箸で地球はすくえない

ねこよう

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キツネの話 6章

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 その日を境に、私達の間の、何かが変わった。
 
 手塚は、掃除が行き届いていない。とか、洗面所の化粧品が整理されていない。
とか、相変わらず料理は上達していない。とか、今日はどこに行っていたのか報告
しないと常識的にダメだろうとか、とにかくダメ出しを連発するようになった。
 私も悔しいので、そういうあなたは汚れた洗濯物をカゴの中にちゃんと入れて
ない。やめると言っていた煙草をいつまでもやめていない。そう言い返したり
したが、
 
 「そうやって問題をすり替えて逃げるのは君の悪い癖だ。自分の欠点を見つめ
  直していないと、人間としての成長は止まる。俺は、洗濯物や煙草については
  自分でちゃんと見つめなおしているんだ。だから君以外の周りからは
  そういう事で非難されていない。それに、タバコに関しては、君があまりにも
  常識が出来ていないから、それを見ていてストレスで吸ってしまう部分もある。
  ってことは、原因は君なのかもしれないな。」
 
 手塚と言い合っていると、途中からなんで怒られているのかよく分からなくなって
しまい、結局自分が「普通の奥さん」みたいに出来ていれば全ては丸く収まるのか。
という結論にして、自分を納得させるようになってしまっていた。
 
 
 私は、彼からのダメ出しを恐れるようになってきた。
 怒られないように料理は恐る恐る作り、怒られないように自分が使った洗面所の
化粧品の整理をしたりしてきた。掃除については、ちょっと髪の毛や埃が目に入る
と、そろそろ危ないと思い、ほうきと塵取りを買ってきて夜中に彼を起こさない
ようにこっそり掃除したりした。
 それでもまだ彼は日々の事をこまごまと怒り続け「先輩の奥さんは・・・」
「普通の家庭の奥さんは・・・」という必殺の文句を連発した。
 先輩の奥さんとは誰なのだろうか。「普通の奥さん」というのは、どういう奥さん
なのだろうか。全く分からない。けど、彼がこうやって不満を言い続けているの
だから、私に至らない点がいろいろとあるのは確かみたいだ。
 そんな中でも、彼がリビングで煙草を吸うのをやめようと努力している様子は
見られない。彼は私に「一人の時はどこに行ったか報告しろ」と言うが、
夫婦一緒の休日の朝に、彼はフラッと出かけて夜遅くまで帰らない事もある。
 そういう時に「自分こそ私に報告とかはしないのか」と反論したが
 「君はそうやって僕を責める事で、自分の問題を棚に上げて逃げようとしている。
  僕が一人になりたくなるのは、君が妻として最低限の事をちゃんとしていない
  から、この家にいるのを苦痛に感じてしまうからだよ。
  頼むから人を責める前に、自分自身を見つめ直してほしい。」
 とやり返されてしまう。
 これを読んでいるあなたは、キツネは愚かだなと思いながら読んでいるのかも
しれない。
 そうだ。私は愚かだった。
 でも、その時の私は、いつか手塚に「君も立派ないい奥さんになったね」と褒めて
もらえる日が来るのではないかと考えていた。
 薄い膜のかかった‘‘普通でない自分‘‘が、普通以上に出来た人間の彼からの
ダメ出しを減らせるくらい努力すれば、普通の人間に近づけるんじゃないか。と。


 「あんたどうしたの? その顔」
 サイゼリヤで私の前に座ったオウムは、変なものでも見るかのように私の顔を
まじまじと見つめた。
 何か変?と聞くと、
 「だって、目の下にクマが出来てるし、目に力は無いし・・・なんかさ、
  不幸のオーラ全開なんだけど」若干引いた気持ちで喋っている。
 「なんかさ、最近あんまりよく眠れなくて・・・」
 そう言いながら自嘲気味に笑う。全部ちゃんと出来ていない自分が悪いのだから
仕方がない。
 オウムの隣に座っているウサギは、ノートパソコンを開きながら何も言わずに
じっと私の顔を見ている。
 でも大丈夫。原因は私なんだから。
 そう言ってコップに入ったコーラを飲みほした。
 今日は高校時代の友人に会いに行く。と嘘をついて出てきた。帰ったら風呂掃除を
してから夕食を作らないと。そう言えば結婚当初はお互いが助け合っていた家事も、
いつの間にか全部私がやる事になっていた。
 「普通の奥さんは働いていてもこれぐらいやっている。例えば俺の先輩の
  梶原さんの奥さんは、君よりハードな仕事だけど、家事も子育ても
  きちんとやっているんだ。君はまだ子育てが無いだけ楽な方だよ。」
 そうだまだ私は楽しているんだ。もっと頑張っている人はたくさんいる。
 「ちょっと! キツネ!!!」
 意識の中に入っていて、オウムの強い声にびっくりして我に返った。
 オウムもウサギも、心配そうな目で私を見つめている。
 そうだ時間!とスマホの画面を見たら、もうすぐ帰ると約束した時間が
近づいている。
 連絡報告しないと手塚が怒る。
 ちょっとゴメンねとLINEを打ち込もうとしたら、手が伸びてスマホを取り上げられ
 「キツネ、いいからちょっと聞いて」オウムに真剣な眼差しで見つめられた。
 「――私達さ、二人でちょっと話したんだ。最近のあんたの様子がおかしいから
  心配で。それで、他人の夫婦の事に首突っ込みたくないんだけど、
  やっぱ話しておきたくて・・・」
 「ハイこれ」
 まるでこのタイミングですと決められていたかのように、ウサギはノートパソコン
を回して画面をこちらに向けた。

 対象:手塚恭二 行動報告 
 ○月×日 PM6:00退社 PM7:00天王町 神崎美智マンション到着 
      PM10:00同所退出
 ○月△日 PM6:30退社 PM7:30 居酒屋よかもん到着 神崎美智合流 
      PM8:00同所退出 PM8:30 ホテルラバーズ入室
 ○月□日 PM5:30退社 PM6:15天王町 神崎美智マンション到着 
      PM7:00同所 神崎美智到着 PM10:30同所退出
 ○月●日・・・・・
 「・・・・・なにこれ?」
 「分かるでしょ? あんたの旦那の行動の記録。ウサギが調べていたの」
 私は画面の字面を凝視した。神崎美智 神崎美智 かんざきみち・・・・
 「この相手の女知ってる?」
 「・・・知ってる」
 家に遊びに来た、職場仲間のなかにいた。確か、いつもニコニコしていて男に
可愛がられるタイプの女の人だ。
 「ねえキツネ。かなり旦那に痛めつけられているんじゃないの? 精神的にさ。
  でもね、こう言っちゃなんだけど、あんたの旦那はさ、あんたを痛めつけて、
  外では女と楽しくやってるんだよ。」
 私は、オウムの言葉を聞いていたのだろうか。確かに聞いていて話している
内容も分かったけれど、入っていなかった。
 私の意識は画面の下の方に集中していたから。

 ○月◇日 AM8:30自宅より出る AM9:30上総浜到着 AM9:45神崎美智到着 

 それは、夫婦で一緒の休日、旦那が朝にふらっと出て行った日だった。
 「・・・・私が至らないから、旦那が浮気しちゃったんだね」
 ボソッと呟くと「はぁ?」とオウムが眉間に皺を寄せた。
 「そうだよ。私がちゃんとした普通の奥さんくらいのレベルだったら、あの人
  浮気なんかしなかったんだよ。私が家の事とか夫婦の事とかちゃんと
  していないから・・・」
 ハーーーー。とオウムは長いため息を吐いた。
 「あのね。じゃあ言わせてもらっていい? 
  確かにあんたは普通の奥さんじゃない。料理はヘタだし、たぶん掃除や洗濯
  だって苦手でしょ? 旦那に愛想よく甘えるなんて事も出来なそうね。
  でも――いい? でもね、あんたはあんなにすごいネットワークを
  持ってるんだよ。ヤクザや半グレや詐欺が欲しい欲しいって身もだえする
  くらいの人間のネットワーク。それも、全部自分一人で作った。
  誰の手も借りずに。こんな事が普通の奥さんとやらに出来ると思うの? 
  正直に言うわ。私出来ない。ウサギ、あんたは? 出来る?」
 無理に決まってんでしょ。ムスッとした顔でウサギが答えた。
 「いい? 千差万別いろんな人間と会って繋がって、その繋がりを維持して、
  尚且つ誰からも嫌われない。それって滅多な人間に出来る事じゃないんだよ。
  私の知る限り、そんな事出来るのってあんたぐらい」
 「え?・・・じゃあ・・・」ちょっと頭が混乱してきた。
 「そんなあんたのスゴイ所も分からないで、ダメな奥さんだの使えないだのって
  あんたを責め続けて、自分は外で愛人作っているあんたの旦那は、
  本当にろくでもないクズ男って事ヨ」
 オウムは、フン。と鼻を鳴らして、氷の溶けたカルピスソーダをグイっと
飲み干した。


 私はキャリーバッグに生活に必要なものだけを詰め込んで、二人のマンションを
出た。
 置手紙だけして。
 旦那からの電話もLINEもブロックして、唯一メールだけ繋がるようにしておいた。
そうすれば電話が鳴っていちいち出なきゃいけなくなるような煩わしさはない。
 そして、ウサギの家に転がり込んだ。
 私がキャリーバッグをコロコロ転がしてウサギの部屋の前に立った日の夜、
デスクトップパソコンが二台あるだけの部屋の真ん中に置かれた、地味な部屋に
不似合いなピンクのちゃぶ台を挟んでウサギと座り、二人して黙って
カップヌードルをすすっていた。
 私がカレーでウサギはチリトマトだ。
 私はどうしてもウサギに聞きたい事があった。
 「・・・・ねえ」
 「なに?」
 「今まで私に彼氏が出来た時さ、あんたいろいろ情報を渡してきたじゃん。
  こんな女と付き合っていた。こんなエロサイトを見ている。みたいな」
 「・・・ああ、そうね」
 「・・・なんで手塚の時は渡してこなかったの?」
 「なんでだろ・・・・」ウサギはズズっとヌードルをすすった。
 「調べてはいたんでしょ?」
 「調べた。どんな女と付き合っていたか。どんな女を泣かせたか。」
 「じゃあ・・・何で言わなかったの?」
 「キツネが・・・・」珍しくウサギは言い淀んだ。
 「――キツネが・・・あいつの事本気で好きなんだと思ったから。
  邪魔したくなかった」
 
 ウサギはカップを逆さにして残ったスープを一気に飲み干すと、残った
カップと割りばしを少し乱暴にゴミ箱に投げ込んで、風呂場に行ってしまった。


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