁ、そんな名前だった」とパチンと指を鳴らした。
「どれも帝国では有力な商家ですね。皇族、有力貴族とも昵懇な関係があります。いささか悪い噂も出ていますね。火のないところに煙りはと言いますし、ちょっと心配ですが、何か買うおつもりなんでしょうか?」
ミーティアも自らのグラスを傾けながら首も傾けた。物を買いたいのなら宮殿に呼べばいい。皇族が買い物の為に街に行くなど、立場上あってはならないのだ。
「買うと言っても、アイツ金なんて持ってないしなぁ」
ミーティアに合わせハーヴィーも首を傾げる。その様子がおかしいのか、ミーティアがフフッと微笑んだ。
ローイックは相変わらず無一文だ。アーガスから持ってきた金はハーヴィーが管理しているし、その金もアーガス国内の通貨であり、エクセリオン帝国で流通している通貨とは違うのだ。使えるだろうが、価値の違いから額面通りの金額とは限らない。
「では、別の目的なのでしょう。あ、姫様にあげる指輪とか?」
「アイツがそこまでマメな奴とは思えないんだが……」
ミーティアはパンと手を叩くがハーヴィーは否定する。そもそも正式に婚約にもなっていないのだ。大体皇女に贈り物など、余程の価値のあるものでなければ失礼に当たる。ハーヴィーもそこまで金は持っていないし、異国であるから請求書での処理も出来ない。高価な買い物はできないのだ。
「まぁ、アイツの事だから意味のない行動はしないだろうが」
ハーヴィーは腕を組んで唸った。ローイックは論理的思考をし効率を重視する。しかして遠回りも辞さない。まさに仕事人間の鑑と言えよう。
そのローイックがこの状況で無駄な動きをするとは、ハーヴィーにはそうは思えないのだ。
「ローイック様も大層な啖呵を切られたそうですね」
ミーティアは口に手を当て愉快そうに笑った。ちょっと酔っているか笑い細めた彼女の目元がほんのりと紅をさしており、いつもの清楚な雰囲気の中にはない色気を感じたハーヴィーの心臓は高鳴る。動揺を悟られないよう短く息を吐いた。
「お姫様がよっぽど大事なんでしょうなぁ」
ハーヴィーは誤魔化しの苦笑いを浮かべた。
「ローイック様があそこまで感情を露わにするのは、初めてかしれません。何があっても我慢して、姫様の前ではいつも笑顔でしたから」
ひとしきり笑ったミーティアがそんな事を呟いた。ローイックは骨折した時ですら、汗だくでも笑顔だった。
「あのバカは、あんな形でも結構頑固というか不器用というか。やると決めたら、やるんですよ。どんなやせ我慢をしてもね」
ハーヴィーはぐいっとグラスを煽った。ローイックの頑固さは、ハーヴィーも良く知っていた。過去にはその為に振り回されることもあったのだ。
それに、あの一件でハーヴィーも注目を浴びてしまったのだ。それまではアーガスから来た騎士団の副団長らしいと言う眉唾の扱いだったものが、皇女との縁談の相手の護衛に格上げされたのだ。
護衛と言っても一人しかおらず、かつまだ若い。余程の腕なのだろう、と勝手に噂されている。実際にハーヴィーの剣の腕はアーガス王国内で三本の指の中に入るものではあるが、帝国ではその片鱗も出してはいない。
「そこまで想われてる姫様は、羨ましいなぁ……」
ミーティアがグラスを両手で弄びながら、視線を下に向けた。
「私にも縁談は一応来るんですよ。でも相手が欲しいのは私ではなく、皇帝陛下や宰相閣下とも面識のある、姫様の侍女を束ねる立場の私が欲しいようで、見たことも聞いたこともない方から縁談が来るんです。父は、誰が一番私を高く買うのか、皮算用をしているんですよ。大した貴族でもない当家でも一応貴族ですから私も覚悟はしてますけど、正直、困っちゃいますよね」
ミーティアの声は段々小さくなる。最後に「姫様はいいなぁ」と囁く程の呟きを零した。ミーティアはため息をつくとグラスを持ち上げ、こくこくと中身を減らしていく。空にするまで一気に飲みきってしまったミーティアが空のグラスをトンとテーブルに置くと、ふー、と大きく息を吐いた。
「殿下が嫁いだ時は、どうなるんですか?」
ハーヴィーはここぞとばかりに知りたかったことを聞いた。その顔は真剣だ。
「……多分侍女の任は解かれて、ただの伯爵令嬢に戻るんでしょう。私としては、好きな人の国とはいえ行ったことのない外国に一人で嫁いでいく姫様が心配なのでついていきたいのですが、そうすると私に価値が無くなってしまうので、父は反対するでしょう」
「そう、ですか……」
ハーヴィーも、ミーティアも黙ってしまった。部屋には嫌な沈黙が訪れ、ハーヴィーはいたたまれなくなってしまっていた。不意にミーティアが顔を上げ、ハーヴィーを見据えてきた。何かを言いあぐねて口を開けては閉めてを繰り返していたが、意を決したのかゆっくりと口を開いた。
「どこかに、私を連れ去ってくれる王子様は、いないかな?」
ミーティアは涙を溜めた目でハーヴィーを見つめてくる。今まで愚痴をこぼす相手もいなかったのだろう。皇女相手に愚痴など零せるはずもない。同じ皇女付の侍女に話せば、自慢だと言われてしまうだろう。ほろ酔いで頬と目元に紅をさした彼女の色香と涙はハーヴィーを盛大に揺さぶる。
彼女の潤んだ目は、あからさまなお願いということを無言で主張し、かつ何かを要求していた。先日もこんな事はあった。彼女は「こうだったらいいな」と他人の願いは口にするが「こうして欲しいな」という自らの望みを口にしない。今までの立場がそうさせていたのだろう。
それに対しハーヴィーが用意できる答えはこれだけだ。
俺が連れて行くから泣くな。
言いよどむ口のなかで言葉が迷子になっている間に腕が先に動き、ミーティアの手をグラスごと両手で覆っていた。大きな手がミーティアの手を完全に隠している。息を吸ったハーヴィーが、口を開いた。
「アーガスに、来ないか? もちろん、俺の妻としてだが」
伝えたい言葉ではなかったが、口から出たソレは、更に上だった。ミーティアの目から頬を伝って一筋の涙が落ちる。ゆっくりと頷いた彼女の下にはいくつもの水の結晶ができていた。
ミーティアの嗚咽が落ち着いた頃には、もうかなりの夜更けだった。日付は超えており、宮殿内とはいえ、女性を一人で帰すのは躊躇われる時間である。送って行こうにも女官舎には入れないばかりか、帰り道は迷子になるのがオチだ。ハーヴィーは自らの方向音痴を呪った。
「流石に遅すぎて危険だ。私はこっちのソファーで寝てるから、ミーティア嬢はベッドで寝てくれ」
彼女の肩を抱きベッドまで誘導するがその手はハーヴィーの袖を掴んだままだ。訴えるように見上げてくるミーティアに対し、ハーヴィーは「ここは堪えろ」と心の中で繰り返し繰り返し自らを説得していた。隣にはローイックが寝ているのだ。起きて様子を見に来られても、困る。
「あの、コルセットが苦しいので、外してください」
袖を離したミーティアは背中を向けた。ボタンでドレスが止まっており、これを外してドレスを脱がし、中のコルセットを外せとミーティアは要求しているのだ。
確かにコルセットをしていれば苦しいだろう。ここには侍女もいなければまさか呼びに行く訳にもいかない。
俺は、試されているのか?
悩めるハーヴィーは震える手でボタンを一つ一つ外していく。頭の中では剣の素振りが繰り返され、色々と抗っていた。
どうにかこうにかコルセットまで外したが、下着姿のミーティアが、どうやっても視界に入って来る。柔らかそうな白い肌が露になり、更にハーヴィーに揺さぶりをかけてくる。伸びる手を反対の手で押さえ込んでいる間に彼女はベッドの横になり、毛布をかぶった。理性が勝ったようだ。
ミーティアにその気があるのか、経験不足なハーヴィーには計りかねている。が、ここで手を出すのは危険だ、と本能は告げていた。男女の間にも順番はあるのだ。まずは手を繋ぐことから、などと考えているが、既に彼女を抱きしめていたことを思い出し自己嫌悪に陥る。現実は、教科書通りにはいかないのだ。
「あの、寒いので……」
ミーティアがちょっと毛布を持ち上げて隙間を作り、何かを要求してきた。確かに下着だけでは寒いだろう。ここには男物しかないが、ないよりはましだ。クローゼットに向かい、新しい肌着とシャツを持ち出す。それを持ちベッドに戻ると、彼女の寂しそうな顔が目に飛び込んでくる。期待を裏切る行為だったのだろう。
「男物ですまないが、ないよりはましだろう」
ミーティアを起こし、慣れない手つきで着せた。何度も柔らかいものに触れるが、気が付かなかったことにした。これくらいの役得は許されるよな、と心で懺悔する。
ぶかぶかなシャツを着せられたミーティアは、心の奥底から凄まじい保護欲を掻き立ててくる。頭の中を剣の素振りから憎き団長との果たし合いに変更して、襲い来る煩悩に耐えた。歯を食いしばって耐えきった。
ハーヴィーは、不満げな顔のミーティアをひょいっと抱えるとベッドにぎしっと乗った。ベッドの真ん中あたりに彼女を降ろし、ハーヴィーも横になる。自分の胸あたりにミーティアの額を当て、ゆっくりと髪を撫でた。
「この続きは、あの二人の関係がきちんと決まってからにしよう」
ミーティアの頬に唇を落とし、髪を撫で、そう言い聞かせた。破裂しそうな心臓を抱えたハーヴィーの、できる限界がこれだった。これ以上は本能を抑えられない自信が、彼にはある。狼になって哀れな子羊をあれやこれやとなぶってしまうだろう。ミーティアに嫌われるのだけは、避けたかった。
毛布を掛けると、胸にぎゅうと押し付ける圧力がかかり、その胸元から「暖かいです」と聞こえてくる。とりあえず回答に満足いただけたらしいことにハーヴィーは安どの息をつき、ミーティアの背中を優しく撫でた。香料の甘い匂いがするミーティアの髪を楽しんでいる間に、安心したのか胸元からはすぐに寝息が聞こえ始めはじめてくる。酒も入っていたし、何より疲れていたのだろ。
ハーヴィーはミーティアの頭に頬を当て、目を閉じた。ミーティアの両親にはいつ挨拶に行けば良いのかを考える。自分の今の状況はローイックと大して変わらない。ミーティアの親は彼女を高く売ろうとしている。だがハーヴィーにはそんな価値はない。ではどうやって説得すればよいのか。考えは纏まらない。そしてある事に気が付いた。
明朝にこの状況の言い訳をどうしたら良いだろうか。
ぼやけた頭では答えなど出ないのだった。
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