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第1話 悪夢
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アメリカ西海岸から日本への航海は、大圏航路を進むために本船はベーリング海へと近づいていた。
現地時間、午前3時32分。
俺は航海計器の最終チェックを終え、周囲の安全を確認した。
レーダーには25マイルほど先に、日本に向かうであろう一隻の船の輝影が映っていた。
私はチョフサー(一等航海士)の阪井への航海当直の引継ぎの準備をしていた。
Log Book(航海日誌)に必要事項を英語で記入した。
「セカンドオフィサー(二等航海士)、タイフーン、イヤダネ?」
フィリピン人のクォーターマスター(操舵手)、ゴンザレスがスペイン語訛りの英語で言った。
北海道沖で発達した、960hPaの台風並みの低気圧が北上していた。
「モチロン、オレモイヤダヨ」
国際航路の場合、船での公用語は殆どが英語だった。
昔は日本人同士の乗船勤務だったが、今では士官を除く乗組員はすべて、賃金の安い外国船員になっていた。
大型船の運航には莫大な経費が掛かる。真っ先に人件費が削減された。
中国、韓国、フィリピン、バングラデシュ。
彼らの殆どは日本人船員ほどのスキルも経験もなかった。
ただ、法律で決められた頭数さえいればいいというのが会社側の方針だった。
国際為替の中でのビジネスは動くカネも大きい。
「利潤の追求」は船会社にとっても至上命題だった。
二等航海士の航海当直は昼の12時から16時、そして深夜零時から早朝4時までの一日8時間だ。ずっと立ちっぱなしの勤務だった。
この時間帯は一番寛ぎたい時間でもあり、航海士たちはなるべく早く二等航海士を終え、一等航海士に昇格するのが常識となっていた。
そして私もその内の一人だった。
「現在コース237°、4時間の航続距離は64マイル。前方28マイル、1時の方向に同じ航路を進む船舶が認められます。速力約17ノット。気温はポツ3℃減少のマイナス7.8℃、風速は・・・。
それでは願います(船の当直交代時は「願います」という)
「お疲れ様。これから海化て来るなあ?」
「嫌ですね? 冬の北太平洋航路は」
私はチョフサーと航海当直の引き継ぎを終え、自分のキャビンに戻って妻の華絵とスカイプを始めた。
「どうした? 元気がないみたいだけど?」
華絵の顔色が優れないように見えたからだ。
「今日、病院に行ったら検査入院だって言われたの。
でも大丈夫、そんなに大変なものじゃないみたいだから」
「丁度、あと5日で大井埠頭だから、ちょっと寄ってみるよ」
「いいわよ無理しなくても。忙しいんでしょ? どうせ入港してもまた数時間でアメリカだし」
「次の航海で交代だから、キャプテンに相談してみるよ」
「逢えるのは嬉しいけど、本当に大したことないから」
「そうか?」
でもなぜかその時、私は妙な胸騒ぎを感じた。
「ヒロ、愛してるわ」
「俺もだよ、早く華絵に会いたい」
日本に帰港する3日前、45,000トンもある大型コンテナ船でも爆弾低気圧の海では木の葉のように激しく揺れ、マンガンブロンズ製のプロペラは海水から度々露出し、レーシング(空転)を繰り返していた。
私はキャプテンに事情を説明し、大井での下船を申請した。
「日本で良かったじゃないか? 奥さん、大したことがないといいな?」
「すみません、ご迷惑をお掛けして」
「どうせ次の航海で下船だったんだ、気にすることはない」
キャプテンの丹所は私を労わってくれた。
大井のコンテナターミナルに接岸し、税関やイミグレーション、検疫のチェックを終え、私は交代のセコンドオフィサーと引継ぎを行い、クルーに挨拶をして船を降りるとそのまま真っ直ぐ妻の華絵が入院している病院へと向かった。
病室に向かう前にナース・ステーションに寄った。
「お世話になっている、堂免華絵の夫です。
これ、少しですがみなさんでどうぞ」
私はロスで購入したチョコレートチップクッキーの缶をナースに渡した。
「こんなことしないで下さい、仕事ですからお気遣いなく」
「ほんの気持ちですから」
「ありがとうございます。では折角なので頂戴します。
堂免さん、千葉先生からお話があるそうなので、こちらで少しお待ち下さい」
私はナースステーションの隣の部屋に案内された。
5分程してドアが開き、三十代位のショートカットの美しい女医が現れた。
「外科の千葉です」
(外科? 検査入院のはずだが・・・)
「家内がお世話になっています。
いかがですか? 家内の検査結果は?」
私は女医の簡単な返事を期待していた。
すると、その返事は意外なものだった。
「残念ですが、奥様は末期の乳がんでした。
リンパにも転移が見られ、手術は・・・、不可能です」
「妻はそれを・・・」
「告知はさせていただきました。ご本人からのご要望でしたので」
「あと、どのくらい・・・」
私はその先の言葉を飲み込んだ。
「長くて半年でしょうか?」
千葉医師は気の毒そうにそう言った。
私はその事実を受け入れる余裕がなかった。
悪い夢でも見ているような気分だった。
千葉医師の顔も、カウンセリングルームもすべてが涙の海に沈んで行った。
私は憚ることなく、声を殺して泣いた。
現地時間、午前3時32分。
俺は航海計器の最終チェックを終え、周囲の安全を確認した。
レーダーには25マイルほど先に、日本に向かうであろう一隻の船の輝影が映っていた。
私はチョフサー(一等航海士)の阪井への航海当直の引継ぎの準備をしていた。
Log Book(航海日誌)に必要事項を英語で記入した。
「セカンドオフィサー(二等航海士)、タイフーン、イヤダネ?」
フィリピン人のクォーターマスター(操舵手)、ゴンザレスがスペイン語訛りの英語で言った。
北海道沖で発達した、960hPaの台風並みの低気圧が北上していた。
「モチロン、オレモイヤダヨ」
国際航路の場合、船での公用語は殆どが英語だった。
昔は日本人同士の乗船勤務だったが、今では士官を除く乗組員はすべて、賃金の安い外国船員になっていた。
大型船の運航には莫大な経費が掛かる。真っ先に人件費が削減された。
中国、韓国、フィリピン、バングラデシュ。
彼らの殆どは日本人船員ほどのスキルも経験もなかった。
ただ、法律で決められた頭数さえいればいいというのが会社側の方針だった。
国際為替の中でのビジネスは動くカネも大きい。
「利潤の追求」は船会社にとっても至上命題だった。
二等航海士の航海当直は昼の12時から16時、そして深夜零時から早朝4時までの一日8時間だ。ずっと立ちっぱなしの勤務だった。
この時間帯は一番寛ぎたい時間でもあり、航海士たちはなるべく早く二等航海士を終え、一等航海士に昇格するのが常識となっていた。
そして私もその内の一人だった。
「現在コース237°、4時間の航続距離は64マイル。前方28マイル、1時の方向に同じ航路を進む船舶が認められます。速力約17ノット。気温はポツ3℃減少のマイナス7.8℃、風速は・・・。
それでは願います(船の当直交代時は「願います」という)
「お疲れ様。これから海化て来るなあ?」
「嫌ですね? 冬の北太平洋航路は」
私はチョフサーと航海当直の引き継ぎを終え、自分のキャビンに戻って妻の華絵とスカイプを始めた。
「どうした? 元気がないみたいだけど?」
華絵の顔色が優れないように見えたからだ。
「今日、病院に行ったら検査入院だって言われたの。
でも大丈夫、そんなに大変なものじゃないみたいだから」
「丁度、あと5日で大井埠頭だから、ちょっと寄ってみるよ」
「いいわよ無理しなくても。忙しいんでしょ? どうせ入港してもまた数時間でアメリカだし」
「次の航海で交代だから、キャプテンに相談してみるよ」
「逢えるのは嬉しいけど、本当に大したことないから」
「そうか?」
でもなぜかその時、私は妙な胸騒ぎを感じた。
「ヒロ、愛してるわ」
「俺もだよ、早く華絵に会いたい」
日本に帰港する3日前、45,000トンもある大型コンテナ船でも爆弾低気圧の海では木の葉のように激しく揺れ、マンガンブロンズ製のプロペラは海水から度々露出し、レーシング(空転)を繰り返していた。
私はキャプテンに事情を説明し、大井での下船を申請した。
「日本で良かったじゃないか? 奥さん、大したことがないといいな?」
「すみません、ご迷惑をお掛けして」
「どうせ次の航海で下船だったんだ、気にすることはない」
キャプテンの丹所は私を労わってくれた。
大井のコンテナターミナルに接岸し、税関やイミグレーション、検疫のチェックを終え、私は交代のセコンドオフィサーと引継ぎを行い、クルーに挨拶をして船を降りるとそのまま真っ直ぐ妻の華絵が入院している病院へと向かった。
病室に向かう前にナース・ステーションに寄った。
「お世話になっている、堂免華絵の夫です。
これ、少しですがみなさんでどうぞ」
私はロスで購入したチョコレートチップクッキーの缶をナースに渡した。
「こんなことしないで下さい、仕事ですからお気遣いなく」
「ほんの気持ちですから」
「ありがとうございます。では折角なので頂戴します。
堂免さん、千葉先生からお話があるそうなので、こちらで少しお待ち下さい」
私はナースステーションの隣の部屋に案内された。
5分程してドアが開き、三十代位のショートカットの美しい女医が現れた。
「外科の千葉です」
(外科? 検査入院のはずだが・・・)
「家内がお世話になっています。
いかがですか? 家内の検査結果は?」
私は女医の簡単な返事を期待していた。
すると、その返事は意外なものだった。
「残念ですが、奥様は末期の乳がんでした。
リンパにも転移が見られ、手術は・・・、不可能です」
「妻はそれを・・・」
「告知はさせていただきました。ご本人からのご要望でしたので」
「あと、どのくらい・・・」
私はその先の言葉を飲み込んだ。
「長くて半年でしょうか?」
千葉医師は気の毒そうにそう言った。
私はその事実を受け入れる余裕がなかった。
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私は憚ることなく、声を殺して泣いた。
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