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第6話 特別扱いはしないでね

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 「あー、やっぱり家はいいわねー」

 マンションに戻ると、華絵は背伸びをした。

 「大丈夫か? 体調の方は?」
 「平気よ、着替えて来るね? 早く山岸家さんに行かなくっちゃ。もう並んでいるわよね? 
 チャーシューワンタン煮卵付き!」
 
 私たちは手を繋いでラーメン屋に出掛けた。
 休暇中はいつもこうして手を繋いで出掛けた。



 店の前には既に10人ほどの客が並んで待っていた。
 山岸家はカウンターが10席のラーメン店で、店主の山岸ひとりで切り盛りをしていた。
 見事な調理捌きと温かい接客にはファンも多い。
 コンピューター並みの記憶力。メモも取らずにすべてのオーダーを完璧に覚えている。

 「チャーシューワンタン煮卵付きを2つ下さい」
 「帰って来たんですね? 堂免さん。いつ日本に?」

 忙しい中でも山岸は、いつも私たちに声を掛けてくれる。

 「3日前だよ。帰って来たらまずは山岸家だからね? 航海中、山岸家の「支那そば」が思い浮かんで頭がおかしくなりそうだったよ。
 仕方ないからサッポロ一番を食べて我慢してた」
 「それはありがとうございます」

 山岸が麺の湯切りをしながら笑っていた。
 中学を出てすぐ、大阪の老舗料亭で修行をして、二番板までになった男だ。脱サラのにわか人気ラーメン店とは格が違う。
 山岸家のラーメンは「ラーメンの懐石料理」だった。
 これ以上何を足しても、引いてもいけないという絶妙なバランス。ちょっとでも触れたら崩れてしまいそうな、積木ゲームのようなラーメンだった。


 「おいしいー! 小麦のいい香りとこの奥深いスープ、山岸家さんの「支那そば」は日本一だわ」
 「ホントに凄いよなあ? 鹿児島の黒豚チャーシュー、絹のように薄く滑らかなワンタン、上品なメンマに九条ネギ」
 「山岸家のラーメンを食べると、しあわせな気分になるわね?」
 「そうだな?」
 「堂免さん、褒め過ぎですよ」

 うれしそうに微笑む店主の山岸。

 (あと何回、華絵とこの山岸家のラーメンを食べることが出来るのだろう?)

 私は思わず泣きそうになってしまった。
 
 「しあわせな気分になるわね? 山岸家さんのラーメンを食べていると」

 (しあわせ? この一杯のラーメンを食べることが?
 それが余命宣告を受けた人間が言う言葉なのか?)

 華絵のためなら「数寄屋橋次郎」だろうと「ジュエル・ロブション」だろうと、満足するまで食べさせてあげたい。
 ブランド品の靴やバッグも洋服も、ダイヤの指輪も金のネックレスも華絵が望む物ならすべてを買い与えたい。
 だが華絵はそんな物を欲しがる女ではなかった。

 「ご馳走さま。また来るね? しつこく」
 「あははは お待ちしていますよ。いつもありがとうございます」



 「おいしかったね?」
 「ああ、やっぱり山岸家は旨いよな? お茶でもして帰るか?」
 「うん」

 私は華絵と恋人繋ぎをした手を、私のコートのポケットに入れ、冬枯れの並木道を並んで歩いた。
 長い間会うことが出来ない私たちは、いつも出会った頃の恋人気分だった。
 だが今は、星も月もない暗黒の海を永遠に漂う、『さまよえるオランダ人』のような気分だった。



 その店は白とセルリアンブルー、所々を金のモールで縁取られた、明るいお洒落な紅茶専門店だった。
 女性客が殆どの店だった。

 「なんだか男には場違いなところだな?」
 「そんなことないわよ、ヒロはちゃんと似合っているわよ」
 「そうか?」

 私は少し照れ笑いをした。

 華絵はダージリンのミルクティーとレアチーズを、私はアールグレイに和栗のモンブランを楽しんだ。

 「そのモンブラン、ちょっともらってもいい?」
 「いいよ、じゃあ俺も」

 私たちはお互いのケーキの皿を交換した。
 
 「おいしいね?」

 私たちは同時にそう言って笑い合った。
 穏やかな私たちの午後のひと時を、店内に流れるモーツァルトがやさしく包み込んでくれた。

 「ねえ、ヒロ」
 「ん?」
 「お願いがあるの」
 「どんなお願いだ? 何でも聞くよ」
 「私にあまり気を遣わないで欲しいの。
 特別扱いされると、何だか申し訳なくて・・・」

 それは華絵の言う通りだと思った。
 私は華絵の死を、あまりにも意識しすぎていた。

 「そんな風に思わせていたら、ゴメン」
 「ううん、ヒロの気持ちは嬉しいの。
 でもね、そうされると死ぬのが怖くなる。死ぬのがイヤになるから」
 「ハナは死なないよ、ハナは死なない、絶対に。
 俺がついている、この俺が」
 「そうだね? ヒロがいるもんね?」
 
 華絵は悲しそうに笑うと、少し温くなったミルクティーを飲んだ。

 航海士という仕事は自然が相手だ。命の危険に晒されることもないわけではない。
 だが、自分が死に直面するのではなく、私の大切な妻に近づく死を目の当たりにして、私は冷静でいることが出来なかった。
 それがかえって華絵を苦しめていることを私は忘れていた。
 いつも通り、今まで通りに私は華絵を愛すべきなのだ。

 命の灯火ともしびが消える、その最期の瞬間まで。
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