上 下
7 / 9

第7話

しおりを挟む
 「明日はサボーナに行くからな? おやすみ悦子」
 「今日も凄く楽しかったです。おやすみなさい、陽一さん」

 そう言って悦子は私に「おやすみのキス」をすると、自分の部屋に入って行った。
 
 私も自室に入り、ソファに体を投げ出し、天井を眺めていた。

 今日も楽しい一日だった。
 美しいポルトフィーノの街を歩き、悦子との食事。
 ベッドを共にしないことを除けば、まさに新婚旅行の気分だった。

 私はこの心地よい余韻に更に深く浸りたいと思い、ホテルのバーラウンジに降りて行った。


 「バランタインの12年をロックで」
 「かしこまりました」

 私はタバコに火を点け、ようやく落ち着いた。

 やはり女として意識してしまった悦子といると、彼女を気遣う自分がいる。
 こうしてひとりでいる時間も悪くはない。
 私はネクタイを緩め、女房の裕子のことを考えていた。

 裕子は大学のスキーサークルの後輩だった。
 私のような自由気ままな男と結婚し、子供たちを育てるのは大変なことだったはずだ。
 会社が大きくなるにつれ、私のストレスも更に強くなっていった。
 私のストレス解消は酒と女だった。
 
 今も高田馬場のクラブホステス、千秋と1カ月に1度のペースで逢瀬は続いていた。
 千秋とはカラダの付き合いだけだった。
 千秋もそれ以上の関係を望むような女ではなかった。
 私たちはお互いに都合のいい関係だった。

 女房の裕子に対しての罪悪感はなかった。
 すでに私たち夫婦に恋愛感情はなく、ただダラダラと家族関係が続いているだけだったからだ。
 だから私の解釈として、それは浮気ではない。
 そして裕子とは10年以上もセックスレスだった。
 
 だが今回の旅行で悦子がただの仕事上のパートナーではないことを自覚してしまった今、私の心情は複雑だった。
 それは日本では見ることの出来なかった悦子の別な姿を知り、人妻でもなくなりそうな状況にあるからなのかもしれない。
 私は今日、レストランのテラスで海面の照り返しを受けて輝く、悦子を想い出していた。


 背後から悦子の声がした。

 「ズルいですよ陽一さん、自分だけお酒を飲むなんて」

 悦子が私の隣に座った。

 「今日はたくさん歩いたから、疲れていると思って誘わなかった。
 そして美女と一緒だと、緊張するからな?」
 「私も同じですよ。陽一さんといると凄く緊張します。
 私にはマルガリータを」
 「はい、奥様」

 バーテンダーは悦子の左手の薬指にある、結婚指輪を見逃さなかった。
 悦子が来たので、私はタバコの火を消した。

 「陽一さんのそういうさりげない気遣い、好きです」
 「別に悦子に気を遣ったわけじゃねえよ」
 「私も一本、貰ていいですか?」
 「タバコ、吸うのか?」
 「たまにですけどね? タバコを吸う女はキライですか?
 仕事でイラついている時とか、寂しい時、そして今みたいな時には吸いたくなります」
 「今みたいな時?」

 私は悦子にタバコを差し出し、ライターで火を点けてやった。
 悦子は物憂げに、軽くタバコの煙を吐いた。

 「あー、美味しいー。
 最近はよく吸うんですよ、私もタバコを」

 いい女がタバコを吸っている仕草は絵になるものだ。
 それは美人がオープンカーを自分で運転しているようなものに似ている。
 そのギャップがいいのだ。

 私は再びタバコに火を点けた。

 「今みたいな時とは、こんな時のことです」

 悦子は私の手に自分の手を重ねた。

 「マルガリータって、女の人の名前なんですよね?」
 「ああ、英語ではマーガレット。花の名前にもなっているよな? 確かこのカクテルを考えた、ジョン・デュレッサーの恋人の名だったはずだ」
 「じゃあ、このカクテルの意味もご存知?」
 「無言の愛」

 悦子がタバコを吸うと、火垂るのように煙草が赤く光っていた。
 悦子がマルガリータを口にした。

 「マルガリータがジョンと一緒に狩りに出掛けた時、彼のライフルの流れ弾が彼女に当たって死んでしまう。
 哀しいお話です」
 「自分が殺したようなものだからな? 
 愛すれど哀しくか・・・」
 「私も同じです。
 陽一さんの撃った流れ弾に当たって死にそうなんです」
 
 悦子は私に体を寄せた。
 私は心の中で呟いた。

 (それは俺も同じ気持ちだ)

 悦子の吸うタバコとトリートメントの甘い香りがした。

 俺の知らない悦子のもうひとつの扉が開きそうだった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

★【完結】ペーパームーンの夜に抱かれて(作品240607)

菊池昭仁
恋愛
社内不倫がバレて会社を依願退職させられてしまう結城達也。 それにより家族も崩壊させてしまい、結城は東京を捨て、実家のある福島市に帰ることにした。 実家に帰ったある日のこと、結城は中学時代に憧れていた同級生、井坂洋子と偶然街で再会をする。 懐かしさからふたりは居酒屋で酒を飲み、昔話に花を咲かせる。だがその食事の席で洋子は異常なほど達也との距離を保とうとしていた。そしてそれをふざけ半分に問い詰める達也に洋子は言った。「私に近づかないで、お願い」初恋の洋子の告白に衝撃を受ける達也。混迷を続ける現代社会の中で、真実の愛はすべてを超越することが出来るのだろうか?

★【完結】ダブルファミリー(作品230717)

菊池昭仁
恋愛
結婚とはなんだろう? 生涯1人の女を愛し、ひとつの家族を大切にすることが人間としてのあるべき姿なのだろうか? 手を差し伸べてはいけないのか? 好きになっては、愛してはいけないのか? 結婚と恋愛。恋愛と形骸化した生活。 結婚している者が配偶者以外の人間を愛することを「倫理に非ず」不倫という。 男女の恋愛の意義とは?

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

★【完結】海辺の朝顔(作品230722)

菊池昭仁
恋愛
余命宣告された男の生き様と 女たちの想い

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

★【完結】ドッペルゲンガー(作品230718)

菊池昭仁
現代文学
自分の中に内在する 自分たちとの対話

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...