未完成交響曲

菊池昭仁

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第9話

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 子供の頃に住んでいた埼玉の大宮は、東京のベッドタウンということもあり、子供の教育には熱心な地域だった。
 英会話スクールにスパルタ式学習塾などに通うクラスメイトも多かった。
 そして目指すは浦和高校。そんな時代だった。

 私の小学校は生徒数がどんどん増えて行き、ひと学年が45人学級で15クラスもあった。
 教室が間に合わず、臨時のプレハブ教室で急場を凌いでいた。

 体育館などはなく、全校集会はいつも校庭で、雨の日は教室で校長先生たちの校内放送を聴いた。
 会津の学校に転校して初めて体育館を見た。
 水銀燈の眩しさに驚いた。

 どうでもいい校長先生の長い訓話を「休め」の姿勢で立って聞いていると、バタバタと生徒が倒れ、中には失禁してしまう子もいた。
 体育館の長時間の集会は、今も同じなんだろうか?


 学区内には大きな低所得者向けの公営住宅があり、私はそこの「スラム街」で育った。

 分譲マンションも多く、戸建てやマンションに住む子供たちは家にピアノやエアコンもあるような裕福な家庭だった。

 「住む世界が違う」と、子供ながらにそう感じていた。

 スラム街に住む子供と、恵まれた環境で暮らす子供が同じ教室で学ぶ矛盾。

 
 私のクラスは公立の小学校でありながら、クラスの半分は帰国子女だった。
 転校して来る子供もしょっちゅだった。

 「ラオスから来ました」
 「マレーシアから来ました」
 
 ニューヨークから来た女の子はフランス人形のような子で、みんなから一目置かれていた。
 話し掛けることも憚られた。

 「おい、英語で何か話してみろよ」

 だが彼女は何も話さなかった。
 「大人だな?」と思った。

 私は尊敬する父にそのことを話し、こうせがんだ。

 「パパ、何か英語を書いてよ」

 すると父は笑って、

 
     This is a Pen


 と広告の裏紙に書いて渡してくれた。

 
 翌日、私はその父の書いてくれた英語の紙を、自信たっぷりにその女の子に見せた。
 私は英語も出来る父を自慢したかったのだ。
 
 「これってどういう意味だ?」
 「これは「これはペンです」という意味よ」

 英語なんて知らない私は、彼女と父を改めて尊敬した。

 そして彼女はいつの間にかまた、ニューヨークへと帰って行った。


 学力の差は歴然だった。
 近くにはいくつか大学もあり、その当時は学生運動も盛んで、公安に追われた学生が、友人の家の庭に鉄パイプ爆弾を置いて逃げたこともあった。

 大学教授の息子もいて、いつも弁舌さわやかに、理路整然と話しをする生徒だった。
 男子でもピアノが弾ける子供もたくさんいた。

 音楽の時間、先生が言った。

 「馬場君、『トルコ行進曲』を弾いてみて」

 すると彼はおもむろにピアノの蓋を開け、その曲を弾き始めた。
 まだ小学校の2年生でモーツァルト。
 私は彼が宇宙人なのではないかと思った。
 そんな生徒がゴロゴロいた。
 

 東京電力の社員寮に住んでいた女子に言われたことがある。

 「アンタは黙っていなさいよ、馬鹿なんだから」

 私もそうだと思っていたので気にならなかった。
 勉強が出来ない私は軽蔑されていた。

 
 クラスメイトの将来の夢は、野球選手や医者、外交官や大学教授が多い中で、私はただ、強くなりたかった。
 スラム街の子供たちと取っ組み合いのケンカをすると、いつも泣かされていたからだ。

 勉強は出来ない、ケンカも弱い。
 いいところはなにもない小学生だった。

 父も母も私の将来に期待をしてはいなかった。
 子供は怪我や病気もせず、早く社会に出て自分で稼げるようになってくれればそれでいいと思っていた。

 家に児童書といえば母親が内職をしていた会社の社長夫人がくれた、イソップ童話とグリム童話。
 そしてジュール・ベルヌの『海底2万マイル』だけだった。
 あと、いただき物の飛び出す絵本があったような気がする。

 通信簿は1こそなかったが、2と3ばかりが並び、教師の記入欄には「落ち着きがない」といつも書かれていた。


 学用品はいつも最低限の物しか買って貰えなかった。
 色鉛筆は12色の紙の入れ物のやつだった。
 みんなが28色の缶入りの色絵筆や48色の色鉛筆を自慢している時には惨めな思いをした。
 だから年の離れた妹や、自分の子供たちにはなるべくいい物を買い与えた。

 学校行事で自分が写っている写真も買ったことがない。
 だから私には小学校時代の写真が殆どない。

 母に「買って欲しい」とか「学校でお金が必要なんだけど」と言うのが苦痛だった。

 宿題のプリントをしている時、消しゴムがなくなっていることに気づいた私は、指に唾をつけて間違った箇所を擦って消した。

 給食費もそうだった。

 「どうして毎月パパのお給料の前なのかしらねえ。
 パパの給料日まで待ってもらいなさい」

 そう言う母だった。

 「菊池、給食費は?」
 「忘れました・・・」

 当時はたまに給食費がなくなることがあり、疑われるのはいつもスラム街の私たちだった。

 「全員目を閉じて。間違えを犯した者は静かに手をあげなさい」

 自分がやっていなくても、イヤだった。
 お金がないということはそういうことなのかと悲しくなった。
 その時私は思った。
 結局人間は、「どの家に生まれるかで人生が決まるのだ」と。

 私の家は借金もなく、僅かだが貯金もあったはずだが子供には無関心な親だった。


 小学校3年生の頃だっただろうか? 団地の中に少年野球チームが出来ることになり、そこに入ることを勧めてくれたのは、意外にも母だった。

 「野球やったら?」と。

 並んでユニフォームをもらう時、なぜかみんな笑って並ぶ順番を変わったりしていた。
 私は彼らがどうして度々並ぶ順番を変わるのか分からなかった。
 何しろ100人近くいるチームだ。背番号も2桁代の後半になるのも当然である。
 みんなジャイアンツの有名選手の背番号に憧れていた。
 ユニフォームの入った箱には小さくボールペンで中に入っている背番号がわかるようになっていたのは私が知ったのは、その箱を手にした時だった。
 私は間抜けな子供だったので、そのままユニフォームの入った箱を受け取った。
 
 背番号「50」。

 監督のような背番号だった。
 私は母に頼んで「0」を剥がしてもらい、中央に「5」を付け替えてもらったが、背中には50の跡が残ってしまっていた。


 隣に住んでいた、子供がまだいなかったご主人からバットをプレゼントしてもらった。

 だが問題はグローブだった。
 私のグローブは父の会社で昼休みにキャッチボールで使っていた、ベーブ・ルースが使っていたような代物で、野犬に齧られて中綿がはみ出た物だった。

 コーチは当番制だったので、父も練習に参加した時もあった。

 私がいつものようにチームメイトたちに囲まれて、

 「何だお前のグローブ? 戦争中のやつじゃねえのか?」

 と、みんなに笑われていた。

 それを離れたところから見ていた父が、家で晩酌を始めると母に言った。

 「昭仁にグローブを買ってやれ」

 私はその時泣いたことを覚えている。
 それは新しいグローブを買ってもらえるといううれしさの涙ではなく、みんなが持っている新しいグローブすら買って貰えなかった悔し涙だった。

 私は翌日、母とスポーツ店に行き、いちばん安いグローブを買ってもらい、友だちに教えてもらいながら毎日新品のグローブに油を塗り、ボールを入れて形を整えた。
 そのグローブだけは今も大切に捨てずに取ってある。


 それから私は野球が好きになり、いつの間にかピッチャーで4番を打つ、大谷翔平のような二刀流としてレギュラーにまでなることが出来た。

 だが本格的に野球をするにはカネがかかる。
 私は会津に転校してからは水泳部に入り、平泳ぎでは会津若松市の大会で3位になり、当然中学でも水泳を続けるだろうと、同じ水泳をしていた友だちはそう思っていた。
 水泳は海水パンツがあればそれで良かったからだ。

 だが私は柔道部に入ってしまった。
 水泳部に体験入部しに行く途中、体育館で柔道をしている先輩たちに、

 「おいそこの1年生、柔道やらねえか? 柔道」

 そしていつの間にか柔道着を着せられ、柔道部に入部させられた。
 柔道を習うことでそれが自信となり、私は学年で一番強くなった。

 私の将来の夢が実現された。


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