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9月9日(水)雨 入院4日目

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 雨が続いていた。俺の気持ちと同じ、雨。
 ラジオで台風18号が東海、近畿に上陸する可能性が高いと言っている。
 ラジオはいい。真実だけを端的に伝えてくれる。
 テレビのお天気オヤジのように、悪天候を嬉しそうに伝えることもない。
 ニュースを事実だけを伝えてくれる。
 悲惨な事はリアルに伝えない。
 「同居している男は、3歳の女の子に熱湯を掛け・・・」
 とは言わない。

 雨でも晴れでも、入院して目が不自由な今の私には、どうでも良かった。


 人生はサッカーのようなものかもしれない。
 相手選手の妨害を躱しながらゴール近くまでやって来ると、今度はゴールキーパーがゴールを守っている。
 ようやく放ったシュートが、キーパーによってガードされてしまう。
 そしてまた、相手選手の中を掻い潜り、シュート。
 またゴールを邪魔されてしまう。
 それを何度も何度も繰り返し、やっとゴール。
 歓喜に打ち震える。
 人生も同じだ。
 相手選手もゴールキーパーもいるからサッカーは面白い。
 そして自分もサッカーが上手くなる。
 相手選手の妨害も、キーパーもいないゴールにいくらシュートをしてもつまらない。
 人間には困難や障害が必要なのだ。


 若い頃、中村天風師の創設した、『天風会』で実践哲学を学んだ。
 当時、天風会の会長だった杉山彦一先生は、最初の講義で黒板にこう書かれた。


       How to Live?


 衝撃だった。「君は人間としていかに生きるか?」
 私はそう解釈した。

 天風師は言う、これを唱えて生活せよと。


      私は力だ

      力の結晶だ

      何ものにも打克つ力の結晶だ

      だから何ものにも負けないのだ

      病にも 運命にも

      否 あらゆるすべてのものに打克つ力だ

      そうだ!

      強い 強い 力の結晶だ


 
 人間は「力の結晶」であり、無限の可能性を秘めていると仰る。
 末期の結核となり、死を待つだけだった中村天風師はカリアッパ師と出会い、死の病を克服する。
 そうだ、俺は力の結晶体なのだ。
 
 「俺は失明する、もう駄目だ」

 と、くよくよ悩んでいても何にもならない。
 私は自分が病気であることを忘れることにした。

 背の高い奴や低い奴。太っている奴、痩せている奴。
 イケメンとそうでない奴。
 片手しかない奴、目が見えない奴。

 人間の肉体は魂の器でしかない。
 裕福な家に生まれようと、貧しい家に生まれようと、その与えられた環境の中で生きていくしかないのだ。
 人と違うのは「個性」なのだ。
 堂々と生きればいい。
 死ねば肉体は焼かれ、骨だけになる。
 大きな屋敷も高級車も、地位も名誉も、財産もすべて置いてあの世へ向かう。
 つまりすべては神様から与えていただいたレンタル品、借物なのだ。


 妹に電話をした。

 「どうしたのお兄ちゃん? 何かあった?」
 「昨日、手術をしたんだ」
 「どこを?」
 「左目だ」
 「大丈夫なの!」
 「ああ、お前の方はどうだ?」
 「私は大丈夫だよ。いつ退院出来るの?」
 「来週には退院出来ると思う」
 「そう。大変だったね?」
 「まあな」
 「退院したら退院祝いに一緒に飲もうね?」
 「そうだな」

 少し気分が軽くなった。
 医大で事務職をしている妹は東京に住んでいた。
 歳が離れていることもあり、娘みたいな存在だった。
 東京に行くと、たまに一緒に酒を飲んだりしていた。
 妹は親父に性格が似ていた。
 穏やかでいつも笑っているので友人も多く、職場の上司や同僚にも人気がある。

 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、家にも日本にいることが少なかった俺によく懐いていた妹。
 小さい頃はよくおんぶしてやったものだ。

 娘とは一緒に酒を飲んだことがなかった。息子とも同じだった。
 俺は仕事が忙しく、親父と一緒に酒を飲んだことは少なかったが、学校を卒業して初めて親父と酒を飲んだ時にはお互い照れくさかったのを覚えている。
 一緒に酒が飲みたい歳になって、親父はもう死んでしまった。
 
    「親孝行、したい時に親はなし」

 とはよく言ったものだ。

 
 どうしてこの世には善と悪が存在するのだろうか?
 なぜコインのように表裏一体で善悪が存在するのだろう?
 社会主義と資本主義。
 悪いことを経験することで良いことがわかるからなのか?
 良いことばかりでは魂が育たないからか?
 キリストはユダヤ人に磔にされ、釈迦も自身が悟りに近づいた時、魔王はそれを妨害しようと三人の魔女を送り込んだ。だが釈迦はその誘惑に負けることはなかったという。そして今度は悪魔の軍勢を率いて釈迦の瞑想を邪魔しようと矢を放ち、石や剣の雨を釈迦に注いだがそれらはすべて花びらに変わって行ったという。

 釈迦は悪魔に向かい、こう言ったそうだ。

 「汝ら悪魔の武器とは「快楽」「不平不満」「飢え」「むさぼり」「怠け心」「恐怖」「疑い」「虚栄心」「名誉欲」そして「傲慢」である」と。
 俺は悪魔に取り憑かれたままだ。

 悪と戦うことで人は成長する。
 神様は人の成長を喜んで下さる。


 交通事故で失明の危機にあった同僚が言っていた。
 彼は一級建築士の優秀な現場監督だった。

 「もうこれで本が読めなくなるのかと思うと、死のうかと思った」

 今、彼の気持ちがよくわかる。読みたかった本はたくさんあった。

 本当の喜びとは成長、進化である。自分も、そして他人に対してもだ。
 昨日より今日、今日より明日と人間は成長するために生きなければならない。
 筋トレには負荷が必要なように、人間の魂の成長にも苦悩が必要だ。

 聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして視覚。
 耳と鼻、手足や肺、腎臓、睾丸、卵巣など、重要な物にはスペアがある。
 船舶や航空機のように、安全を支える部分は二系統が備わっている。
 「こっちが壊れたらこっち」という具合に。
 そして最も大切なのが視覚、目だ。
 情報の90%以上は目から入ってくる。
 目が見えなくなる、光が消えるとはどんな感じなのだろうか?
 暗闇の中での生活。出口のないトンネルを歩くとは?
 俺はそれに耐えることが出来るのだろうか?


 医者になろうと考えたこともあったが、ここに入院して俺には無理だと思った。
 こんな過酷な仕事はない。
 治して当たり前、失敗すれば批難され、告訴され、そして自らも自責の念が拭えなくなる。
 たとえ医学部に入って医者になっても、精神的に脆弱な私はすぐに潰れてしまうだろう。

 「あなたの余命はあと半年です」

 と、死刑宣告をするのも辛いだろうが、

 「あなたは目が見えなくなります」

 という眼科医も過酷だ。
 それにより、自ら命を断つ者も少なくはないだろう。
 もちろん目が見えるように出来ればこれほど喜ばれる医者もいないだろうが殆どの場合、手術になる患者は手遅れか、完治する可能性の低い場合が多い筈だ。
 「目がおかしい」と感じた時点で、すでに病状は静かに進行しているからだ。


 ナースがやって来た。

 「菊池さん、体温と血圧を測りますねえ」

 やさしい手だった。
 彼女は点眼液を7本も差して去って行った。

 
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