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第20話
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「家畜」としての一年生の寮生活は過酷だったが、学校の前がすぐ海であり、私はすっかり海に魅了されてしまった。
周囲を山に囲まれた会津盆地で育った私には、何もかもが新鮮だった。
日本海に沈む夕日を見ていると、寂しさも、嫌なこともすべて忘れることが出来た。
友だちも出来た。何でも話せる親友が。
日本全国、様々なところからやって来た仲間から、色んなことを教えられた。
ファッションから音楽、食べ物や思想、文化、そして文学。
「それ、何を髪につけてんだ?」
「ヘア・リキッドだよ。これで髪を整えるんだ。ほら、菊池も使ってみろよ」
初めてヘア・リキッドを見た。いい香りがした。
私は早速資生堂『VINTAGE』のヘア・リキッドを買った。
神戸の友だちと街に出て、ラーメンと餃子を食べた。
ハイセンスな神戸から来た友人は、私の師匠だった。
育ちの良さとずば抜けた実行力のある男だった。
私のように目的もなく入学した学生とは違い、彼にはカーフェリー、『サンフラワー号』のキャプテンになるという、明確な夢があった。
友人はラー油と醤油、そして酢を入れて餃子のタレを作って食べていた。
私は小学校二年生の時から母と餃子を作っていたが、外で餃子を食べたことがなかった。
家で餃子を食べる時は、とんかつソースとゴマ油で食べていた。それが餃子の食べ方だと信じていた。
餃子をラー油と酢醤油で食べることをその時初めて知った。
思えば子供の頃から、外食と言えばデパートの食堂で食べる、カレーかミートソースの二者択一だった。
父はテーブルに置いてあった、10円を入れてレバーを回すと出てくる、柿ピーをつまみに瓶ビールを飲むだけで、食事を頼むことはなかった。
お子様ランチは贅沢品だと思い、親にねだったことはない。
小学校一年生の時、父がボーナスを多く貰ったお祝いにと、生まれて初めて寿司屋に連れて行ってもらった。
その時、握り鮨の旨さに感動した私は、お替りを申し出たか親に黙殺され、代わりに「かんぴょう巻き」を食べさせられた。
富山に行って、世の中には美味い物が沢山あることを知った。
特にカツカレーには感動した。
「こんなに美味しい食べ物があるんだ!」
と思った。
毎月の仕送りは限られていたので、そう贅沢は出来ない。
それでも離れて暮らす息子のためにと、父と母は懸命に働き、私の学費と仕送り、そして毎月、ダンボールに一杯の食料や衣服を送ってくれた。
親のありがたさを知った。
よく友だちと海に出掛けた。防波堤に座り、「浜缶」をした。
「浜缶」とは海辺で飲む缶ビールのことである。
海の前に老婆がひとりで営む小さな萬屋があり、そこで一本の沢庵と缶ビールを買い、沢庵の回し食いをしながらビールを飲んで、みんなでボーっと海を眺めていた。
未成年の私たちはタバコを吸い、酒を飲んだ。
ZIPPOライターでカッコよく火を点けるのが流行りだった。
ビールは苦くて美味いとは思わなかったが、何しろ成人している上級生も同じ寮なので、強制的に酒を飲まされていた。
酒もタバコもやらに奴は男じゃないと思われていた。
商船大学ではビールの一気飲みだけではなく、コップ一杯の醤油の一気飲みもあったらしい。腎臓がやられてしまう。
毎年のように急性アルコール中毒で救急車が来ていたそうだ。
当時の船乗りは「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」と教えられたが、頭脳明晰、酒にタバコは当たり前、女にモテて、喧嘩が強くなければ商船士官ではないと思われていた。
アメリカのハードボイルド小説家、レイモンド・ソーントン・チャンドラーは言う。
タフでなければ生きては行けない
やさしくなければ生きている資格はない
まだガキだった私は、そんなカッコいい男になりたかった。
コークハイ、オレンジジュースを『樹氷』で割ってスクリュードライバーだと言ってよく飲んで吐いた。
当時はそれも修行のウチだった。強くなるために泣きながら酒を飲んだ。
夜、22時の就寝前の点検が終わり、寮を抜け出して私たちは5、6人でバスに乗り、新湊市内のスナックに飲みに出かけた。
16歳である。「集団就職で田舎から出て来ました」と言うと、地元のおじさんが酒を奢ってくれた。
サントリー・オールドの水割りを飲んで、カラオケを歌った。
週末になると友だちと連れ立って近所のスーパーで酒とつまみを買い、こっそり寮の部屋で酒盛りをした。
当直教官に見つかったら停学である。足音にドキドキしながら電気を消し、懐中電灯で酒盛りをした。
酒が入ると饒舌になり、自分の境遇の話もした。
親のことや兄弟のことなど、とても中学の同級生に話せないことを泣きながら話をした。
その友人たちとは今でも付き合いがある。
というより、私たち商船学生は何十年疎遠であろうと、再会すればすぐに学生時代の親友に戻ることが出来た。
義兄弟だった。
学園祭は3年に一度だったが、学寮祭は毎年あった。
寮祭に来る女子は先輩の彼女たちが殆どだった。
色んな催しがあった。映画にコンサート、ディスコなどもあった。
映画は『仁義なき戦い 広島編』だった。ウチの学校らしいと思った。
歓楽街でヤクザに因縁をつけ、ビール瓶で頭を殴りつけてくるような先輩たちである。
寮に暴走族が来たことがあったが、ある先輩の一声でみんな引き上げて行ったほどである。
その方面では一目置かれていた学校だった。
富山女子短期大学の学生がアンサンブル・コンサートを開いてくれて、その時初めて『G線上のアリア』を聴いて泣いた。
(なんて美しい音楽なんだろう!)
夜は体育館でディスコ・パーティだった。
一年生の私たちは誰も踊れず、壁際で固まっていると、
「一年子! 踊らんかい! しばくぞコラッ!」
しばかれたくはないからタコ踊りをした。
ディスコなんか行ったことも踊ったこともなかった。
自校の練習船「若潮丸」という、300トン程の船で富山湾を日帰り実習航海をした。
船に乗るのは初めてだったので、船酔いが心配だった。
案の定、本船が岸壁を離れてすぐ、船酔いをしてしまった。
「これで酔うなんて、運輸省の航海訓練所の帆船日本丸でハワイだなんて、絶対に死ぬよ」
と、舷側から顔を出して、吐きながら友人たちと話しをした。
寮に帰っても、まだ体が揺れている感覚があった。
「三年生になったらここを辞めて、陸上自衛隊に入隊するしかない」と真剣に思った。
何人かが学校を去って行った。
ホームシックになった奴、勉強についていけなかった奴、寮生活に馴染めず、先輩から目を付けられた奴など、様々だった。
中学から暴走族だった面白い奴がいた。
「喧嘩ってえのはなあ、死ぬまでやるんだでえ」
と、いつもツッパっていて、リーゼントをポマードでバッチリと固め、トカゲの革製の先が尖った靴を、彼の父親とお揃いで履いている奴だった。
売店で販売していた英文で解説が書かれた、レーダー・プロッティング・シートを見て、
「こんな凄えことやってんだぜってダチに見せてやりてえなあ」
と言って、いつの間にかいなくなっていた。
アイツは今、孫と遊んでいるのかもしれない。好々爺になって。
イヤになったら辞めればいいという連中は恵まれている。
俺は辞めるわけにはいかなかった。
周囲を山に囲まれた会津盆地で育った私には、何もかもが新鮮だった。
日本海に沈む夕日を見ていると、寂しさも、嫌なこともすべて忘れることが出来た。
友だちも出来た。何でも話せる親友が。
日本全国、様々なところからやって来た仲間から、色んなことを教えられた。
ファッションから音楽、食べ物や思想、文化、そして文学。
「それ、何を髪につけてんだ?」
「ヘア・リキッドだよ。これで髪を整えるんだ。ほら、菊池も使ってみろよ」
初めてヘア・リキッドを見た。いい香りがした。
私は早速資生堂『VINTAGE』のヘア・リキッドを買った。
神戸の友だちと街に出て、ラーメンと餃子を食べた。
ハイセンスな神戸から来た友人は、私の師匠だった。
育ちの良さとずば抜けた実行力のある男だった。
私のように目的もなく入学した学生とは違い、彼にはカーフェリー、『サンフラワー号』のキャプテンになるという、明確な夢があった。
友人はラー油と醤油、そして酢を入れて餃子のタレを作って食べていた。
私は小学校二年生の時から母と餃子を作っていたが、外で餃子を食べたことがなかった。
家で餃子を食べる時は、とんかつソースとゴマ油で食べていた。それが餃子の食べ方だと信じていた。
餃子をラー油と酢醤油で食べることをその時初めて知った。
思えば子供の頃から、外食と言えばデパートの食堂で食べる、カレーかミートソースの二者択一だった。
父はテーブルに置いてあった、10円を入れてレバーを回すと出てくる、柿ピーをつまみに瓶ビールを飲むだけで、食事を頼むことはなかった。
お子様ランチは贅沢品だと思い、親にねだったことはない。
小学校一年生の時、父がボーナスを多く貰ったお祝いにと、生まれて初めて寿司屋に連れて行ってもらった。
その時、握り鮨の旨さに感動した私は、お替りを申し出たか親に黙殺され、代わりに「かんぴょう巻き」を食べさせられた。
富山に行って、世の中には美味い物が沢山あることを知った。
特にカツカレーには感動した。
「こんなに美味しい食べ物があるんだ!」
と思った。
毎月の仕送りは限られていたので、そう贅沢は出来ない。
それでも離れて暮らす息子のためにと、父と母は懸命に働き、私の学費と仕送り、そして毎月、ダンボールに一杯の食料や衣服を送ってくれた。
親のありがたさを知った。
よく友だちと海に出掛けた。防波堤に座り、「浜缶」をした。
「浜缶」とは海辺で飲む缶ビールのことである。
海の前に老婆がひとりで営む小さな萬屋があり、そこで一本の沢庵と缶ビールを買い、沢庵の回し食いをしながらビールを飲んで、みんなでボーっと海を眺めていた。
未成年の私たちはタバコを吸い、酒を飲んだ。
ZIPPOライターでカッコよく火を点けるのが流行りだった。
ビールは苦くて美味いとは思わなかったが、何しろ成人している上級生も同じ寮なので、強制的に酒を飲まされていた。
酒もタバコもやらに奴は男じゃないと思われていた。
商船大学ではビールの一気飲みだけではなく、コップ一杯の醤油の一気飲みもあったらしい。腎臓がやられてしまう。
毎年のように急性アルコール中毒で救急車が来ていたそうだ。
当時の船乗りは「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」と教えられたが、頭脳明晰、酒にタバコは当たり前、女にモテて、喧嘩が強くなければ商船士官ではないと思われていた。
アメリカのハードボイルド小説家、レイモンド・ソーントン・チャンドラーは言う。
タフでなければ生きては行けない
やさしくなければ生きている資格はない
まだガキだった私は、そんなカッコいい男になりたかった。
コークハイ、オレンジジュースを『樹氷』で割ってスクリュードライバーだと言ってよく飲んで吐いた。
当時はそれも修行のウチだった。強くなるために泣きながら酒を飲んだ。
夜、22時の就寝前の点検が終わり、寮を抜け出して私たちは5、6人でバスに乗り、新湊市内のスナックに飲みに出かけた。
16歳である。「集団就職で田舎から出て来ました」と言うと、地元のおじさんが酒を奢ってくれた。
サントリー・オールドの水割りを飲んで、カラオケを歌った。
週末になると友だちと連れ立って近所のスーパーで酒とつまみを買い、こっそり寮の部屋で酒盛りをした。
当直教官に見つかったら停学である。足音にドキドキしながら電気を消し、懐中電灯で酒盛りをした。
酒が入ると饒舌になり、自分の境遇の話もした。
親のことや兄弟のことなど、とても中学の同級生に話せないことを泣きながら話をした。
その友人たちとは今でも付き合いがある。
というより、私たち商船学生は何十年疎遠であろうと、再会すればすぐに学生時代の親友に戻ることが出来た。
義兄弟だった。
学園祭は3年に一度だったが、学寮祭は毎年あった。
寮祭に来る女子は先輩の彼女たちが殆どだった。
色んな催しがあった。映画にコンサート、ディスコなどもあった。
映画は『仁義なき戦い 広島編』だった。ウチの学校らしいと思った。
歓楽街でヤクザに因縁をつけ、ビール瓶で頭を殴りつけてくるような先輩たちである。
寮に暴走族が来たことがあったが、ある先輩の一声でみんな引き上げて行ったほどである。
その方面では一目置かれていた学校だった。
富山女子短期大学の学生がアンサンブル・コンサートを開いてくれて、その時初めて『G線上のアリア』を聴いて泣いた。
(なんて美しい音楽なんだろう!)
夜は体育館でディスコ・パーティだった。
一年生の私たちは誰も踊れず、壁際で固まっていると、
「一年子! 踊らんかい! しばくぞコラッ!」
しばかれたくはないからタコ踊りをした。
ディスコなんか行ったことも踊ったこともなかった。
自校の練習船「若潮丸」という、300トン程の船で富山湾を日帰り実習航海をした。
船に乗るのは初めてだったので、船酔いが心配だった。
案の定、本船が岸壁を離れてすぐ、船酔いをしてしまった。
「これで酔うなんて、運輸省の航海訓練所の帆船日本丸でハワイだなんて、絶対に死ぬよ」
と、舷側から顔を出して、吐きながら友人たちと話しをした。
寮に帰っても、まだ体が揺れている感覚があった。
「三年生になったらここを辞めて、陸上自衛隊に入隊するしかない」と真剣に思った。
何人かが学校を去って行った。
ホームシックになった奴、勉強についていけなかった奴、寮生活に馴染めず、先輩から目を付けられた奴など、様々だった。
中学から暴走族だった面白い奴がいた。
「喧嘩ってえのはなあ、死ぬまでやるんだでえ」
と、いつもツッパっていて、リーゼントをポマードでバッチリと固め、トカゲの革製の先が尖った靴を、彼の父親とお揃いで履いている奴だった。
売店で販売していた英文で解説が書かれた、レーダー・プロッティング・シートを見て、
「こんな凄えことやってんだぜってダチに見せてやりてえなあ」
と言って、いつの間にかいなくなっていた。
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