世界人類を救え

内藤 晃一

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世界人類を救え•2

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世界人類を救え    2    小川孝子 金子正幸 内藤晃一     共著    2019年1月26日(金)


目次・毎日、更新します。
1・韓国が滅びようとしている
2・「浄土真宗、教徒の数」の画像検索結果から、引用
3・ルーズベルト大統領が、ソ連を応援する為に、
4・参議院議員・青山繁晴さまの情報です。
5・日本・インド・ベトナムを始め、全てのアジア諸国が、アメリカを受け入れたが、
6・1945年8月15日(水)、日本敗戦。日本陸軍は、勝つ気で戦ったが、

 

10・連邦議会での離任演説(1951 年)・ダグラス・マッカーサー


12・尼崎事件・一家を乗っ取り搾取して殲滅する虐待のシステム 
13・ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカの軍人

2019年4月25日(木)
1・
突然であるが、韓国が、滅びようとして居る。これを、救うには、アメリカ政府の許しが要るが、
    兎に角、やって見よう。人間は、見栄を張る為に、その身を滅ぼす。中国・韓国・北朝鮮の弱点は、彼らが、見栄っ張りな事です。中国・韓国・北朝鮮には、心に空を悟ると言う、文化が無い。これは、般若心経、仏教文化の本質が、理解されて居ないからです。中国・韓国・北朝鮮の仏教と日本の仏教は、違います。日本の仏教は、日本で独自の発展を遂げた物です。日本では、西洋式のキリスト教徒は、100万人で、少ないと言われて居ますが、浄土真宗は、景教・ネストリウス派のキリスト教が、日本で独自に発展した物です。

2・
「浄土真宗、教徒の数」の画像検索結果から、引用

関係者によると、平成28年版の宗教年鑑では、大谷派の信者数は、約792万人にのぼり、前年版の約320万人から2・47倍に増加。 全国最多の浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)に匹敵する規模となり、仏教系教団の中での信者数順位は、6位から2位に上昇する。2016/12/25
宗教年鑑の信者数の信頼性は? 真宗大谷派の信者数 ... - ...

この話は、非常に面白いので、以下から引用します。
禁断ミステリー:ザビエル「浄土真宗は景教=キリスト教ネストリ​ウス派である」!? : Kazumoto Iguchi's blog ...
https://quasimoto2.exblog.jp › ...
である。

ザビエルは、一応、織田信長に取り入って、おそらく南蛮寺(イエズス会カソリック教会)を作ったが、すでに時遅し。我が国には、西暦数百年代に支那の秦氏(はたし)が入植した時代に、秦氏が信じていた宗教があった。それが
景教=キリスト教ネストリウス派
というものである。これが、日本人自前の神道と融合して、さらには、インド伝来の仏教とも融合して、神仏混合の八百八幡の神社仏閣の世界を生み出していた。

この景教を、空海が持ち込んだのであるという説もある。
この秦氏が八幡神社を広げたのは有名だが、同時に景教を仏教式に漢字形式、和風に変えたものが、浄土真宗だったのである。
極楽浄土とは、ヘブン=天国の意味である。
イエスの教えを守れば天国に行ける。これこそ、キリスト教の定番の考え方だが、ザビエルが来た頃には、すでに我が国には極楽、極楽という文化が根付いていた。それで、「なんてこった」とザビエルが驚いたという。ザビエルには言葉がわからないから、分からなかっただけで、すべては、ザビエルが来る1000年以上前に、伝来していたのである。
それよりさらに前の、2700年前には、天皇家が神道=古代イスラエルの宗教を、そっくりそのまま持ってきた。だから、ザビエルの国より、我が国のほうがずっと敬虔な、民度の高い民衆の住む国と、なっていたわけです。
BC700=2700年前:神道=古代イスラエルの多神教→神社
AC600=1400年前:浄土真宗=原始キリスト教=ネストリウス派→仏教の本願寺
             
    1941年12月8日(月)、
3・
共産党親派のルーズベルト大統領が、ソ連を応援する為に、日本を対米戦争に追い込んだ結果、
       日本は、真珠湾攻撃に
     踏み切った訳ですが、本来あるべき姿は、日米英同盟による世界平和の実現です。

   2019年4月30日(火)
   YouTube、による、
4・
参議院議員・青山繁晴さまの情報です。
     2019年4月25日(木)に行われた、ウラジオストクに於ける会見で、下交渉に当たった、北朝鮮の金正恩の執事、2名が、逃亡、ロシアに亡命して、身柄を米英の情報機関に送られた。
会見後、
金正恩は、水族館視察、バレー観賞を中止して、急遽、帰国した。プーチンに、経済制裁解除への協力を要請したが、応対は、にこやかであったが、プーチンは、トランプに協力する立場を、崩さなかった。

ロシアの関心は、北朝鮮・韓国への石油・天然ガスのパイプライン敷設を中心とする、領土的影響力の拡大であるから、アメリカ軍の韓国撤退は、有り得ない。
もし、撤退するのなら、韓国を元の焼け野原に戻す。アメリカの恩恵で出来た国土を、只で手に入れようと言う、韓国の思惑は、裏切られる。

5・
日本・インド・ベトナムを始め、全てのアジア諸国が、アメリカを受け入れたが、中国・韓国・北朝鮮は、
英米文明を、受け入れなかった。彼らは、信じ合い、尊敬し合って、共に人生を楽しむ事が、出来ない。
飽く迄も自分らが支配者で無ければ、気が済まない。

6・
1945年8月15日(水)、日本敗戦。日本陸軍は、勝つ気で戦ったが、開明派の海軍上層部は、
 アメリカに負けて、日本の民主化、近代化をする積もりであった。米英の聡明な近代的・民主国家こそ、信頼するに足る物である。
日本に対する、
マッカーサー元帥の最大の功績は、世界一の理想的な農地解放を、行った事である。フィリピンでは、出来なくて、日本で最高最大の農地解放が、出来たのは、20年も掛けて農林省を中心に、農地解放の準備が出来て居たから、であるが、それを可能にしたのは、マッカーサーの強権を持って、断行されたからである。フランス革命による農地解放は、1789年7月14日(火)バスチーユ監獄の襲撃~1815年 6月18日(日)、ワーテルローの戦いまで、血生臭い政争と戦争が、繰り返された。太平洋戦争に於ける、300万人にも上る日本人の被害は、大変な物であったが、日本の農地解放は、何のトラブルも無く、一夜で成し遂げられた。農地解放が無ければ、戦後日本の繁栄は、絶対に無い。

農地解放とは、・・・以下引用
農地制度を改革すること。 特に第二次大戦後、1947年、GHQの指令で行われた農地制度改革をさす。 不在地主の小作地全部と、在村地主の小作地のうち、都府県で平均1町歩(約1ヘクタール)、北海道で4町歩を超える分を国が買い上げ、小作農民に売り渡した。 この改革によって、小作地の80パーセント(190万町歩余)が解放された。
農地改革(のうちかいかく)とは - コトバンクから、引用しました。

この時、無産党の最大支持基盤であった、小作農が、一夜にして、有産階級・保守政党の支持者に変わり、代わって、自虐史観を教える日教組が、強固な支持基盤と成ったが、イギリス・アメリカにも、日教組の様な強力な組織があり、植民地で、インディアンに対して、暴虐の限りを尽くした事を、徹底的に教えた。これは、野党が、内閣・政権党を貶めて、選挙に勝つ事を目的に、行ったのだが、選挙には効果が無くて、代わりに副作用として、英米の国力の低下を招いた。イギリスは、英国病と言われ、アメリカは、自動車産業の都・デトロイトが、滅びて仕舞った。その為に、サッチャー首相とレーガン大統領は、教育改革を行ない、現場の教員が、自虐史観から、誇りの持てる内容の授業をする様に、切り換えさせた。教職員が、自分の支持する政党を勝たせる為に、自虐史観の教育をすると、国が滅びる。

日本が、農地解放を実施した、
この時、アジア各国も農地解放を行なったが、それらは全て、軍政か独裁政権の下で、行われた物で、唯一、アメリカ式の民主制度の下に有った、フィリピンだけが、農地解放に失敗した。国会議員が、地主に買収された、為である。フィリピン国民が、今日でも、ゴミの山を漁り、外国へ出稼ぎに行くのは、その為である。フィリピンを占領して、農地解放を断行して、やりてえよ。英邁な君主の独裁は、理想的であり、アメリカ式の民主主義は、衆愚政治に成り易い。英邁な君主が、現れるのは、稀である。リークアンユーのシンガポールでは、多数決は、採用しない。代わりに、正解を求めて、徹底的に研究して、それの結果を採用する。市役所には、年収、1億円の清廉潔白な幹部が居て、目を光らせるから、汚職官吏は居ない。
千田吾郎教授が、賛同者を募って、理想のマンションを建てた時、1階の者は、エレベーターは、要らないと言う。3階の者は、必要だと言う。多数決で決めろと言う者も、居たが、徹底的に調べた結果、小さなモーターを使えば、移動は、ゆっくりだが、設備も電気代も安く出来る事が、解って、それに落ち着いた。多数決は、余り良い方法ではない。

新しい勝者、アメリカの良い所は、ドンドン取り入れて、日本は、許される範囲で、民主化、近代化を進めた。

1942年2月15日(日)
シンガポール攻略に観られる様に、陸軍は、最高の頭脳、山下奉文大将を投入して、万全の調査の下に、勝利を収めた。日本陸軍・36000名。守る英豪軍・85000名。陸海軍が、共に緻密な作戦を決行すれば、真珠湾占領は、完璧に出来た。山下大将の情報収集は、精緻を極め、膨大な機密費が、惜しみなく使われたが、英軍のスパイ取り締まりも厳しく、多くの諜報員が犠牲になった。因みに、日露戦争に於ける明石元二郎大将個人に、託された機密費は、今日の価格で、440億円である。日本陸軍・山下大将の作戦は、細部に至るまで、周到に準備し、計算し尽くされた物で有った。相沢卓先生は、アルバイトで、シンガポール攻略の為の自転車の積み込みを、手伝った。
しかし、
海軍は、真珠湾攻撃で、黒島亀人参謀の提案したハワイ占領を、行わなかった。指揮官にも、年功序列、兵学校の成績順と言う、平時の人選を行った。南雲中将は、航空機動艦隊を指揮する人では無い。
奇襲は、2度の成功は、有り得ない。半年切り戦えないと言う、前提がある限り、初戦の成功を完遂して、
真珠湾の石油備蓄基地と造船、海軍修理工場、潜水艦基地を占領する事。2隻のアメリカ空母を沈める事。
これらの徹底的戦果を挙げないで、急いで帰投する事は、長期戦に持ち込まれて、負ける事を意味する。

南雲忠一大将の専門は、水雷であらせられました。真珠湾攻撃の人事は、山本元帥の戦略に依る物で、筆者は南雲大将の名誉と至誠を、貶める者では、有りません。

真珠湾攻撃をやらなければ、フィリピン攻撃だけで、アメリカが対日戦争に、踏み切る事は無かった。
ルーズベルト大統領は、不戦を公約して居たし、アメリカ国民の85%が、戦争反対であった。
アメリカ国民は、第一次大戦でアメリカ青年の血を流した事に、ウンザリして居た。
遠いアジアの戦争に、アメリカ国民は、無関心だったから、
シンガポール攻略を持って、大東亜戦争は、終わって居たのである。
真珠湾を占領すれば、アメリカとの講和に持ち込めた。

適当に戦って、負ける事によって、アメリカの指導の下に、日本の民主化、近代化を実現しようとするのが、昭和天皇と山本五十六元帥との密約であった。
海軍上層部は、短期では、国民を裏切ったが、長期では、軍拡を民生の向上に振り向ける事に依って、国民を幸せに導いた。
山本元帥は、自殺の様な形で、お隠れになり、
海軍は、一人もA級戦犯を出さなかったが、井上成美大将は、戦後、全ての優遇を断って、極貧と栄養失調に耐え抜いて、お隠れになった。戦後、長い間、進駐軍は、報復の為に、軍人・軍属への年金・恩給の支払いを、させなかった。井上大将は、国民への償いの為に、自らに貧窮を課した。

大西瀧治郎中将は、徹頭徹尾、真珠湾攻撃に反対であった。マニラ攻撃なら、赦されるが、真珠湾をやったら、日本が、クタクタに成って、無条件降伏するまで、アメリカは、許さない。と主張した。結果は、その通りに成り、最後まで、神風特攻隊を指揮した、大西中将は、割腹自殺して果てた。パラオ守備隊の、
硫黄島の栗林中将、パラオ守備隊の
キスカ撤退の樋口中将、
インパール作戦の宮崎繁三郎中将、
蒙古守備隊の根本中将、
阿南陸相は、終戦反対の陸軍将校の暴発を、抑える為に、割腹自殺された。

根本博・・・・・ウィキペディアから、引用
ねもと ひろし
根本 博は、日本の陸軍軍人及び中華民国の陸軍軍人。最終階級は共に陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。陸士23期。陸大34期。 終戦時に内モンゴルに駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお、侵攻を止めないソビエト軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救った。 ウィキペディア
生年月日: 1891年6月6日(土)双子座
死亡: 1966年5月24日(火)

駐蒙軍司令官として

1944年(昭和19年)11月、駐蒙軍司令官に就任。翌1945年(昭和20年)8月のソビエト軍の満州侵攻は、8月15日の日本降伏後も止まらず、同地域の日本人住民4万人の命が、危機に晒されていた。ソビエト軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は、一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと、覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は、断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して、命令を下した。途中幾度と停戦交渉を試みるが、攻撃を止めないソビエト軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返し、ソビエト軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦を繰り広げた。更に八路軍(人民解放軍の前身)からの攻撃にも、必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を、守り抜いた[注釈 1]。また、根本は中国国民党軍の傅作義と、連絡をとっていた。

8月19日から始まった、ソビエト軍との戦闘は、およそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃に、ソビエト軍が戦意を喪失した為、日本軍は、8月21日以降撤退を開始、最後の部隊が27日に万里の長城へ帰着した。出迎えた駐蒙軍参謀長松永留雄少将は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。その後も引揚船に乗るまで日本軍や、政府関係者は、彼らの食料や衣服の提供に尽力した。

引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に、苦心していたとされる。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを、先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。

一方の満州では、関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が、短時間での出発は、大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になっても、ほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを、第一列車に乗せざるを得なかった。これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。また山西省では、一部の日本軍と在留邦人が残留し、戦後問題となった(中国山西省日本軍残留問題)

尚、前任の下村定陸軍大将が、最後の陸軍大臣になった事を受けて、8月19日、根本は、北支那方面軍司令官を兼任する。

1946年(昭和21年)8月、根本は最高責任者として、在留日本人の内地帰還と、北支那方面の35万将兵の復員を終わらせ、最後の船で帰国した。

終戦時、中国大陸には、日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて、600万人いたが、蒋介石率いる中華民国側は、日本軍の引き揚げに協力的で、本来ならば、自国の軍隊の輸送を、最優先させねばならない鉄道路線を、可能な限り日本軍及び日本人居留民の、輸送に割り当てた。日本軍の降伏調印式と武装解除に、中国側は、数名の将官が来ただけという珍事もあった。

ソビエト軍の占領下になった満州や、山西省でのケースを除くと、日本側は、最低でも10年はかかると予測していた中国大陸からの引き揚げを、10ヶ月で完了した。

衆議院議員の大久保伝蔵は、引揚の受け入れ港の視察で、南方や満州、朝鮮からの引揚者が、裸同然だったのに対して、中国本土からの引揚者は、そのようなことがなく、手荷物を持っていたことに、驚いている。

中華民国統治下の台湾へ
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「密航」
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復員後、東京の鶴川村(現在の町田市能ヶ谷)の自宅へ戻る。中国情勢における国民党の敗北が、決定的となり、1949年(昭和24年)1月に蒋介石が、総統を辞任すると、蒋介石に対する恩義(4万人の在留邦人と35万将兵の帰還への便宜供与、国体護持)から、根本は、私財を売却して渡航費用を工面しようとする。そこに、元上海の貿易商であった、明石元長[注釈 2]及び「東亜修好会」からの要請があり、密航を決意する。

同年6月26日、家族に「釣りに行ってくる」とだけ言い残し、通訳の吉村是二とともに、宮崎県延岡市の沿岸から台湾へ密航。7月10日に基隆に到着するが、密航者として投獄される。しかし、根本投獄の報告が、かつて交流のあった国府軍上層部(彭孟緝中将、鈕先銘中将)に伝わるや否や待遇が一変し、8月1日に台北へ移動する。北投温泉での静養を経て、8月中旬、湯恩伯の仲介で蒋介石と面会する。同時期8月5日にアメリカが、国民党政府への軍事支援打ち切りを表明しており、孤立無援の状態にあった蒋介石は、根本の協力を受け入れた。

金門島決戦
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詳細は「古寧頭戦役」を参照
根本らは、8月18日に台湾から厦門へ渡る。中国名「林保源」として、湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。湯恩伯は、根本を「顧問閣下」と呼び礼遇した。根本は湯恩伯に対し、厦門を放棄し、金門島を拠点とすることを提案する。これを基に防衛計画が立案され、根本は直接指導に当たった。同年10月1日、北京では中国共産党による中華人民共和国が成立。ほどなく国府軍は厦門を失陥。金門島での決戦が迫る中、根本は塹壕戦の指導を行う。そして10月24日、金門島における古寧頭戦役を指揮、上陸してきた中国人民解放軍を破り、同島を死守した[1]。

10月30日、湯恩伯は「林保源」を含む部下たちとともに、台北に凱旋する。根本らの帰国後も、この島を巡って激戦(金門砲戦)が展開されたが、台湾側は、人民解放軍の攻撃を防ぎ、現在に至る台湾の存立が確定した。

その後、根本の帰国に先立ち、蒋介石は感謝の品として、イギリス王室と日本の皇室に贈ったものと同じ花瓶を、根本に渡している[2]。本来一対であるべき花瓶の片方は、今日も中正紀念堂に展示されている[3]。

スキャンダルとして
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当時、国府軍が日本の旧軍人らを、義勇兵として募兵しているといった噂から「台湾募兵問題」が、スキャンダルとして世間の注目を、集めていた[4]。

根本らの台湾密航は、国会でも追及され、昭和24年(1949年)11月12日、第6回国会参議院本会議[5]において、細川嘉六(日本共産党)から、台湾における日本人義勇軍に対する所見を、問われると、吉田茂首相は「噂は聞いておりますが、従つて政府としては、その噂が事実なりや否や、嚴重に今取調中」とし、殖田俊吉法務総裁(法務大臣に相当)は「少数の者が台湾へ行つたらしい形跡がある」として、大規模な地下組織の存在を、否定しつつ、いずれも答弁を濁している。その後、11月15日付で吉田首相は、日本人義勇軍の組織化は否定しつつも、根本らの密航を認める答弁書を、提出している[6]。

白団との関係
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根本は富田直亮元陸軍少将率いる、軍事顧問団「白団」には加わらなかった。

根本は上述の通り、マスコミに名を知られていたため、「台湾募兵問題」のスキャンダルは、根本とその周辺に注目されるようになった。

このことはアメリカとの関係上、白団の存在を内密にしておきたい、中華民国側や白団にとって助かったという。

晩年
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1952年(昭和27年)6月25日、民航空運公司(CAT)機により、日本へ帰国[7]。3年前の密出国については不起訴処分となった。晩年は、鶴川の自宅で過ごしていたが、1966年(41年)5月5日、孫の初節句の後に、体調を崩して入院[8]。同月21日に一度退院するも、24日に急死した[9]。享年74。

没後
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当時より根本の渡台は、台湾でも極秘であり、その後の台湾(中華民国)における政治情勢(国民党政府(=外省人)による台湾統治の正当化)もあって、根本ら日本人の協力は、現地でも忘れ去られていた。また、古寧頭戦役そのものの歴史的意義の認知度も、低かった。

古寧頭戦役60周年式典
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2009年(平成21年)に行われた、古寧頭戦役戦没者慰霊祭[1]に、根本の出国に尽力した、明石元長の息子・明石元紹や、根本の通訳として長年行動を共にし、古寧頭の戦いにも同行した、吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人軍事顧問団の家族が、中華民国(台湾)政府に招待され、中華民国総統・馬英九(当時)と会見した[10]。彼ら日本人の出席が認められたのは、式典の1週間前だった[11]。

また、明石元紹と吉村勝行の帰国の際、中華民国国防部常務次長の黄奕炳中将は、報道陣の前で「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における、日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉を述べた[12]。

根本博中将が居た、張家口の日本人は、幸せであった。精鋭部隊を南方に引き抜かれて、ソ連軍の実情に精通して居なかった、満州の関東軍は、言われるままに、武装解除して、軍民共に、塗炭の苦しみを舐めた。

ガダルカナル海戦に於いて、日本艦隊は、敵戦艦を撃滅したのに、無防備の米輸送船団に、手を出さずに、見逃して、為に、ガダルカナルの米軍基地は、金城鉄壁に成って、陸軍の反攻を簡単に跳ね返した。真珠湾の無防備な石油備蓄基地・造船所・海軍修理工場にも、攻撃を加えず、極めて、礼儀正しく、お行儀良く、国際条約を遵守して、戦っている。

吉田松蔭、1830年9月20日(月)~1859年11月21日(月)
幕末、吉田松蔭は、弱肉強食・植民地争奪の国際情勢に、鑑み、日本は、刻苦精励して、カムチャッカ半島から、樺太・千島・満州・朝鮮・台湾を、占拠・獲得すべしと説いたが、ほぼ、その通りに成った。戦争の天才は、居るものである。ルーズベルト大統領は、戦争の事は、解らなかったが、専門家の勧める、マッカーサー、アイク、ニミッツ、スプルーアンスなどの、戦争の天才を登用した。いつもと違うんだから、戦時には、文句無く、天才を使わなくては、駄目だ。日露戦争の時には、死ぬ気で戦ったから、目の覚める様な、人材登用が行われた。



日本国民は、太平洋戦争は、まだ続いている事を、理解しなければ、行けませんよ。太平洋戦争は、100年戦争だと言われたが、あと30年で日本は、アメリカの属国・植民地の立場を脱して、本来の独立国に戻る。勿論、安保丸投げ・負んぶに抱っこなど、許される訳が無い。平和憲法は、護持したまま、明治憲法を復活して、完全なる軍隊を持つのだ。

平成の30年間は、アメリカとの信義を確立する為への、時間であった。令和の30年間は、平和憲法を護持したまま、明治憲法を復活して、世界の平和に貢献する時間である。平成天皇が、ご退位され、令和天皇が、御即位される事に、神韻を感ずるのは、筆者だけでは、有りません。

海軍が、最高の頭脳を投入して、真剣に戦えば、真珠湾の軍事施設を占領して、2隻の米航空母艦を沈め、
戦艦大和・武蔵を持って、米西海岸・サンディエゴの海軍基地に、艦砲射撃を加えれば、日米講和に持ち込めたろう。
初戦に死ぬ気で戦えば、そう成った。しかし、開明派の海軍上層部は、アメリカに依る、日本の民主化・近代化を選んだ。信頼に足る国は、米英である。日本は、アメリカ文明を取り入れて、民主化・近代化すべきである。

平和、平和、戦争反対と唱えて居れば、正解だと言うのは、古い。中国・韓国・北朝鮮が、対米戦争に踏み切った、今日、日本は、日米英同盟の下に、平和憲法を護持しつつ、明治憲法を復活して、正当な軍隊を持ち、世界平和の為に、責任を果たすべきである。日本の参加無くしては、聡明で良識ある、世界の平和は、絶対に実現しない。立て祖国の子ら、責任無くして改革なし、責任無くして前進無し。責任を大切にしろ。


ベルナドットは、ナポレオンの最大のライバルであり、ナポレオンよりも賢かった。ナポレオンに、無理な戦争をするな。自然の国境、ライン川・大西洋・地中海・.ピレネー山脈・アルプス山脈の内を守って、外へ出るな。平和を享受し、暮らしを楽しみ、人生を楽しめと、忠告したが、精力抜群のナポレオンは、忠告を聞かず、権力を愛して、没落する。ベルナドットは、ドイツの戦場で1000人のスエーデン将士を、捕虜にしたが、これを優遇して無事に、祖国へ帰らせた。スェーデン国内で、ベルナドットの名声は、日々に高まり、スェーデン議会によって、スェーデン王位の継承者に選任される。彼の血統は、今日、ノルウェー王家・デンマーク王家・ベルギー王家・ルクセンブルク大公家・ギリシャ王家にも受け継がれて居る。
ベルナドットは、武装中立を唱え、1815年6月18日(日)のワーテルローの戦い以来、2019年4月30日(火)の今日まで、203年間、戦争をして居ない。これは、1637年12月11日(金)~1638年4月12日(月)の島原の乱~1868年の戊辰戦争まで、日本に続いた230年間の平和に次ぐ物である。スェーデンは、武装中立だが、戦えば強い。核武装の準備も整っている。隣国フィンランドには、10万年の歳月に耐える、核廃棄物の地下貯蔵庫がある。日本も、世界平和に責任を持つなら、日本の核廃棄物の貯蔵を、受け容れて貰える。平和ただ乗りの甘ったれた、状況では、受け容れて貰えない。原子力発電は、準核武装であって、責任ある国家に必須の物である。

戦後、多くの植民地が独立したが、
中国、韓国、北朝鮮と言う、奴隷国家が未だ解放されて、居ません。
彼等は、世界を征服しようとして居るのです。
改革の為の当面の目標は、韓国による日本征服を防ぐ事です。
中韓朝の感覚は、殺戮を繰り返す古代国家の物です。彼等の本質は、馬賊=ギャングなのです。聡明な近代的・民主国家を目指す物では、有りません。
彼等が、軍閥=馬賊=ギャングだと言う事が、分かると、彼等がやって居る事が、理解出来る。無法のギャングに挑まれて居る以上、日本は、武装して正規の軍隊を、持たねば成りません。難しい事は、要りません。
平和憲法を護持したまま、明治憲法を復活すれば、良いのです。

ソ連が、満州・樺太・千島列島に侵入した事。
張作霖の満州馬賊=ギャングが、南満州鉄道を中心とする、整備された投資と技術を置いて、日本人に出て行けと言う、暴力装置。無法地帯の満州の治安維持の為に、1931年9月18日(土)の満州事変は、起こされたのです。
通州事件を筆頭とする、日本を戦争に引き込もうとする、中国軍の暴力装置が、上海事変、支那事変へと、日本を引きずり込んだのです。

通州事件とは、1937年7月29日(木)に、中国の通州において、冀東防共自治政府保安隊が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた。通州虐殺事件とも呼ばれる。 ウィキペディア
三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月22日(水)、北海道留萌沖の海上で樺太からの引揚者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦(Ⅼ-12号・L-19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す[1]。三船遭難事件とも呼ばれる[2][3]。
生き残って漂流する日本人を、ソ連兵は、機関銃で掃射して、皆殺しにしました。これは、戦線を拡大して、北海道を占領する為だったのです。

日本の歴史は、史実の追求だが、彼らの歴史は、政治目的を達成する為の宣伝工作です。
事実とは、関係ないので、歴史の共同研究など、有り得ないのです。
戦略的プロパガンダを騒ぎ立てて、我々が、落ち着いて、じっくり対策を立てる暇を、与えないで、兎に角、認めて呉れれば、それで良いと言うのだが、一度(ひとたび)認めると、認めるなら賠償せよ、責任を取れと問題を拡張させる。
これは、ヤクザのやり方で、彼等の申し出に絶対にイエスと言っては、成らない。
イエスと言うと、際限なく要求を拡大させて、奴隷的状態に突き落とされる。
ヤクザは、店先に、ちょっと椅子を置かせて下さい、と言う。それを切っ掛けに、要求を拡大させて、母屋を取られる事に成る。ヤクザの申し出に対しては、絶対にイエスと言っては、成らない。
全て、ノーで対処しなければ、成らない。
ヤクザだと思ったら、直ぐ警察に通報して、助けて貰わなければ、成らない。
警察沙汰に成るのを、恥だと思っては、成らない。そこが、彼等の付け目だ。
八王子警察生活安全課は、何時でも助けて呉れる。

朝鮮人は、年金に加入せず、一銭も払い込まないのに、年金を受けている。
日本人なら、有り得ない事です。外国人に対する生活保護も、憲法違反で、有っては成らない事です。

一家乗っ取り事件の記事を引用します。
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/11260800/?all=1
尼崎事件・一家を乗っ取り搾取して殲滅する虐待のシステム [殺戮の女帝「角田美代子」暴力担当の供述調書120枚](3)
社会週刊新潮 2015年11月19日号掲載の
 2012年の「尼崎事件」の主謀者・角田(すみだ)美代子(同年暮れに自死・享年64)を右腕として支え、無期懲役の一審判決が下されている「マサ」こと李正則(41)。その供述調書と自供書には、極悪非道の所行が生々しく残されていた。内縁の夫を通じて知り合い、アメとムチの手法でマサを「暴力装置」に仕立て上げた美代子は、マサの親戚に目をつけた――。

「尼崎事件」の人物相関図

 「装置」がフル稼働したのは、美代子ファミリーが03年春、正則の継父の親戚(皆吉姓)にあたる香川県・高松市の谷本家に乗り込んだ時である。

〈(継父は)高松で暮らしている妹の皆吉初代(注・09年6月に死亡、享年59)の家が少し金持ちだという話をしていました。それに目をつけたのか、美代子は「マサがこんな風に悪く育ったのは皆吉家の責任や」と言い出しました〉(13年9月27日付)

 一家の乗っ取りの手順について正則は、13年9月19日に合同捜査本部に宛てて綴った「自供書」の中で、

〈美代子から、やったれよと言われました(怒鳴ったり、暴れたれ)〉

 と、以下のように振り返っている。のちに3体の白骨死体が発見された尼崎市の皆吉家に親族を集め、

〈美代子から私に、チョンチョンと合図が届き、私は立ち上がり、大声で叫び、喰ってかかり、コタツをけったり、つかみかかったりしました。頃合を見て、美代子が止めました。そして、私の事を、もうあんたらが知ってる昔のマサやないんや、今はうちの言う事しか聞かん子になっとんや〉

 などと恐れを抱かせた後、正則は先兵として四国へ上陸したのだった。

〈美代子からは、好き放題して、ぜい沢ざんまいして、とにかく困らしまくって、うちにすぐに助けを求める様にしてこいと言われ、夜、遅くに出発しました〉

■イカ、ウニ、コロッケが好物

 言いつけを忠実に守り、正則は現地で大暴れする。親類をもてなそうと食卓に並んだ料理を前に、

〈やかましい、なれなれしいすんな〉

 そう怒鳴り散らし、スナックや風俗店で散財させる。そのつど美代子とは連絡を取り、ついには、

〈初代がワーワー泣いて助けて下さい、すぐに来て下さいと美代子に何度も何度も頼み込んでました。私が酒を飲んでいると美代子から電話があり、ようやった、1~2日中にそっち行くからその調子でそのままやっとけ、うちの好きな食べ物(イカ、ウニ、コロッケ、高級チョコ、パン)(コーヒー、紅茶)などを揃えとけよと言われました〉

〈そして、美代子が現れると、初代は泣いて美代子にすがっていました〉
親族同士で性行為
 後日、残りのファミリーも乗り込んで、正則の育て方についての「話し合い」が始まった。許可がないとトイレにも行けず、こじれる方向へと美代子が故意に会議を誘導し、夜を徹して口論させる。続いて「足止めされた」と因縁をつけて金銭を要求、毎日10万円ずつ巻き上げていった。家族間の口論はいつしか殴り合いへとエスカレートし、美代子による虐待も始まった。
〈初代と娘のマリコ(注・茉莉子=08年12月に死亡、享年26)が裸にさせられ、来る日も来る日も庭に出されて、夜になるとホースで水をかけ続けられたりもしました〉
 美代子の外出時には、裸のままで押し入れに閉じ込められることもあったという。さらに、親族同士の男女に性行為を強要し、
〈美代子は自分がさしたのにもかかわらず、よー見とりや、人前でこんな事平気で出来るということを。カチク(家畜)や、死んだれと言いました〉
■〈歯を抜けんか〉
 そんな中、03年3月には、初代の父・皆吉ノリさんが虐待の果てに尼崎で命を落とす(享年78)。正則は、美代子に言われるまま遺体を高松まで運び、地中に埋めた。その時、身元を特定されぬよう、こんな指示を受けたという。
〈穴に入れる前、美代子から連絡が入り、ノリさんの歯を抜けんか、顔が見えんようにしてペンチで抜けと言われるが、出来んと答えました〉(以上「自供書」より)
 直後の心情は、次のように記されている。
〈死体の処理をさせられたことで、もう角田美代子からは離れられないと覚悟を決めました〉(12年11月5日付)
 こうして、皆吉・谷本両家は美代子ファミリーに乗っ取られ、全財産を失った。さらに、ターゲットとなった猪俣、橋本、大江各家も同じく破滅へと追いやられ、美代子は少なくとも3億円程度を手にしたとみられている。
「特集 尼崎の大量殺害事件発覚から3年! 殺戮の女帝『角田美代子』暴力担当の供述調書120枚!

年金を払い込まず、受給資格が無いのに、市役所に乗り込んで、騒ぎ立て、無償で年金を受けている事件が有るのだが、今、出て来ない。

1950年6月25日(日)、北朝鮮軍が、36度線を越えて、南下して来た時、李承晩の韓国軍は、九州を占領しようとして、釜山に集結して居たのです。
当時の日本には、軍隊が無く、米進駐軍の方針で、朝鮮人の無法に、日本警察は、手が出せなかったのです。
朝鮮人に、日本人が、撲殺されるのは、日常茶飯事で、駅前の持ち主の分からない、一等地は、みんな朝鮮人の物に、成りました。

日本人は、洗脳されて、平和、平和、戦争反対と唱えていれば、正解だと想って居ますが、それは、もう古い。
戦うべき時に、戦わない国は、滅びます。
平和憲法は、護持したまま、明治憲法を復活させるのが、正解です。

平和憲法は、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、9条を護持するので有って日本を征服する者に対しては、
直ちに、明治憲法を復活して、対処しなければ、成りません。
スターリンは、日本が、憲法9条なら、ソ連は、武力を行使しないと、言いました。
中国、韓国、北朝鮮は、日本は、9条に縛られるから、俺たちは、何をしても良いと、言う。
これは、人間では、有りません。

まず、核武装が必要です。米軍の核持ち込みを、認める。
辺野古基地は、中止して、尖閣諸島に巨大基地を建設する。
アメリカが、許す範囲内で軍拡を進める。
教育勅語を復活する。これは、世界が認める最高の理念です。
軍歌の奨励。日本には、優れた文化があります。

戦争する覚悟がなければ、拉致被害者は、返って来ません。

日本経済の再建には、消費税の撤廃が、第一です。
まず、5%に下げるべきです。生産力が余っている今日、そして、益々、生産力が向上して行く将来、
政府紙幣を発行して、税収に代える時代が、到来して居るのです。
適切な税制が施行され、従来と全く違う税制に代わる時代が、来ています。

1948年8月15日(日)、
韓国は、アメリカの庇護の下に、出来た国ですが、常に日米を裏切って来ました。日米の善意を受け容れない国です。在韓アメリカ軍は、韓国から、追い出される訳ですが、その組織は、尖閣基地と台湾に移されて、
空海からの北朝鮮核施設の無力化が、実行されます。それは、直ちに北朝鮮の反撃を生み、ソウルは、壊滅します。第二次朝鮮戦争は、韓国•北朝鮮両国を荒廃させ、再び両国が復興される事は無く、平和の為の緩衝地帯としての役割を担う事に成ります。

中国は、50の委任統治領に分けられて、日米英によって統治されます。元々、中国・韓国・北朝鮮には、統治能力が無いのです。

1979年、ジャパン、アズ、ナンバーワンと、言われ、
1990年、バブル崩壊へと、進む訳ですが、戦後の復興・日本経済の黄金期も、アメリカの政策に拠って、齎された物で、その後の失われた30年間は、アメリカとの信頼関係を、取り戻す為の物でした。
中国・韓国・北朝鮮の経済は、アメリカの政策によって、齎された物であり、アメリカの政策によって、簡単に崩壊します。アメリカは、世界政府です。

韓国の地政学的に置かれた環境は、極めて深刻です。大陸国家と海洋国家の緩衝地帯と、成るべき運命にあるのが、韓国です。従って、中立的平和国家で、無ければ成らないのは、韓国です。
平和を愛好するの諸外国の公正と信義に信頼して、安全と生存を保持すべきなのは、韓国です。
その韓国が、日本征服を志向するのは、滅亡の道と言う以外に、有りません。
北朝鮮・韓国は、平和を愛好する諸外国の公正と信義に信頼して、安全と生存を保持すべきなのです。

2019年4月26日(金)
6502・東芝の半導体技術を、外国に渡しては、成らない。
半導体技術は、軍事技術の根幹です。
アメリカの信頼の下に、日本の軍事的存在力を、確立する事こそ、世界平和の根幹です。
日本の良心的軍事力が無ければ、世界の平和は成り立ちません。
世界は、日本の軍事力を切望しているのです。日本人は、この要望に応えねば成りません。

1941年12月8日(月)、
止む無く開戦に踏み切って、1945年8月15日(水)に敗れた日本では、有りますが、図らずも世界から植民地を無くすと言う、結果を齎しました。日本の苦難の陰で、恩恵を受けた人々もあるのです。現在まだ、植民地・奴隷政策をやって居るのは、
中国・ロシア・北朝鮮・韓国です。
日本は、占領地で、教育・産業の育成・軍事教練を行なった。現地の人々を人間として扱い、自立の道を授けた。

2018年12月20日(木)15:00、
韓国海軍が、海上自衛隊のP-1哨戒機に対して火器管制レーダー(射撃管制用レーダー)を照射した事は、日本に
対する宣戦布告です。

2018年4月25日(木)、
ウラジオストックで、プーチンと金正恩の会談が行われたが、ロシアも戦争に巻き込まれるのは、避けた。
中国も避けている。韓国だけが、日本征服に燃えている。この不当な要求に、アメリカも憤怒している。
2018年10月、
安倍晋三首相が、3兆円の日中スワップ協定を、結んだのですが、
米中経済戦争の時に、アメリカの逆鱗に触れる、可能性がある。非常に危険な事です。
中国に、口先で花を持たせるのは、良いが、実利を与えてはいけない。

1945年の終戦から、進駐軍に依る、自虐史観が薦められ、反論を許されず、正当を主張する書物は焼かれ、
日本弱体化が進められた。

2016年、トランプ大統領の実現に依って、日本再生の道が開かれた。

韓国は、虚偽のヘイトスピーチ(憎悪表現)を、止めよ。

韓国が、大暴れしている。韓国、中国、北朝鮮は、勝つ事が目的であって、その為には、何をしても良いと言う思想だ。
韓国に関わって、戦争に巻き込まれると、当事者の韓国は、逃げて戦わない。
663年10月の白村江の戦いでも、百済の兵は、死ぬ気で戦わずに、逃げて仕舞ったから、日本軍は、大敗した。


世界を旅するシャンパンブレイク、から、引用
盗人猛々しい
19/02/19
盗人猛々しいとは『盗人』と『猛々しい』から成る合成語で盗みや悪事をしながら平然としていたり、それを咎め(とがめ)られると開き直ったりする者を罵る、江戸時代から使われた言葉です。

「慰安婦問題の解決には天皇の謝罪が必要」と米国メディアに語った韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長は、自身の発言に反発する日本に対し「謝罪する側が謝罪せず、私に謝罪しろとは何事か。盗っ人たけだけしい」などと批判しました。

また、文氏を批判している河野太郎外相については「父親とはまったく違う。理解しがたい」と酷評。
日本政府がいわゆる徴用工訴訟をめぐって対抗措置を検討していることを「子供のいたずらのような話」と批判しました。

まだ韓国を相手にしているのでしょうか、無視したほうがいいと思います。
韓国を相手にして今まで良かった事なんて、ただの一度も無いのにと思います。

ところでますます異常反応を示す韓国という国ですが、皆さんは国民の税金がこんなところへ消えて行ってしまったことを、ご存じでしょうか。


日本から韓国へのODA(政府発表)
※「援助内容」「年月日」「援助金額」の順

韓国鉄道設備改良事業 1966年6月8日 39.6億円
韓国漢江鉄橋復旧事業 1966年6月17日 3.6億円
韓国建設機械改良事業 1966年7月20日 23.4億円
韓国水利干拓および浚渫事業 1966年7月20日 11.88億円
韓国海運振興事業 1966年7月27日 32.43億円
韓国中小企業および機械工業育成事業 1966年7月27日 54.0億円
韓国鉄道設備改良事業 1967年 3月23日 33.65億円
韓国輸送および荷役機械改良事業 1967年6月27日 9.35億円
韓国光州市上水道事業 1967年7月11日 6.05億円
韓国市外電話拡張事業 1967年7月11日 3.60億円
韓国大田市上水道事業 1967年7月11日 5.90億円
韓国産業機械工場拡張事業 1967年7月31日 10.80億円
韓国昭陽江ダム建設事業 1967年8月07日 3.96億円
韓国中小企業および機械工業育成事業 1967年8月7日 26.69億円
韓国高速道路建設事業 1968年6月26日 10.80億円
韓国市外電話拡張事業 1968年10月30日 6.48億円
韓国昭陽江ダム建設事業 1968年12月28日 46.98億円
韓国高速道路建設事業 1969年4月14日 18.00億円
韓国農水産振興事業 1969年6月19日 8.92億円
韓国嶺東火力発電所建設事業 1969年9月1日 6.41億円
韓国清州市上水道事業 1969年12月4日 3.24億円
韓国南海橋建設事業 1969年12月4日 7.88億円
韓国昭陽江ダム建設事業 1970年2月4日27.01億円
韓国市外電話拡張事業 1979年6月25日 5.17億円
韓国総合製鉄事業 1971年7月16日 28.80億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国ソウル地下鉄建設および国鉄電化事業 1972年4月10日 272.40億円
韓国総合製鉄事業 1972年5月1日 107.49億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国商品借款商品借款等 1972年9月18日77.00億円 大韓民国政府
韓国総合製鉄事業 1973年1月16日 10.87億円 浦項綜合製鉄(株)
韓国通信施設拡張事業 1973年4月23日 62.00億円
韓国漢江流域洪水予警報施設事業 1973年7月20日 4.62億円
韓国商品借款 1974年05月13日 77.00億円 大韓民国政府
韓国浦項総合製鉄所拡充事業 1974年5月22日 127.88億円
韓国大清多目的ダム建設事業 1974年12月26日 118.80億円
韓国農業総合開発事業 1974年12月26日 194.40億円
韓国浦項総合製鉄所拡充事業 1975年7月30日 2.25億円
韓国北坪港建設事業 1976年3月31日 124.20億円
韓国忠北線復線化事業 1976年11月26日 43.00億円
韓国通信施設拡張事業 1976年11月26日 66.00億円
韓国農業振興計画 1977年6月10日 126.00億円
韓国超高圧送電線建設事業 1977年11月28日 40.00億円
韓国忠B多目的ダム建設事業 1978年1月20日 140.00億円
韓国農業振興計画 1978年1月31日 60.00億円
韓国医療施設拡充事業 1978年12月25日 70.00億円
韓国農業総合開発事業 1978年12月25日 140.00億円 韓国電力(株)
韓国教育施設拡充事業 1980年1月18日 100.00億円
韓国国公立医療及び保健研究機関近代化事業 1980年1月18日 40.00億円
韓国都市下水処理施設建設事業 1980年1月18日 50.00億円 建設部,大邱市,大田市,全州市
韓国教育施設(基礎科学分野)拡充事業 1981年2月27日 60.00億円
韓国民間地域病院医療装備拡充事業 1981年2月27日 60.00億円
韓国医療装備拡充事業(ソウル大学小児病院)1983年10月11日54.00億円
韓国下水処理場建設事業(ソウル炭川)1983年10月11日115.00億円
韓国地方上水道拡張事業(釜山,ソウル,晋州)1983年10月11日78.00億円
韓国陜川多目的ダム建設事業 1983年10月11日 204.00億円
韓国ソウル上水道施設近代化事業 1984年8月8日 29.00億円
韓国下水処理場建設事業(ソウル中浪)1984年8月8日 167.00億円
韓国下水処理場建設事業(釜山)1984年8月8日 63.00億円
韓国気象関連設備近代化事業 1984年8月8日 42.00億円
韓国国立保健院安全性研究センター事業 1984年8月8日 24.00億円
韓国住岩多目的ダム建設事業 1984年8月8日111.00億円
韓国大田市上水道拡張事業社会的サービス 1984年8月8日 22.00億円
韓国都市廃棄物処理施設建設事業 1984年8月8日 4.00億円大邱市、城南市
韓国農業水産試験研究設備近代化事業 1984年8月8日 33.00億円
韓国医療施設拡充事業1985年12月20日 123.00億円
韓国下水処理場建設事業(釜山長林)1985年12月20日 92.60億円
韓国下水処理場建設事業(光州)1985年12月20日 75.60億円
韓国下水処理場建設事業(春川)1985年12月20日 32.80億円
韓国化学研究用・計量標準研究用資機材補強事業 1985年12月20日 27.00億円
韓国教育施設拡充事業 1985年12月20日 152.00億円
韓国総合海洋調査船建造事業 1985年12月20日 41.00億円 
韓国教育施設拡充事業 1987年8月18日 129.11億円 文教部,国立科学館
韓国中小企業近代化事業 1987年8月18日 77.50億円
韓国農業機械化事業1987年8月18日 77.50億円 全国農業協同組合中央会
韓国廃棄物処理施設建設事業 1987年8月18日 53.72億円 大邱市、城南市
韓国酪農施設改善事業 1987年8月18日 38.75億円 ソウル牛乳協同組合
韓国臨河多目的ダム建設事業 1987年8月18日 69.75億円
韓国蔚山市都市開発事業(鉄道部門)1988年6月22日44.40億円
韓国栄山江3-1地区防潮堤事業 1988年6月22日 44.40億円
韓国下水処理場建設事業(済州・清州)1988年6月22年 41.59億円
韓国教育施設拡充事業 1988年6月22年 5920億円
韓国研究所施設拡充事業 1988年6月22日 26.79億円 韓国遺伝工学,機械,電子通信,化学研究所
韓国私立大付属病院施設拡充事業 1988年6月22日 26.79億円 梨ヤ女子大学,中央大学,漢陽大学,高麗大学,東亜大学
韓国大田上水道拡張事業 1989年8月22日 14.34億円
韓国中小企業近代化事業 1989年8月22日 62.00億円 国民銀行
韓国ソウル地下鉄建設事業 1990年10月31日 720.00億円
韓国医療装備拡充事業(ソウル大学校病院)1990年10月31日 43.20億円
韓国水産・商船学校練習船装備拡充事業 1990年10月31日 21.60億円
韓国中小企業近代化事業 1990年10月31日 115.20億円
韓国肉加工施設拡充事業 1990年10月31日 17.28億円 畜産業協同組合中央会
韓国配合飼料工場建設事業 1990年10月31日 54.14億円 畜産業協同組合中央会
韓国酪農施設改善事業 1990年10月31日 24.48億円 畜産業協同組合中央会
※1965年の日韓基本条約にて日本から韓国へ支払った5億ドルは除く
98年までの韓国へのODA実績累計
贈与無償資金協力累計 233.84億円
技術協力 913.72億円
政府貸与支出総額 3,601.54億円


韓国に支援した金額
2016-02-28 19:06:50
テーマ:韓国 朝鮮 関連

日本が韓国に施した援助の数々
★日本が韓国に支援した金額★



日韓基本条約締結 
3億ドル無償協力 (1965年) 
2億ドル、有償協力 (1965年) 
3億ドル以上民間借款 (1965年) 
※当時の韓国の国家予算は3.5億ドル程度 

当時の日本は復興の中で貧しい人々でしたが、 
この巨額の補償金を韓国政府に支払いました。 
しかし、日本が個人補償をしたにも関わらず、 
韓国政府は、それを国民に隠しました。 
韓国政府は国民に、お金を渡してくれませんでした。 
韓国政府は、補償金を経済発展に使用しました。 

そしてさらに 

日本からの技術提供
日本企業から、韓国企業への技術提供の内容

松下電器産業アナム電気カラーTV、オーディオ製品に関する技術 
日本ビクター金星社VHS方式VTRの特許及び製造技術 
日本ビクター、サムスン電子VHS方式VTRの特許及び製造技術 
東芝韓国電子TV、オーディオ用バイポーラICの設計、 
製造に関する技術及び量子技術者の受け入れ派遣 
シャープ、サムスン半導体IC製造技術 
久保田鉄工、強酸工業排水処理技術を、盗難される。更に、中・大型バルブの製造技術 
日立定期飢餓孔NC工作機の製造技術 
小林コセイジャリア化粧品の製造技術 
ヤンマサンヨンジュンゴンオプジュン、大型船舶用ディーゼルエンジンに関する技術 
東芝金星通信Xソンジンダン装置、超音波診断装置に関する技術 
キャノンロッテ産業高性能乾式複写機に関する技術 
ソニー現代電子VTRの製造技術 
日立造船韓国重工業船舶用エンジン製造に関する技術 
日本精糖、製糖工場の自動化に関する技術

日本政府の援助 
http://www.jbic.go.jp/japanese/ 
"内容"      "年月日"      "援助額"
韓国鉄道施設改良事業  1966-06-08   39.6億円 
韓国漢江鉄橋復旧事業  1966-06-17   3.6億円 
韓国建設機械改良事業  1966-07-20   23.4億円 
韓国の修理干拓及び浚渫事業  1966-07-20   11.88億円 
韓国海運振興事業  1966-07-27   32.43億円 
韓国中小企業および機械工業育成事業  1966-07-27   54.0億円 
韓国鉄道設備改良事業(2)  1967-03-23 ​​  33.65億円 
韓国輸送および荷役機械改良事業  1967-06-27   9.35億円 
韓国光州市水道事業  1967-07-11   6.05億円 
韓国市外電話拡張事業  1967-07-11   3.60億円 
韓国大田市上水道事業  1967-07-11   5.90億円 
韓国産業機械工場拡張事業  1967-07-31   10.80億円 
韓国昭陽江ダム建設事業  1967-08-07  3.96億円 
韓国の中小ニューギニアと機械工業育成事業  1967-08-07   26.69億円 

韓国の高速道路建設事業  1968-06-26   10.80億円 
韓国市外ジョンファファク"事業  1968-10-30   6.48億円 
韓国昭陽江ダム建設事業  1968-12-28   46.98億円 
韓国の高速道路ゴンソルイルニ  1969-04-14   18.00億円 
韓国農水産物振興事業  1969-06-19   8.92億円 
韓国永同火力発電所建設事業  1969-09-01   6.41億円 
韓国清州市上水道事業  1969-12-04   3.24億円 
韓国南海橋建設事業  1969-12-04   7.88億円 
韓国昭陽江ダム建設事業  1970-02-04   27.01億円 
韓国市外電話拡張事業  1970-06-25   5.17億円 
韓国総合製鉄事業  1971-07-16   28.80億円 
浦項総合製鉄(株)韓国ソウル地下鉄建設
および国鉄電化事業  1972-04-10   272.40億円 
韓国総合製鉄事業  1972-05-01   107.49億円 
ポジョンハプ製鉄(株)韓国商品借款商品次官等  1972-09-18   77.00億円 
大韓民国政府系の韓国総合製鉄事業·  1973-01-16   10.87億円 
浦項総合製鉄(株)韓国通信施設拡張事業  1973-04-23   62.00億円 
韓国漢江(ハンガン)流域の洪水例警報設備事業  1973-07-20   4.62億円 
韓国商品借款  1974-05-13   77.00億円 
韓国政府韓国浦項総合製鉄所拡充事業  1974-05-22   127.88億円 
韓国大清多目的ダム建設事業  1974-12-26   118.80億円 
韓国農業総合開発事業·  1974-12-26   194.40億円 
韓国浦項総合製鉄所拡充事業  1975-07-30   2.25億円 
韓国北坪港小さビジネス  1976-03-31   124.20億円 
韓国忠北船腹線画事業  1976-11-26   43.00億円 
韓国通信施設拡張事業  1976-11-26   66.00億円 
韓国農業振興計画  1977-06-10   126.00億円 
韓国超高圧送電線建設事業  1977-11-28   40.00億円 
韓国忠州多目的ダム建設事業  1978-01-20   140.00億円 
韓国農業振興計画·  1978-01-31   60.00億円 
韓国の医療施設の拡充事業  1978-12-25   70.00億円 
韓国農業総合開発事業·  1978-12-25   140.00億円 
韓国電力(株)韓国教育施設拡充事業  1980-01-18   100.00億円 
韓国国公立医療及び保健研究機関近代化事業  1980-01-18   40.00億円 
韓国都市下水処理施設建設事業·  1980-01-18   50.00億円 
建設省、大邱市、大田市、全州市韓国教育施設
(基礎科学分野)拡充事業  1981-02-27   60.00億円 
韓国民の間、地元の病院の医療機器の拡充事業  1981-02-27   130.00億円 
韓国の医療機器の拡充事業(ソウル大学小児病院)·  1983-10-11   54.00億円 
韓国下水処理場建設事業(ソウルタンガン)  1983-10-11   115.00億円 
韓国地方上水道拡張事業(釜山、ソウル、晋州)·  1983-10-11   78.00億円 
韓国陜川多目的ダム建設事業  1983-10-11   204.00億円 
韓国ソウル上水道施設近代化事業  1984-08-08   29.00億円 
韓国下水処理場建設事業(ソウルアンラン)  1984-08-08   167.00億円 
韓国下水処理場建設事業(釜山)  1984-08-08   63.00億円 
韓国気象関連設備近代化事業  1984-08-08   42.00億円 
韓国国立保健院安全性研究センター事業  1984-08-08   24.00億円 
韓国ジュアム多目的ダム建設事業  1984-08-08   111.00億円 
韓国大田市上水道拡張事業社会的サービス  1984-08-08   22.00億円 
韓国都市廃棄物処理施設建設事業·  1984-08-08   4.00億円 
大邱市、城南市韓国農業水産試験研究設備近代化事業  1984-08-08   33.00億円 
韓国の医療施設の拡充事業  1985-12-20   123.00億円 
韓国下水処理場建設事業(ブサンジャンスプ)  1985-12-20   92.60億円 
韓国下水処理場建設事業(光州)  1985-12-20   75.60億円 
韓国下水処理場建設事業(春川)  1985-12-20   32.80億円 
韓国史学研器具用·計量標準研究用窓補強事業·  1985-12-20   27.00億円 
韓国教育施設拡充事業  1985-12-20   152.00億円 
韓国総合海洋調査船建造事業  1985-12-20   41.00億円 
韓国教育施設拡充事業  1987-08-18   129.11億円 
文部、国立科学館韓国中小企業近代化事業  1987-08-18   77.50億円 
ハングクノンニ機械化事業  1987-08-18   77.50億円 
全国農業協同組合中央会韓国廃棄物処理施設建設事業·  1987-08-18   53.72億円 
大邱市、城南市韓国酪農施設改善事業  1987-08-18   38.75億円 
ソウル牛乳協組合韓国林し多目的ダム建設事業·  1987-08-18   69.75億円 
韓国蔚山市都市開発事業(鉄道部門)  1988-06-22   44.40億円 
韓国栄山江31地区防潮堤事業  1988-06-22   44.40億円 
韓国下水処理場建設事業(済州·清州)  1988-06-22   41.59億円 
韓国教育施設拡充事業  1988-06-22   5920億円 
リグク研究所施設拡充事業·  1988-06-22   26.79億円 
韓国遺伝工学、機械、電子通信、化学研韓国私立大付属病院
施設拡充事業  1988-06-22   56.24億円 
ベヤ女子大学、中央大学、漢陽大学、高麗大学、
ドア大学韓国大田上水道拡張事業·      1989-08-22   14.34億円
韓国中小企業近代化事業  1989-08-22   62.00億円 
国民銀行韓国ソウル地下鉄建設事業  1990-10-31   720.00億円 
韓国の医療機器の拡充事業(ソウル大学校病院)  1990-10-31   43.20億円 
韓国水産·商船学校の練習議長非拡充事業  1990-10-31   21.60億円 
韓国中小企業近代化事業  1990-10-31   115.20億円 
ハングクユク加工施設の拡充事業  1990-10-31  17.28億円 
畜産業協同組合中央会韓国配合飼料工場建設事業·  1990-10-31   54.14億円 
畜産業協同組合中央会韓国酪農施設改善事業  1990-10-31   24.48億円

日本がこれだけ莫大な補償金の支払い、援助金の提供、 
高度な技術の提供をしたにもかかわらず、 
韓国政府は、この仕事を国民に隠してきました。 

その上で、日本は朝鮮半島に 現在の価格で、 
約17兆円の資産を残しました。 
(当時の韓国の国家予算の10年分以上) 

5000校を超える近代教育機関·発電所· 
上下水道·公園·病院·ダム·警察署· 道路·鉄道......等々の、
韓半島に残してきた資産や債権を
全て与える"、·破格"で提供をしました。 
これは、世界でも例のないすばらしいことです。 
例えば、ギニアがフランスから独立したときは、 
フランスは測量地図の一枚ですら、ギニアに残しません。 
それが普通の植民地支配です。 

それと上に書いた報酬援助金と一緒に重要なのは、
高度な技術の提供と技術人材の育成です。 

高度な技術の提供などは、金額では表すことができません。 
高度な技術の提供と技術人材の育成がなければ、
韓国の発展は、50年は遅れたのでしょう。 

これら、韓国に提供したすべてを合わせると、
莫大な金額になります。 

これ以上ともいえるほどの、
お金と設備と技術の恩恵を受けて、
それでもまだ賠償が足りないとすれば、
韓国は乞食国家だと言われても仕方がありません。 


漢江(ハンガン)の奇跡? 

これだけ莫大な援助を受ければ、
どんな未開の国でも近代化されます。 
それだけではなく、普通の国なら、
すでに先進国になっています。 


ソース
http://gall.dcinside.com/list.php?id=news_new&no=1516338 



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もう、日本は、韓国に対して経済援助を やめるべきだ。

竹島の不法占拠から返還するまで
今後一切の 経済援助、技術援助を 打ち切るべきだ。

捏造慰安婦問題、 捏造強制連行問題を 謝罪し
プロパガンダを 撤去するまでは、一切の経済援助と技術支援を
打ち切るべきだ。

やつらに、わからせなければいけない。

そもそもやつらは、感謝すらしない。
逆に、日本は過去、韓国に酷い事をしたんだから
そういう援助をするのは、当たり前の事だ。
まだ 足りないくらいにしか 思っていない。

どうぞみなさん、
自由に コピペ して 拡散して下さい。
なう などでの拡散よりも、
実際に コピーして
あなたのブログで、拡散して下さい。

1人でも多くの、日本人に
この事実を知らせていきましょう 
またねん  
ギラ
ペタしてね 

2019年4月30日(火)
平成が終り、5月1日(水)から、令和が始まろうとする今、日本と日本人が、正当に評価される事態が、実現している。朝鮮戦争に失望し、日本の立場に理解を示した、マッカーサー元帥の議会演説を、引用する。

10・
連邦議会での離任演説(1951 年)
 ダグラス・マッカーサー
朝鮮戦争の処理を巡り、マッカーサー連合国軍最高司令 官とは幾度となく激論が交わされていた(マッカーサーは 中国を直接引き入れ、蒋介石を支援に取り込むことを望ん だ)のでトルーマンによるマッカーサーの解任は予想外の ことではなかったが、衝撃を和らげることはなかった。知 らせは不幸な形でマッカーサーのもとに届いた。辞任に よって先を越されることを恐れ、トルーマンは公式通知が マッカーサーに届く前に決定を公表した。トルーマンは通 常の軍の経路で通知することを望まなかったため、韓国を 通じた迂回路を使わざるを得ず、そのため送達が遅れたか らだ。
1951 年 4 月 11 日(水)、午後 3 時、マッカーサーはノース ウェスト航空の社長ウイリアム・スターンズと上院議員 ウォーレン・マグナソンとの会食を終えようとしていた。
シッド・ハフは午後 3 時のニュースで知らせを聞き、マッカーサー夫人に電話で連絡した。丁度その時、 ハフはオマール・ブラッドリーから直接公電も受け取り、それを持って居宅に向かったが、そこにはもう すでに記者たちが群がっていた。電報を読むと、マッカーサーは素っ気無く言った。「ジーニー、やっと帰 れるぞ」
5 日後、午前6時半、マッカーサーは自宅を出て羽田空港に向かった。およそ 25万人の人々が、空港に
続く 12 マイルの道に 10 列もの列を作っていた。1 時間後、「バターン」と改称された―以前は SCAP と呼 ばれていた―飛行機に乗り、マッカーサーはハワイ、サンフランシスコに向けて飛び立った。
1951 年 4 月 19 日(木)、ワシントン DC の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演 説を行った。
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 上院議長閣下、下院議長閣下、ならびに連邦議会議員の皆様
私は深い謙虚さと大きな誇りを感じつつ、この演壇に立っています。これまでに、ここに立った米国の 歴史の偉大な構築者たちのことを思えば、謙虚にならざるを得ません。立法府の議論が行われるこの場所 が、これまでで最も純粋な形で人間の自由を体現していることを思えば、誇りを覚えざるを得ません。こ こには全人類の期待と願望と信義が凝縮しています。私はいかなる党派的な大義の唱道者としても、
ここに立ってはいません。なぜなら、争点となっているのは根本的な問題であり、党派的な考慮の範囲を大き く超えるものであるからです。我々の進む道が健全であることを証明し、我々の未来を守ろうとするなら、 これらの問題は最高水準の国益に基づいて解決されなければなりません。従って、私がここに述べること は、同じ一米国国民が熟慮した見解を表明しているものと、皆様が正当に受け止めてくださることを確信 しています。
人生のたそがれ時にここで演説するにあたり、私には何の遺恨も苦渋もありません。心にあるのは、た だ 1 つ、国のために尽くすという目的だけです。諸課題は世界的な規模に広がり、あまりにも深く絡み 合っているため、ほかの側面を気にも止めずに 1 つの側面だけを検討することは、全体の破綻を招くこと でしかありません。アジアは一般的に欧州への玄関口と呼ばれていますが、それに劣らず欧州がアジアへ の玄関口であることもまた事実です。一方の広範な影響が他方に及ばないことはあり得ません。わが国の 軍事力は、この 2 つの前線を守るには不適切であり、我々の努力を分割することはできない、と言う人が います。これは敗北主義の表明の最たるものです。もし仮想敵国がその軍事力を 2 つの前線に分けること ができるのなら、それを迎え撃てばいいのです。共産主義の脅威は地球規模のものです。共産主義が一つ の地域で進出に成功すれば、他のすべての地域が破壊される恐れがあります。アジアで共産主義に譲歩、 あるいは降伏することは、同時に欧州においてその進出を阻む我々の努力を無駄にすることになります。
こうした一般的な道理を指摘した上で、アジア全般のことに限って論じたいと思います。いま存在して いる状況を客観的に評価するには、その前に、アジアの過去と、現在までに際立ってきた革命的な変化に ついて、多少なりとも理解しておかなければなりません。アジア諸国の国民は、いわゆる植民地勢力から 長い間搾取されてきており、フィリピンにおけるわが崇高な米国統治が指針としてきた社会正義や個人の 尊厳、生活水準の改善などを、達成する機会をほとんど与えられてきませんでした。そしてようやく、先 の戦争に植民地主義の足かせから解放される機会を見出しました。今、新たな機会の到来と、これまで感 じることのなかった尊厳と、政治的自由に根ざす自尊心を目の当たりにしているわけです。
地球の人口の半分と、天然資源の 60 パーセントが集まったこの地域で、アジアの人々は物心両面で新た な力を急速に結集させており、これを用いて生活水準を向上させ、近代化の構想を確立し、自らの独特の 文化的環境に適合させようとしています。植民地化の概念に執着する人がいようといまいと、これがアジ アの進む方向であり、この動きを止めることはできません。これは世界経済の辺境が移動することの当然 の帰結であり、世界情勢の全体的な中心は、巡り巡って、それが始まった地域に戻るものなのです。
このような状況において、わが国としては、植民地時代がすでに過去のものになった以上、アジア諸国 の国民が自力で自由な運命を形作る権利を切望しているという事実に目を背ける路線を取るのではなく、 こうした基本的な進化の状況に共鳴するように、自国の政策を合わせていくことが死活的に重要になりま す。彼らが今求めているのは、友好的な指導、理解、支援であり、尊大な指図ではありません。尊厳ある 対等であり、隷属という恥辱ではないのです。彼らの戦前の生活水準は哀れなほど低いものでしたが、戦 争が終わった今、戦争の残した惨禍で、生活水準は果てしなく悪化しています。世界中のさまざまなイデ オロギーはアジア人の思考にほとんど影響を及ぼしていませんし、理解もされていません。アジアの人々 が求めているのは、少しだけ多くの食糧を胃袋に入れること、少しだけまともな衣服を身に着けること、 少しだけ頑丈な屋根の下で寝起きすること、そして政治的自由を求める正常な民族的欲求を実現する機会
114

を得ることなのです。このような政治的・社会的状況は、わが国の安全保障にとって間接的な意味しかあ りませんが、それは目下の計画の背景をなすものであり、我々が非現実主義の落とし穴を回避しようとす るなら、それを慎重に検討しなければなりません。
わが国の安全保障により直接的な意味を持つのは、先の戦争中に起きた、太平洋の戦略的潜在能力の変 化です。それまでは、米国の西方の戦略的国境は、文字通り、南北アメリカ大陸の境界線であり、危険に さらされた戦線の突出部として、ハワイ、ミッドウェー、グアムを経てフィリピンまでつながる島々があ りました。この戦線の突出部は、わが国の強力な前哨地ではなく、敵がここを通って攻撃することができ る、そして実際に攻撃してきた、わが国の弱さを示す道であることが分かりました。
太平洋は、隣接する陸地を攻撃する意図を持った略奪軍にとって、潜在的な進攻地域でした。この状況 は、我々の太平洋での勝利で一変しました。そして、わが軍の戦略的辺境は移動して太平洋全域を取り囲 み、保持する限りわが国を守る広大な濠(ほり)となりました。実際それは、アメリカ大陸全体と太平洋 地域にあるすべての自由な土地にとっては、防御用の盾の役割を果たしています。わが国と自由な同盟諸 国が所有する、アリューシャン列島からマリアナ諸島までアーチ状に延びる一連の島々によって、我々は アジアの海岸までの太平洋地域を支配しています。この一連の島々から我々は、海軍力と空軍力によって、 ウラジオストクからシンガポールに至るすべてのアジアの港を支配し―繰り返しますが、海軍力と空軍力 によって、ウラジオストクからシンガポールまでのすべての港を支配し―太平洋に敵対的な動きが入り込 むのを阻止することができます。
アジアからの略奪的な攻撃は上陸作戦になるに違いありません。進路上にあるシーレーンとその上空を 統制下に置かずに、上陸攻撃を成功させることはできません。我々が海軍力と空軍力の優位と、基地を守 るある程度の陸軍部隊を擁していれば、アジア大陸からわが国への、あるいは太平洋の友邦への大規模な 攻撃は、すべて失敗に終わるでしょう。
こうした状況下では、太平洋はもはや、潜在的な侵略者が近づく危険な通り道にはなりません。逆に、 穏やかな湖の親しげな様相を帯びています。わが国の防衛線は自然のものであり、最低限の軍事的努力と 軍事費で維持することができます。それは、いかなる相手に対する攻撃も想定しておらず、進攻作戦に不 可欠な要塞も備えていませんが、適切に維持すれば、侵略に対する無敵の防御手段となるでしょう。この 文字通りの防衛線を西太平洋に維持することができるかどうかは、そのすべての部分を維持できるかどう かにかかっています。非友好的な力によってこの防衛線が一部でも大きく破られれば、ほかのあらゆる主 要部分が決定的な攻撃を受けることになるでしょう。
私の知る限り、この軍事的評価に対しては、いまだにいかなる軍の指導者も異議を唱えたことがありま せん。だからこそ私はこれまで、軍事的な緊急事として、いかなることがあろうとも台湾を共産主義者の 支配下においてはならない、と強く勧告してきたのです。もしそうした事態になれば、直ちにフィリピン の自由が脅威にさらされ、日本を失い、我々の西方の最前線はカリフォルニア、オレゴン、ワシントン各 州の沿岸部まで後退を余儀なくさせられるでしょう。
いま中国大陸で見られる変化を理解するためには、過去 50 年間にわたる中国人の気質と文化の変化を理
    115
解しなければなりません。50 年前までの中国は、全く均質性を持たず、互いに意見が対立するいくつかの グループに分かれていました。彼らは儒教の理想である平和主義的文化の教えに従っていたため、戦争を
起こすような性向はほとんどみられませんでした。ところが 20 世紀の初め、張作霖政権下で均質性を高め る努力が行われた結果、民族主義的な衝動が生まれました。蒋介石の指導のもと、この衝動をさらに大き く広げることに成功しましたが、それが現政権下で見事に結実し、いまでは、より支配的で攻撃的な性向 を持つ統一した民族主義の性格を帯びるという事態に至っています。
こうして過去 50 年の間に、中国人は軍国主義的な概念と理想を持つようになりました。彼らは現在、有 能な参謀と指揮官を持つ、優秀な兵士になっています。これによって、アジアに新たな強大な勢力が生み 出されました。この勢力は、独自の目的のためにソ連と同盟を結んでいますが、思想と手段の面では帝国 主義的な好戦性を高めており、この種の帝国主義につき物の、領土拡張と力の増大を渇望しています。
中国人の気質には、いかなるものであれ、イデオロギー的な概念はほとんどありません。生活水準があ まりにも低く、戦争によって資本の蓄積があまりにも完全に消失させられてしまったため、大衆は絶望し ており、地方の窮乏を多少なりとも軽減してくれそうな指導者であれば、誰にでも喜んで従おうとしてい ます。
私は最初から、中国共産党による北朝鮮支援は決定的なものだと考えていました。今のところ、彼らの 利害はソ連と軌を一にしています。しかし、朝鮮半島だけでなく、インドシナやチベットでも近年示され、 いまや南に向けられている攻撃性は、太古の昔から、征服者たらんとする者を駆り立ててきた、力の拡大 への欲望の表れにほかならない、と私は思います。


戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。見事な意志と熱 心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人の 自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、 経済活動の自由、社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作られました。
今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べてい
ます。世界の信頼を裏切るようなことは 2 度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻 かれながらも、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い止め た際の見事な態度は、日本がアジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼすことが期待できることを立証して います。私は占領軍の 4 個師団をすべて朝鮮半島の戦場に送りましたが、その結果、日本に生じる力の空 白の影響について、何のためらいもありませんでした。結果はまさに、私が確信していた通りでした。日 本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を知りません。また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献する ことがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。

かつてわが国が後見していたフィリピンについては、現在の混乱が消え、長期にわたる戦争の恐ろしい 破壊の、より長い余波の中から、強く健全な国が生まれると、確信をもって期待することができます。 我々は、辛抱強く理解を示し、決して彼らを失望させてはいけません。私たちが必要としているときには、 彼らは私たちを失望させなかったのですから。キリスト教国であるフィリピンは、極東におけるキリスト

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教の強大な防波堤となっており、アジアにおいて道徳的に強いリーダーシップを発揮する無限の力を秘め ています。
台湾に関しては、中華民国政府は、中国大陸における同国政府の指導力を大きく損なった悪意あるゴ シップの大半について、行動によって反論する機会を得ました。台湾の人々は、政府機関に多数派が代表 を出すという公正で賢明な政権を戴いており、政治的にも、経済的にも、社会的にも、健全で建設的な路 線に沿って進んでいるようです。

以上、周辺地域について短い洞察を加えた上で、朝鮮半島での軍事衝突に話を転じたいと思います。大 韓民国を支援して介入するという決定を大統領が下す前に、私はなんら相談を受けていませんでした。そ の決定は、わが軍が侵略者を押し戻し、その軍事力の多くを減殺したことにより、軍事的な観点から正し かったことが証明されました。わが方の勝利は決定的だったし、目的の達成は目前だったのですが、そこ へ共産中国が、数の上では上回る陸軍力で介入してきたのです。
この中国介入によって、新たな戦争と、全く新しい状況が作り出されました。それは、北朝鮮の侵略者 に対してわが軍が投入されたときには考えもしなかった状況です。そして軍事戦略を現実に即して修正す るために外交面で新たな決定が求められる状況となりました。
 そうした決定は、いまだ下されそうもありません。
地上部隊を中国大陸に送り込むことに正気で賛成する人はいないでしょう。実際、そうしたことは、一 度も検討されませんでした。しかし状況が一変した今、かつての古い敵を倒したように、この新たな敵を 打ち破ることがわが国の政治目標であるならば、戦略計画の根本的な変更が緊急に迫られていたのです。
私が見たところ、鴨緑江の北にいる敵に与えられた保護された聖域を無力化することが軍事上必要だっ たほか、戦争を進める上で、次のようなことが必要だと感じました。

第 1 は、中国に対する経済封鎖の強化です。
第 2 は中国沿岸部に対する海上封鎖。
第 3 は、中国沿岸地域と満州に対する航空偵察制限の撤廃。 そして
第 4 は、台湾の中華民国軍に対する制限を撤廃し、共通の敵に対して同軍が有効な作戦を取ること ができるような、兵站面での支援を行うことでした。
これらのすべての見解は、朝鮮半島に送られたわが軍を支援し、米国および同盟諸国側の無数の人命を 損なうことなく、できるだけ早い時期に戦闘行為を終わらせることを意図して、職業軍人の立場で考えた ものでした。軍事的な観点からみると、わが国の統合参謀本部を含め、朝鮮戦争に関わったほぼすべての 軍事指導者が、過去にこれと同じ見解を持っていたと私は理解しています。にもかかわらず、こうした考 えを抱いたことで、私は主に海外の素人筋から、厳しく批判されてきました。
私は増援を求めましたが、援軍は得られないことを知らされました。もしも鴨緑江の北に敵が建設した
基地を破壊することが認められないということであれば、もしも台湾にいる約 60 万の友好的な中国軍を利 用することが認められないということであれば、もしも中国共産党が外部から援助を受けられないように するために中国沿岸を封鎖することが認められないということであれば、そして、もしも大規模な増援を

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送ってもらえる見込みがないということであれば、軍事的にみて、勝利を妨げたのは司令部の態度である と私は明言しました。
途切れることなく作戦行動を続ければ、韓国でも、わが軍の補給線が強く敵の補給線が弱い周辺地域で は、敵を抑えることができたでしょう。しかし、もし敵が全軍事力を用いた場合、せいぜい我々に期待で きるのは、わが軍をひどく消耗させ続ける、決定力に欠けた軍事作戦だけだったのです。この問題の解決 に不可欠な新たな政治判断を、私は絶えず要求してきました。
私の立場を歪曲させるための努力も行われました。要するに私は、好戦主義者であると言われてきたの です。これほど、事実から遠いことは、ほかにありません。私は、いま生きている誰よりも、戦争につい ては知っています。私にとっては、これほど嫌悪すべきものは、ほかにありません。私は長年にわたり、 戦争の完全な撲滅を訴えてきました。敵も味方も破壊するがゆえに、戦争は国際紛争の解決手段としては 無用なものになってしまったからです。実際、

1945 年 9 月 2 日(日)、日本が戦艦ミズーリ号上で降伏文書に署 名した直後、私は次のように公式に警告しました。

「人間は、有史以来、平和を求めてきた。国家間の紛争を防ぐ、あるいは解決する国際手続きを作り出 すため、さまざまな方法が時代を超えて試されてきた。個々の市民に関しては、当初から実現可能な方法 が見つかった。しかし、より広い国際的な広がりを持つ手段の仕組みは、一度も成功したことがなかった。 軍事同盟、勢力均衡、国際連盟など、すべてが次から次へと失敗に終わり、残されたのは戦争という厳し い試練を経る道だけだった。いまや戦争の徹底的な破壊力によって、この選択肢も閉ざされてしまった。 今が最後のチャンスだ。もっと優れた公平な制度を我々が作り出さなければ、ハルマゲドンは玄関口に 迫ってくるだろう。問題は、基本的に神学的なものであり、過去 2000 年の科学、芸術、文学、そして物質 的、文化的発展の、比類のない前進と同調する、精神的再生と人間性の改善に関係している。肉体を救お うとするなら、それは精神を通してである」
しかし、いったん戦争が我々に押し付けられれば、これを迅速に終わらせるためには、使えるすべての 手段を使う以外に選択肢はありません。
 戦争の目的は、まさに勝利であり、中途半端な状態を長引かせることではありません。
 戦争では、勝利に代わるものはありません。
さまざまな理由を掲げて、共産中国と宥和しようとする人がいます。彼らは、歴史の明白な教訓に対し て盲目なのです。なぜなら、宥和政策は新たな、さらに血なまぐさい戦争を招くだけだということを、歴 史ははっきりと強調して教えているからです。このような結果をもたらす手段が正当化されるような例、 宥和政策が見せかけの平和以上の成果をもたらした例は、歴史上 1 つもありません。脅迫と同様、

宥和政 策は、より大きい新たな要求を次々に招く原因となり、最終的には、脅迫と同じように、暴力が唯一の取 りうる選択肢となってしまいます。
私は、兵士たちから聞かれました。「なぜ戦場の敵に、軍事的な有利さを明け渡してしまうのですか」私 

118

は答えられませんでした。
紛争が中国との全面戦争にまで拡大するのを避けるためだ、と言う人がいるかもしれません。また、ソ 連の介入を防ぐためだ、という人もいるでしょう。どちらの説明も正当な根拠があるとは思えません。な ぜなら、すでに中国は、全兵力を投入して交戦しているからであり、ソ連は必ずしも自らの行動を我々の 動きに合わせてくれようとしないからです。新たな敵も現れるでしょう。彼らは、コブラのように、世界 的な規模でみて、自分たちの軍事その他の力が相対的に有利であると感じれば、すぐに攻撃を仕掛けてく るでしょう。
朝鮮での悲劇は、その国境線の中に軍事行動が限定されていることによって、さらに高められています。 我々が救わんとするこの国が、海と空からの大規模爆撃による破壊に苦しんでいるのに、敵の聖域は、そ うした攻撃や破壊から完全に守られているのです。
世界中の国で、これまでのところすべてを賭して共産主義と戦ってきたのは韓国だけです。韓国人の勇 気と不屈の精神は見事であり、筆舌に尽くせません。
彼らは、奴隷になるよりも死の危険を冒すことを選びました。彼らの私に対する最後の言葉は「太平洋 を見捨てないでほしい」でした。
私は、戦地で戦う皆様の息子たちを朝鮮半島に残してきたところです。彼らはそこであらゆる試練に耐 えてきました。彼らはあらゆる意味において優れていると、私は今、なんのためらいも無く、皆様に報告 することができます。
私は彼らを守り、この残酷な戦闘を、誇り高く、最小限の時間と人命の犠牲で終らせるよう、常に努力 してきました。流血の増大は、私に、この上なく深い苦悩と不安をもたらしました。
 私はこのような勇ましい兵士のことをしばしば思い起こし、いつも祈りをささげることになるでしょう。
私は今、52 年にわたる軍務を終えようとしています。今世紀に入る前に私が陸軍に入隊したとき、それ は私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。私がウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士になる 宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢はずっと前に消え失せてしまいました。しかし、当 時兵営で最も人気が高かったバラードの一節を今でも覚えています。それは誇り高く、こう歌い上げてい ます。「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」と。
そしてこのバラードの老兵のように、私もいま、私の軍歴を閉じ、消え去ります。神が光で照らしてく れた任務を果たそうとした 1 人の老兵として。
さようなら。
出典: "A History of the American Ambassodor's Residence in Tokyo" by Jonathan R. McHale Embassy Tokyo, 1995.


マッカーサー証言
Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
戦後、日本人のマインドコントロールをしたのはマッカーサーである。
日本が悪かったことを散々刷り込んだのです。
この問題に対して
渡部昇一先生がよく
「マッカーサーですら、日本の先の戦争の原因は主に自衛の目的であった。それは昭和26年5月3日にアメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で証言している」
といつも紹介している本は
東京裁判資料刊行会編
『東京裁判却下未提出弁護側資料・全8巻』
(国書刊行会)
がある。しかし、高額だったし、いまでは見かけない。そこで

東京裁判 日本の弁明―「却下未提出弁護側資料」抜粋
東京裁判 日本の弁明―「却下未提出弁護側資料」抜粋
講談社学術文庫
ISBN:4061591894
565p 15cm(A6)
講談社 (1995-08-10出版)
小堀 桂一郎【編】
[文庫 判] NDC分類:329.67 販売価:\1,365(税込) (本体価:\1,300)
東京裁判は、はたして公正な裁判だったのだろうか。
法廷に提出すべく弁護側が作成、準備したにもかかわらず、裁判長によって却下され、または未提出に終わった厖大な資料が残された。
本書は、戦後五十年を期してまとめられた、その『東京裁判却下未提出弁護側資料』のうち、もっとも重要な十八篇を抜粋したものである。
東京裁判を正しく認識し、明日の日本の展望を拓く、現代史研究に必携の史料集。
第1部 弁護側反証段階の総論
第2部 弁護側反証の一般及び個別段階
第3部 弁護側最終弁論及び付録
小堀氏の本の方が読みやすい。
この内容をNHKがゴールデンタイムに放送すれば、日本人の戦後のマインドコントロールもとれるであろう。


第二次世界大戦における対日戦略(和訳)
ヒッケンルーパー上院議員 では五番目の質問です。中共(原文は赤化支那)に対し海と空とから閉鎖してしまへといふ貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。
 答 その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は封じ込めたのです。日本は八千万に近い膨大な人口を抱へ、それが四つの島の中にひしめいてゐるのだといふことを理解していただかなくてはなりません。その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事してゐました。
 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福なのだといふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。
 これほど巨大な労働能力を持つてゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。
 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。
ちなみに、同じ5月3日に、マッカーサーは
「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」
とも証言しています。
また、別の角度から東京裁判を見るなら

東京裁判・原典・英文版―パール判決書
東京裁判・原典・英文版―パール判決書
ラダビノッド パール (著), Radhabinod Pal (原著)
英文ではこれです。
極東国際軍事裁判(東京裁判)においてインド代表判事、ラダビノッド・パール博士が提出した英文25万語に及ぶ膨大な判決書を原文のまま全文掲載。


年、陸軍元帥。連合国軍最高司令官、国連軍司令官を務めた。コーンパイプと服装規則違反のフィリピン軍帽がトレードマークであった。

ダグラス・マッカーサー
Douglas MacArthur
Douglas MacArthur smoking his corncob pipe.jpg
マッカーサー(1945年8月、フィリピン)
生誕
1880年1月26日
Flag of the United States (1877-1890).svg アメリカ合衆国
アーカンソー州 リトルロック
死没
1964年4月5日(84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ワシントンD.C.
所属組織
Emblem of the U.S. Department of the Army.svgアメリカ陸軍

Flag of the Philippines (navy blue).svg フィリピン陸軍
軍歴
1903年 - 1952年
最終階級
US-O11 insignia.svg 元帥(アメリカ陸軍)
元帥(フィリピン陸軍)
除隊後
レミントンランド会長
墓所
バージニア州 ノーフォーク
署名
DMacarthur Signature.svg
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マッカーサーのカナ表記はマックアーサーとされている場合がある[1]。

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