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第10話 サルトルとボーボワール
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「五郎ちゃん、この人誰?」
アリスは私の書斎にある、黒縁メガネを掛けた斜視の男の写真を見ていた。
「サルトルだよ」
「何をした人?」
「哲学者だよ、実在主義の提唱者だ」
「偉い人なんだ」
「すごくモテたんだよ、サルトルは」
「写真ではちょっと怖いカンジだけど」
「それはその斜視と、圧倒的な存在感のある威厳がそう思わせるのかもしれないな。
ほら、よくいるだろう? なんとなく近寄り難い人が。
だが実際に話してみるとその人間的魅力に引き込まれてしまう。それがサルトルかもしれない。
サルトルとボーボワールの恋愛は有名な話だ。
ボーボワールは「第二の性」を書いた思想家で、教員の採用試験でサルトルが1番、彼女が2番だったそうだ。
結婚とは契約であり、恋愛は自由であるべきだと主張した。
性からお互いを解放することで、一夫多妻、一妻多夫を実現しようとした」
「えー、そんなの嫌だな。だってお互いの浮気を認めるってことでしょう?」
「そこが説明の難しいところだ。
まあ、俺はサルトルの研究者ではないから、これはあくまで俺の推論だ。
それはお互いがお互いに所有されず、自分の感情に素直でいようとしたんじゃないかと俺は思う」
「そのボーボワールって人はそれを了承したの?」
「始めはね? でも、彼女は男としてサルトルを深く愛してしまった。
彼女はその事実に悩み苦しんだそうだ。
ふたりは50年間もいっしょに暮らしたが、その間、サルトルは多くの女性たちと関係を持った。
おそらくボーボワールは辛かっただろう。
アリスもこれから色んな恋愛を経験するだろうが、恋愛には障害や苦悩は付き物だ。
生きることが魂の修業なら、結婚は試練だ。
好きになったり嫌いになったり、そのままずっと好きだったり、あるいはずっと嫌いになり、別れることもあるだろう。
結婚生活を長持ちさせる秘訣は、お互いを思い遣る気持ちが大切だと、結婚に失敗して俺はそれを知った。
相手を変えようとしてはいけない、自分が変わるしかないんだ。
自分が変われば相手が変わって見える。
茶筒だってそうだろう? 横から見れば長方形だが、上から見れば丸だ。
アリス、恋と愛の違いは分かるか?」
「どっちも同じでしょ? 恋愛って言うし」
「まず、恋は好きから始まる。「あの男性は爽やかで好き」ってな?
そしてそれが恋に変わる。「あの人のことがもっと知りたい、デートしたい、抱き締めて欲しい」と、それは「相手に対する要求」だ。
つまりああしたい、こうしたいという欲望だ。
でもそれが愛に変わると、「無償の愛」になる。
見返りを求めない、相手に尽くす行為が愛だと俺は思う。
take & take give & take そして give & give へと進化を遂げていく。
与えて与えて、与え続けるのが本当の愛だ。
そしてそれがお互いにそう思えた時、それが永遠の愛、純愛に変わる」
「じゃあサルトルとボーボワールは恋なの?」
「いや、凄まじい純愛だったと俺は思う。
サルトルはボーボワールのことを忘れなかった。どんな女を抱いてもだ。
サルトルは自分の主義思想を貫くために、敢えて自分の良心にナイフを入れ続けた。
不倫している男も女もクズだというが、女房や旦那のことを考えない奴はいない。
みんなそれなりに苦しみ悩んでいる。人間的な良心、善がある限りな?
恋で終わればかすり傷、だが愛に発展してしまうと厄介だ。自分にメスを入れる、苦痛を伴う手術が必要だ。
それでもサルトルとボーボワールは別れなかった」
「私にはわからないわ、なぜ二人は別れなかったのか?」
「若くて美しい女性もイケメン君も、いつかは見慣れてしまい、老人になっていく。
外見に惚れた場合、それがいつしか自分の偶像崇拝であったことに気付くだろうが、その人間の精神性に惚れた場合、そこに老いはなくなる。
愛が永遠と呼ばれる所以がそれだ。
身体は衰え、醜くなってもその愛は変わらない。
サルトルとボーボワールは精神で結ばれていたんだ。
サルトルが死んだ時、5万人もの人たちが弔問に訪れ、彼の死を悼んだ。
それだけ彼は多くの人間に影響を与えた思想家だったんだ。
フランス人が性に対して寛容なのも、あるいはサルトルの思想が反映しているのかもしれない。
フランスの政財界人や文化人の多くにも愛人がいる。
結婚は神の前での契約であり、離婚はその反故に当たるため、キリスト教徒では罪の意識が強い。
財産や血脈、子孫を残すために結婚という契約が存在し、恋愛はその外に求めるものだというのが彼らの主張だ。
でもそれは白人社会だけではない。日本も江戸時代になるまでは滅茶苦茶だった。
徳川だってあんな都合のいい「大奥」なんて作ったんだからな?
太平洋戦争に日本が破れるまでは、二号さんやお妾さんもいた。
そしてそれが男の甲斐性でもあった。
子供も認知し、生活の面倒もみたんだからな? 今のゲス不倫とは違う。だから不倫なんだ、「倫理に非ず」になる」
「五郎ちゃんは奥さんの他に愛した人はいたの?」
「もう忘れたよ、でも女房を苦しめたのは事実だ」
「酷い五郎ちゃん」
「俺もそう思うよ、俺は悪人だ」
「でも、それでも五郎ちゃんは好きだよ」
「ありがとうアリス。
そうだ、そろそろ日本食が食いたい頃だろう? 今夜は寿司でも食いにいくか?」
「うん、行く行く!
本当はお寿司とか、ラーメンとか天ぷらが食べたかったんだ!」
「よし、日本のメシを食いに行くか? 用意しておいで、出掛けよう」
アリスはとても嬉しそうだった。
アリスは私の書斎にある、黒縁メガネを掛けた斜視の男の写真を見ていた。
「サルトルだよ」
「何をした人?」
「哲学者だよ、実在主義の提唱者だ」
「偉い人なんだ」
「すごくモテたんだよ、サルトルは」
「写真ではちょっと怖いカンジだけど」
「それはその斜視と、圧倒的な存在感のある威厳がそう思わせるのかもしれないな。
ほら、よくいるだろう? なんとなく近寄り難い人が。
だが実際に話してみるとその人間的魅力に引き込まれてしまう。それがサルトルかもしれない。
サルトルとボーボワールの恋愛は有名な話だ。
ボーボワールは「第二の性」を書いた思想家で、教員の採用試験でサルトルが1番、彼女が2番だったそうだ。
結婚とは契約であり、恋愛は自由であるべきだと主張した。
性からお互いを解放することで、一夫多妻、一妻多夫を実現しようとした」
「えー、そんなの嫌だな。だってお互いの浮気を認めるってことでしょう?」
「そこが説明の難しいところだ。
まあ、俺はサルトルの研究者ではないから、これはあくまで俺の推論だ。
それはお互いがお互いに所有されず、自分の感情に素直でいようとしたんじゃないかと俺は思う」
「そのボーボワールって人はそれを了承したの?」
「始めはね? でも、彼女は男としてサルトルを深く愛してしまった。
彼女はその事実に悩み苦しんだそうだ。
ふたりは50年間もいっしょに暮らしたが、その間、サルトルは多くの女性たちと関係を持った。
おそらくボーボワールは辛かっただろう。
アリスもこれから色んな恋愛を経験するだろうが、恋愛には障害や苦悩は付き物だ。
生きることが魂の修業なら、結婚は試練だ。
好きになったり嫌いになったり、そのままずっと好きだったり、あるいはずっと嫌いになり、別れることもあるだろう。
結婚生活を長持ちさせる秘訣は、お互いを思い遣る気持ちが大切だと、結婚に失敗して俺はそれを知った。
相手を変えようとしてはいけない、自分が変わるしかないんだ。
自分が変われば相手が変わって見える。
茶筒だってそうだろう? 横から見れば長方形だが、上から見れば丸だ。
アリス、恋と愛の違いは分かるか?」
「どっちも同じでしょ? 恋愛って言うし」
「まず、恋は好きから始まる。「あの男性は爽やかで好き」ってな?
そしてそれが恋に変わる。「あの人のことがもっと知りたい、デートしたい、抱き締めて欲しい」と、それは「相手に対する要求」だ。
つまりああしたい、こうしたいという欲望だ。
でもそれが愛に変わると、「無償の愛」になる。
見返りを求めない、相手に尽くす行為が愛だと俺は思う。
take & take give & take そして give & give へと進化を遂げていく。
与えて与えて、与え続けるのが本当の愛だ。
そしてそれがお互いにそう思えた時、それが永遠の愛、純愛に変わる」
「じゃあサルトルとボーボワールは恋なの?」
「いや、凄まじい純愛だったと俺は思う。
サルトルはボーボワールのことを忘れなかった。どんな女を抱いてもだ。
サルトルは自分の主義思想を貫くために、敢えて自分の良心にナイフを入れ続けた。
不倫している男も女もクズだというが、女房や旦那のことを考えない奴はいない。
みんなそれなりに苦しみ悩んでいる。人間的な良心、善がある限りな?
恋で終わればかすり傷、だが愛に発展してしまうと厄介だ。自分にメスを入れる、苦痛を伴う手術が必要だ。
それでもサルトルとボーボワールは別れなかった」
「私にはわからないわ、なぜ二人は別れなかったのか?」
「若くて美しい女性もイケメン君も、いつかは見慣れてしまい、老人になっていく。
外見に惚れた場合、それがいつしか自分の偶像崇拝であったことに気付くだろうが、その人間の精神性に惚れた場合、そこに老いはなくなる。
愛が永遠と呼ばれる所以がそれだ。
身体は衰え、醜くなってもその愛は変わらない。
サルトルとボーボワールは精神で結ばれていたんだ。
サルトルが死んだ時、5万人もの人たちが弔問に訪れ、彼の死を悼んだ。
それだけ彼は多くの人間に影響を与えた思想家だったんだ。
フランス人が性に対して寛容なのも、あるいはサルトルの思想が反映しているのかもしれない。
フランスの政財界人や文化人の多くにも愛人がいる。
結婚は神の前での契約であり、離婚はその反故に当たるため、キリスト教徒では罪の意識が強い。
財産や血脈、子孫を残すために結婚という契約が存在し、恋愛はその外に求めるものだというのが彼らの主張だ。
でもそれは白人社会だけではない。日本も江戸時代になるまでは滅茶苦茶だった。
徳川だってあんな都合のいい「大奥」なんて作ったんだからな?
太平洋戦争に日本が破れるまでは、二号さんやお妾さんもいた。
そしてそれが男の甲斐性でもあった。
子供も認知し、生活の面倒もみたんだからな? 今のゲス不倫とは違う。だから不倫なんだ、「倫理に非ず」になる」
「五郎ちゃんは奥さんの他に愛した人はいたの?」
「もう忘れたよ、でも女房を苦しめたのは事実だ」
「酷い五郎ちゃん」
「俺もそう思うよ、俺は悪人だ」
「でも、それでも五郎ちゃんは好きだよ」
「ありがとうアリス。
そうだ、そろそろ日本食が食いたい頃だろう? 今夜は寿司でも食いにいくか?」
「うん、行く行く!
本当はお寿司とか、ラーメンとか天ぷらが食べたかったんだ!」
「よし、日本のメシを食いに行くか? 用意しておいで、出掛けよう」
アリスはとても嬉しそうだった。
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