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9月22日(火)晴れ 入院17日目

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 ハンブルグから日本までは、約40日の航海だった。
 それに比べればまだ半分も経ってはいない。
 入院して17日目になったが、退院の目処はまだ立ってはいない。
 かなり深刻な状態なのだろう。
 明らかに眼科医たちは迷っているようだった。


 代わる代わる訪れる同室患者の見舞客たちにうんざりする。
 会いたい人に会えない自分。カーテン越しに楽しそうに談笑する人たちの声が耳障りだ。
 俺の心は荒んでいた。
 すべては自分の蒔いた種である。ベッドの周りが花や食物、そして愛すべき人たちの笑顔で囲まれるような生き方をしなければならない。人として。
 他人のしあわせを素直に喜べる人間に。
 
 
 
 ナースの山本さんは一番の美人だ。気が利いていつもやさしくしてくれる。
 旦那さんや彼氏さんはしあわせ者だ。良い行いをして来たのだろう。
 付き合う女がその男の価値を表す。男尊女卑になるかな?
 丸山さんはナイチンゲール、看護士の鑑のような人だ。
 いつも俺を気遣って励ましてくれる。
 まさに地獄に仏。いや女神か?
 


 いつからだろう、家族のことを見なくなったのは。
 豪華な食事も、旅行もプレゼントも、家族のことを見てしていなかった気がする。
 それはそれをしてやった自分に満足して、家族の反応を見ようともしなかったからだ。
 高級な鮨屋やフレンチレストラン、焼肉屋に連れて行っても俺は家族の食べている姿を見ていなかった。


      きっと喜んでくれているはず


 だが、本当は彼らは喜んではいなかったのだ。
 無理やり俺に付き合ってくれていた? 俺の自己満足のために?
 俺は怖い顔でそれをしていたのかもしれない。実に傲慢だった。



 色んな事業計画が頭を駆け巡る。
 だが問題は資金をどうするかだ。
 金を掛けずに出来ることはなんだろう? カネが欲しい。
 


 若い頃、中村天風師の思想を学ぶ機会を得た。
 いつのまにか俺は欲にまみれ、大切な天風哲学を忘れていたのだ。


      すべては心の状態が決める


 人間には生まれながらにして潜在意識が備わっている。
 潜在意識と顕在意識、そして超意識。
 否定も肯定もしない揺るぎない心。心耳を澄まして神の声を聴く。
 宇宙の神秘がそこにある。

 宮本武蔵は数々の命の遣り取りをした真剣勝負の中で、自分が「勝つか負けるなど考えたことはない」と言う。


      虚心平気

 
 心を穢してはならない。俺の思考は常に雑念に支配されていた。

 信念、暗示、内省検討。
 自分の心を常に見る。考えるのではなく感じることだ。

      病は気から

 病を忘れること。気に病まない。
 
 
      信念が人を創る


 自分の主人になることだ。雑念に惑わされず、自分の心を自分が支配しなければならない。
 今、私は変わろうとしているのだ。


      自己実現 心の中になりたい自分を想い描く


 自己暗示だ。私は出来る、俺はなりたい自分を心に思い描く。

 目が見えなくなると思えば見えなくなるし、死ぬかもしれないと思えば死ぬだろう。
 俺は自分の将来を不安に感じ、恐れているだけだ。
 考えるな、無になれ。


        迷故三界城
        悟故十方空


 天風師は仰る。


      人間は力の結晶である

 
 心はどこにあるのだろう?
 胸? 心臓というしな?
 それとも頭にある?
 心と思考、魂は別々に作用しているのか?

 入院して感じたことは、これらの3つはそれぞれに独立しているが、連携しているということだ。
 そして思考と魂は自分の肉体に存在するが、もしかすると心はカラダの外にあり、ラジオやテレビのように、天からの真理のメッセージを自分に伝えていただいているのかもしれない。

 

    心こそ 心惑わす心なれ
    心に心 心ゆるすな


 俺の入院生活での内省検討の日々は続いていた。
 焦るな。現実を静かに見詰め、まずはあるがままの自分を受け入れよう。
 良くなろうが悪くなろうが、善く生きることだ。

 
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