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第8話
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子供の頃はヘンな食べ物が好きだった。
砂糖を大さじ3杯も入れたミルク珈琲に食パンを浸して食べたり、『おしるこ』という和風クッキーが好きだったりした。
中でも私のお気に入りは、金魚の形をしたスナック菓子だった。
「あの金魚さんのお菓子が食べたいの!」
と、ベソをかいて母に訴え、母はそんな私を見て大笑いをして、私を連れて近所の雑貨屋でその金魚の菓子を買ってくれた。
その菓子を偶然、スーパーマーケットで見つけたが、今はそれほど食べたいとは思わない。
食べることが好きだった。
それは両親の影響が強いと思う。
母も父も、自分の食に対するこだわりが強い人だった。
「私はサントリーの烏龍茶しか飲まないわ」
とか、
「アンコは「つぶあん」じゃなきゃダメよ」
と、母は言っていたものだ。
母は料理上手だった。
特に母が得意だったのが「中華そば」だった。
私が富山の商船高専から帰省すると、母によく中華そばを作って欲しいとねだったものだ。
母は中学を出て横浜の理髪店で奉公した後。一時、横浜の中華食堂で、住込みで働いていたことがあったそうで、母の作る中華そばは絶品だった。
「チャーシュウを作る時はね、蒸したら絶対に生醤油だけで煮詰めるのよ」
母はトウモロコシもサツマイモもよく、蒸し器を使った。
茹でると旨味もに逃げるからだという。
昔、家に瞬間湯沸かし器がなく、母は冷たい水道水で洗い物をして、いつも「あー、冷たい」と、手を真っ赤にして洗い物をしていた。
殆どの家には小さな瞬間湯沸かし器があった。
私の夢は、母に瞬間湯沸かし器をプレゼントしてあげることだった。
私たち家族は会津を離れて埼玉県の大宮に引っ越して来たので頼る親戚もなく、母が寝込むと、帰りの遅い父を待っているわけにはいかず、食事は私が作った。
当時、まだ小学校2年生だった私は、まだ生まれたばかりの妹を背中におんぶしながら、米を研いだ。
その頃からよく母に料理の手ほどきを受けた。
母はよくそんな私を笑って言った。
「男は台所に立つもんじゃないわよ。出世しなくなるから」
母の予言通り、私は出世しなかった。
子供の時、父によくお酌をした。
父は子供にビールやウイスキーを注いでもらうのが好きだった。
小さかった私がビール瓶を両手に抱え、父の三ツ矢サイダーのコップにビールを慎重に注ごうとした時、それを父が制した。
「コップにまだビールが残っているうちには、継ぎ足してはダメなんだよ。
ビールが不味くなるからね?」
蕎麦が好物だった父だが、七味がないと蕎麦を食べない人だった。
そんな父が私がまだ幼稚園だった頃にゆで卵を作ってくれた。
そのゆで卵が衝撃だった。
卵を茹でて、黄身と白身に分けて白身をザク切りにして、その上に黄身をザルで裏ゴシしてその上にふりかけ、そこに砂糖と醤油を掛けて食べさせてくれた時は、父が神に思えた。
父に何度もそのゆで卵をせがんだものだ。
そんなある日、父から言われた。
「俺の田舎の岩手にはな? 『わんこそば』というのがあってな?」
「ワンコそば?」
幼かった私は、子犬を連想してしまい、
「かわいいワンコを食べちゃうの?」
と怯えた。
父は大笑いをして、私に茹でた蕎麦をお椀に入れて出してくれた。
「お椀で食べるから「わんこそば」なんだよ」
夢中で食べた。美味かった。
私はその日から、蕎麦はお椀で食べるようになった。
「わんこ蕎麦は「もう食べられない」と言ってもダメなんだ。
隣にお店の女の人がお椀を持って食べるのを待っていて、食べ終わるとすぐにまた蕎麦をそのお椀に入れてしまう。
「ごちそうさま」をする時には、お店の人が蕎麦を入れる前にすばやくお椀に蓋をする必要がある。
そうしないとずっと食べ続けなければならない」
私はその話を聞いて恐ろしくなった。
「お腹がパンクしちゃうの?」
「そうかもしれないぞ」
そして28歳の時、私は勤めていた会社の会長のお供で、ある盛岡の会社の視察に鞄持ちとして同行した際、その盛岡の会社の社長さんから、宮沢賢治もよく食べに来ていたという「わんこ蕎麦」の老舗に招待していただいた。
(これが親父の言っていた「わんこ蕎麦」か?)
軽く100杯は食べられると思った。
お店のベテラン給仕さんの話では、「約11杯分でかけ蕎麦一杯分になります」と説明を受けた。
お膳には薬味として小鉢に筋子や「なめこおろし」などの具材が用意され、そればっかり先に食べていたらその仲居さんに、
「それは薬味だから蕎麦っこと一緒に食べるんだよ」
と、岩手弁で叱られた。
本当は何杯まで食べられるか挑戦したかったが、大勢の社長さんたちがいたので24杯で止めた。
その後、息子が小学校4年生の時、女房が大阪府のトレーニング・シップ、帆船『あこがれ』の夏休みの体験航海に応募したので、息子を八戸港まで送っていく時に、盛岡駅で途中下車して駅前のわんこ蕎麦屋に寄った。
息子にわんこ蕎麦を体験させてやりたかったのと、私のわんこ蕎麦リベンジのために。
親子で死ぬほど食べた。
ただそこの店はお盆が空く度にお替りの蕎麦のお盆を取りに戻るので、以前の花巻の本店とはシステムが異なり、多少は不利だった。
何杯食べたか証明書が発行される。
私は97杯でダウンした。
切りのいい100杯までのあと3杯が、どうしても食べられなかった。
この前、ラジオで「もえあず」という大喰いアイドルの娘がわんこ蕎麦を食べた話をしていた。
「1,000杯くらいしか食べられませんでした。エヘッ」
「1,000杯!」 私は足元にも及ばないと思った。
多分、今なら20杯で白旗だな?
わんこそば、また食べたい。
砂糖を大さじ3杯も入れたミルク珈琲に食パンを浸して食べたり、『おしるこ』という和風クッキーが好きだったりした。
中でも私のお気に入りは、金魚の形をしたスナック菓子だった。
「あの金魚さんのお菓子が食べたいの!」
と、ベソをかいて母に訴え、母はそんな私を見て大笑いをして、私を連れて近所の雑貨屋でその金魚の菓子を買ってくれた。
その菓子を偶然、スーパーマーケットで見つけたが、今はそれほど食べたいとは思わない。
食べることが好きだった。
それは両親の影響が強いと思う。
母も父も、自分の食に対するこだわりが強い人だった。
「私はサントリーの烏龍茶しか飲まないわ」
とか、
「アンコは「つぶあん」じゃなきゃダメよ」
と、母は言っていたものだ。
母は料理上手だった。
特に母が得意だったのが「中華そば」だった。
私が富山の商船高専から帰省すると、母によく中華そばを作って欲しいとねだったものだ。
母は中学を出て横浜の理髪店で奉公した後。一時、横浜の中華食堂で、住込みで働いていたことがあったそうで、母の作る中華そばは絶品だった。
「チャーシュウを作る時はね、蒸したら絶対に生醤油だけで煮詰めるのよ」
母はトウモロコシもサツマイモもよく、蒸し器を使った。
茹でると旨味もに逃げるからだという。
昔、家に瞬間湯沸かし器がなく、母は冷たい水道水で洗い物をして、いつも「あー、冷たい」と、手を真っ赤にして洗い物をしていた。
殆どの家には小さな瞬間湯沸かし器があった。
私の夢は、母に瞬間湯沸かし器をプレゼントしてあげることだった。
私たち家族は会津を離れて埼玉県の大宮に引っ越して来たので頼る親戚もなく、母が寝込むと、帰りの遅い父を待っているわけにはいかず、食事は私が作った。
当時、まだ小学校2年生だった私は、まだ生まれたばかりの妹を背中におんぶしながら、米を研いだ。
その頃からよく母に料理の手ほどきを受けた。
母はよくそんな私を笑って言った。
「男は台所に立つもんじゃないわよ。出世しなくなるから」
母の予言通り、私は出世しなかった。
子供の時、父によくお酌をした。
父は子供にビールやウイスキーを注いでもらうのが好きだった。
小さかった私がビール瓶を両手に抱え、父の三ツ矢サイダーのコップにビールを慎重に注ごうとした時、それを父が制した。
「コップにまだビールが残っているうちには、継ぎ足してはダメなんだよ。
ビールが不味くなるからね?」
蕎麦が好物だった父だが、七味がないと蕎麦を食べない人だった。
そんな父が私がまだ幼稚園だった頃にゆで卵を作ってくれた。
そのゆで卵が衝撃だった。
卵を茹でて、黄身と白身に分けて白身をザク切りにして、その上に黄身をザルで裏ゴシしてその上にふりかけ、そこに砂糖と醤油を掛けて食べさせてくれた時は、父が神に思えた。
父に何度もそのゆで卵をせがんだものだ。
そんなある日、父から言われた。
「俺の田舎の岩手にはな? 『わんこそば』というのがあってな?」
「ワンコそば?」
幼かった私は、子犬を連想してしまい、
「かわいいワンコを食べちゃうの?」
と怯えた。
父は大笑いをして、私に茹でた蕎麦をお椀に入れて出してくれた。
「お椀で食べるから「わんこそば」なんだよ」
夢中で食べた。美味かった。
私はその日から、蕎麦はお椀で食べるようになった。
「わんこ蕎麦は「もう食べられない」と言ってもダメなんだ。
隣にお店の女の人がお椀を持って食べるのを待っていて、食べ終わるとすぐにまた蕎麦をそのお椀に入れてしまう。
「ごちそうさま」をする時には、お店の人が蕎麦を入れる前にすばやくお椀に蓋をする必要がある。
そうしないとずっと食べ続けなければならない」
私はその話を聞いて恐ろしくなった。
「お腹がパンクしちゃうの?」
「そうかもしれないぞ」
そして28歳の時、私は勤めていた会社の会長のお供で、ある盛岡の会社の視察に鞄持ちとして同行した際、その盛岡の会社の社長さんから、宮沢賢治もよく食べに来ていたという「わんこ蕎麦」の老舗に招待していただいた。
(これが親父の言っていた「わんこ蕎麦」か?)
軽く100杯は食べられると思った。
お店のベテラン給仕さんの話では、「約11杯分でかけ蕎麦一杯分になります」と説明を受けた。
お膳には薬味として小鉢に筋子や「なめこおろし」などの具材が用意され、そればっかり先に食べていたらその仲居さんに、
「それは薬味だから蕎麦っこと一緒に食べるんだよ」
と、岩手弁で叱られた。
本当は何杯まで食べられるか挑戦したかったが、大勢の社長さんたちがいたので24杯で止めた。
その後、息子が小学校4年生の時、女房が大阪府のトレーニング・シップ、帆船『あこがれ』の夏休みの体験航海に応募したので、息子を八戸港まで送っていく時に、盛岡駅で途中下車して駅前のわんこ蕎麦屋に寄った。
息子にわんこ蕎麦を体験させてやりたかったのと、私のわんこ蕎麦リベンジのために。
親子で死ぬほど食べた。
ただそこの店はお盆が空く度にお替りの蕎麦のお盆を取りに戻るので、以前の花巻の本店とはシステムが異なり、多少は不利だった。
何杯食べたか証明書が発行される。
私は97杯でダウンした。
切りのいい100杯までのあと3杯が、どうしても食べられなかった。
この前、ラジオで「もえあず」という大喰いアイドルの娘がわんこ蕎麦を食べた話をしていた。
「1,000杯くらいしか食べられませんでした。エヘッ」
「1,000杯!」 私は足元にも及ばないと思った。
多分、今なら20杯で白旗だな?
わんこそば、また食べたい。
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