1 / 26
第1話 花を売るレストラン
しおりを挟む
都会のビルの森がオレンジ色に染まり、京浜東北線、JR赤羽駅の夕暮れには家路を急ぐサラリーマンやOL、学生たちで溢れていた。
そんな赤羽駅の北口を進んで狭い路地を入ったところにイタリアンレストラン『ナポリの黄昏』はあった。
店の常連たちはそのレストランテを親しみを込めて「黄昏」と呼んでいた。
本格イタリアンと花を売る店。オーナーシェフの小室直哉は寡黙だが、温かい包容力を持った男だった。
精悍な顔立ち、少し白髪の混じった髪。
岩城滉一のような雰囲気を持った男だった。
若い時は外資系ホテルのコックをしていたが、イタリア料理を本格的に学ぶためにナポリの二つ星レストランで10年間修業を重ね、帰国してこの店を始めた。開店してから今年で10年になる。
彼の料理と人柄に惚れ、ファンも多かった。
食事を終えた客の殆どは、その店で花を買って帰る。
家族へ、恋人へ、そして自分のために。
食事、本、花が一般的なプライオリティではあるが、本来の理想の優先順位は花、本、食事であるべきかもしれない。
嬉しい時も悲しい時も、花は人生を彩ってくれるからだ。
『ナポリの黄昏』はそんな「花を売るレストラン」だった。
店はオーナーシェフの小室とコックの高島、そしてカメリエーラの加奈子の3人で営まれていた。
高島は小太りの金髪で35歳、独身。腕は確かで様々な有名店やホテルから引抜きの話もあるが、どんなにいい待遇、条件でも高島はそれに乗ることはなかった。
その理由は極めて単純だった。
高島は店主の小室を尊敬していた。
いつも陽気で明るい高島は店のムードメーカーだった。
カメリエーラの加奈子はスタッフになって3年、以前は大手デパートに勤めていたが、上司との不倫が原因で職場を追われ、OL時代から通っていたこの店で働くことになった。
現在、独身の28歳で彼氏はいない。
密かに小室に恋心を寄せている。
彼女は長い髪をアップにした美しい女性だった。接客は抜群で、花屋も彼女が担当していた。
彼女の作る花束のセンスには定評があった。
店の常連の遥が幼稚園児の娘、紅葉を連れてやって来た。
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ。今日は紅葉ちゃんも一緒なんですね?」
遥はいつものカウンター席に紅葉と並んで座った。
この席からは厨房が見渡せて、小室や高島とも会話を楽しむことが出来た。
高島がフライパンを振りながら遥に話し掛けてきた。
「久しぶりですねえ、遥さん? 今日はプリンセスと一緒ですか?」
「高島さんのヒラメのカルパチョが恋しくなっちゃったの。やっぱりここは落ち着くわねー? なんだか実家に帰って来たみたい」
「おかえりなさいませ、女王様、王女様」
そうおどけて見せる高島と、黙々と料理を作りながら横顔で微笑む小室。
「幼稚園のお迎えの帰りなの、旦那は会社の飲み会。だから今日は主婦もお休み。手抜きしちゃった。
私はレーベンブロイの生とヒラメのカルパチョを。娘にはカルボナーラとブラッディ・オレンジジュースをお願いします」
紅葉は足をぶらつかせ、
「ママー、紅葉、お腹ペコペコ」
すると小室がグリッシーニの入った籠を紅葉の前に置いた。
「これを齧って待っててね? おじさん、すぐに作るから」
「ありがとう、小室のおじちゃん」
「よかったね? 紅葉?」
「うん、ママもどうぞ」
紅葉は小室から貰ったグリッシーニを一本、小さな手で遥の口元へと運んだ。
「ありがとう、紅葉」
屈託のない紅葉の笑顔に遥は心が軋んだ。
今日、遥は会社を有給で休み、1時間前まで冴島とホテルで男女の関係を楽しんだ後だったのだ。
(ゴメンね、紅葉。悪いママで・・・)
遥は心の中で母親としての不貞を紅葉に詫びた。
だが、夫の光一郎に対しては不思議と罪悪感は無かった。
遥は出口のないラビリンスの中に迷い込んでいた。
冴島は取引先の総合商社の営業部長で妻子があり、最悪のダブル不倫だった。
しかしながら今の遥にとって冴島は、無くてはならない存在になっていた。
本当の自分をすべて曝け出すことのできる相手は冴島を置いて他にはいなかった。
夫の光一郎にさえも。
運ばれて来た冷えたビールが、冴島との行為に熱くなった体に滲みた。
そんな赤羽駅の北口を進んで狭い路地を入ったところにイタリアンレストラン『ナポリの黄昏』はあった。
店の常連たちはそのレストランテを親しみを込めて「黄昏」と呼んでいた。
本格イタリアンと花を売る店。オーナーシェフの小室直哉は寡黙だが、温かい包容力を持った男だった。
精悍な顔立ち、少し白髪の混じった髪。
岩城滉一のような雰囲気を持った男だった。
若い時は外資系ホテルのコックをしていたが、イタリア料理を本格的に学ぶためにナポリの二つ星レストランで10年間修業を重ね、帰国してこの店を始めた。開店してから今年で10年になる。
彼の料理と人柄に惚れ、ファンも多かった。
食事を終えた客の殆どは、その店で花を買って帰る。
家族へ、恋人へ、そして自分のために。
食事、本、花が一般的なプライオリティではあるが、本来の理想の優先順位は花、本、食事であるべきかもしれない。
嬉しい時も悲しい時も、花は人生を彩ってくれるからだ。
『ナポリの黄昏』はそんな「花を売るレストラン」だった。
店はオーナーシェフの小室とコックの高島、そしてカメリエーラの加奈子の3人で営まれていた。
高島は小太りの金髪で35歳、独身。腕は確かで様々な有名店やホテルから引抜きの話もあるが、どんなにいい待遇、条件でも高島はそれに乗ることはなかった。
その理由は極めて単純だった。
高島は店主の小室を尊敬していた。
いつも陽気で明るい高島は店のムードメーカーだった。
カメリエーラの加奈子はスタッフになって3年、以前は大手デパートに勤めていたが、上司との不倫が原因で職場を追われ、OL時代から通っていたこの店で働くことになった。
現在、独身の28歳で彼氏はいない。
密かに小室に恋心を寄せている。
彼女は長い髪をアップにした美しい女性だった。接客は抜群で、花屋も彼女が担当していた。
彼女の作る花束のセンスには定評があった。
店の常連の遥が幼稚園児の娘、紅葉を連れてやって来た。
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ。今日は紅葉ちゃんも一緒なんですね?」
遥はいつものカウンター席に紅葉と並んで座った。
この席からは厨房が見渡せて、小室や高島とも会話を楽しむことが出来た。
高島がフライパンを振りながら遥に話し掛けてきた。
「久しぶりですねえ、遥さん? 今日はプリンセスと一緒ですか?」
「高島さんのヒラメのカルパチョが恋しくなっちゃったの。やっぱりここは落ち着くわねー? なんだか実家に帰って来たみたい」
「おかえりなさいませ、女王様、王女様」
そうおどけて見せる高島と、黙々と料理を作りながら横顔で微笑む小室。
「幼稚園のお迎えの帰りなの、旦那は会社の飲み会。だから今日は主婦もお休み。手抜きしちゃった。
私はレーベンブロイの生とヒラメのカルパチョを。娘にはカルボナーラとブラッディ・オレンジジュースをお願いします」
紅葉は足をぶらつかせ、
「ママー、紅葉、お腹ペコペコ」
すると小室がグリッシーニの入った籠を紅葉の前に置いた。
「これを齧って待っててね? おじさん、すぐに作るから」
「ありがとう、小室のおじちゃん」
「よかったね? 紅葉?」
「うん、ママもどうぞ」
紅葉は小室から貰ったグリッシーニを一本、小さな手で遥の口元へと運んだ。
「ありがとう、紅葉」
屈託のない紅葉の笑顔に遥は心が軋んだ。
今日、遥は会社を有給で休み、1時間前まで冴島とホテルで男女の関係を楽しんだ後だったのだ。
(ゴメンね、紅葉。悪いママで・・・)
遥は心の中で母親としての不貞を紅葉に詫びた。
だが、夫の光一郎に対しては不思議と罪悪感は無かった。
遥は出口のないラビリンスの中に迷い込んでいた。
冴島は取引先の総合商社の営業部長で妻子があり、最悪のダブル不倫だった。
しかしながら今の遥にとって冴島は、無くてはならない存在になっていた。
本当の自分をすべて曝け出すことのできる相手は冴島を置いて他にはいなかった。
夫の光一郎にさえも。
運ばれて来た冷えたビールが、冴島との行為に熱くなった体に滲みた。
10
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
★【完結】傷だらけのダイヤモンド(作品230411)
菊池昭仁
恋愛
真実の愛とは何でしょう?
ダイヤモンドのような強固な意志を持って生きる雪乃は、恋人だった真也との死別によって、男を愛することが出来なくなってしまう。
そんな雪乃は再び愛を取り戻すことが出来るのだろうか?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
★【完結】アントワープ恋物語(作品240120)
菊池昭仁
恋愛
元家族、恋人とも別れ、すべてを捨ててアントワープへやって来た北川伸之。
夫を失った声楽家、嶋村由紀恵。
ふたりは異国の地、アントワープで出会い、恋に落ちる。
冬のアントワープを舞台に、北川と由紀恵の切ない想いが交錯してゆく。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる