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第6話

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 千雪と私は東京へ戻り、汐留の千雪のマンションで一緒に暮らすことにした。
 千雪は酒を止め、そして私も酒を止めた。
 私が酒を飲めば、また千雪も酒を飲みたくなるからだ。

 「慶まで私に付き合うことはないのに。
 いいのよ、慶は飲んでも」
 「元々酒なんか飲みたいわけじゃない。女がいなかったから酒を飲んで暇を埋めていただけだ。
 俺にとっての酒はお前だ。俺を酔わせてくれるからな?
 だからもう飲む必要がない。
 それに俺が酒を飲まなければ千雪も酒が飲み難くなるだろう?
 俺はお前の「アル中防止薬」というわけだ」
 「ありがとう、慶。
 でももう大丈夫。私もひとりじゃないから。
 慶というお酒が私をいつも酔わせてくれる」


 千雪は掃除洗濯、料理などの家事全般を積極的にこなし、彼女の生活は昼型に変わった。
 肌艶も良くなり、あの死んだ魚のような目が輝きを取り戻していた。

 「千雪」
 「なあに?」
 「お前、綺麗になったな?」
 「うれしい! もっと言って!
 慶のお蔭だよ。今夜もたくさんかわいがってね?」

 そんな平穏でしあわせな日々が続いていた。
 


 「ねえ、銀座のミニシアターに映画を観に行かない?」
 「シネスイッチか? どんな映画だ?」
 「マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの映画、『ひまわり』よ」
 「随分古い映画だな? ヘンリー・マンシーニのあの胸が締め付けられるような映画音楽は好きだけどな?」
 「私も大好き。そして映画の帰りにあのBARに行きましょうよ」
 「セント・エルモの火にか?」

 実は私も気になっていた。
 なぜかあのマスターには人間として興味があったからだ。
 彼にはまるで黒豹のようなしなやかな野生を感じた。

 「もちろん私は飲まないわよ。もうお酒は止めたから。
 でも慶は飲んでいいからね? 今度は私が介抱してあげる」

 おそらく千雪は私を安心させたかったようだ。
 ここまで回復した自分を見せたかったのだろう。

 

 映画を観た後、私たちは中華レストランで軽い食事をした。
 
 「千雪、お前、大泣きしていたな?」
 「慶だって泣いていたくせに。しっかり見ちゃったんだから、慶が泣いているところ」
 「俺が泣くわけがないだろう? それは気のせいだ」
 「だってソフィア・ローレンがマルチェロと別れて列車に飛び乗り、泣き崩れるあのシーン。
 あのシーンで泣かない人は鬼よ鬼」

 あの広大なひまわり畑に流れるマンシーニのテーマ音楽。
 俺は忘れていたものを思い出していた。

 
      人を愛すること


 私はノンアルビールでギョウザと棒々鶏を食べている千雪を見て、私は幸福を実感していた。
 


 『St.Elmo's Fire』に行くと、見覚えのある老人がギムレットを飲んでいた。
 経団連会長、四菱物産の高畠順三その人だった。

 
 「いらっしゃいませ。お久しぶりです。
 良かった、ご一緒でおいでいただいて」
 「ご無沙汰しておりました。少しの間、ふたりで別荘に行っていたので、今日やっとここへ来ることが出来ました」
 「それは良かった。少し心配していたんですよ。
 あの後、どちらもいらっしゃらなかったので」
 「マスター、お久しぶり。
 今ね、慶と一緒に暮らしているの」
 「そうでしたか? これで私も安心しました」
 「それからね? もう私はお酒を止めたの。
 でも彼には飲ませてあげてね? 私に付き合ってずっとお酒を飲んでないのよ、この人。バカでしょう?」
 「そうでしたか?」
 「ということだから私はノンアルカクテルでこの人にはギムレットをお願い」
 「俺もノンアルでいいよ」
 「いいからいいから」
 「おやさしいんですね? 三島先生は」
 「私のことを知っていたんですか?」
 「はい。先生のファンですから。
 三島先生の小説に出てくる男性はみんな、あと少しのところでしあわせを掴めるのに、人間としての尊厳を守ろうとしてそれをあっさりと捨ててしまう。
 そこが好きなんです」
 「ありがとうございます」
 「後で本にサインをいただけますか? 厚かましいようですが握手もお願いします」
 「恐縮ですね?」
 「それでは千雪さんにはノンアル・カクテルを。
 先生にはギムレットをお作りいたします」
 「お願いします」
 

 私にはギムレットを、そして千雪の前にはロンググラスが置かれた。

 「このカクテルはなんというカクテルなの?」
 「『グラスゴー・フリップ』というノンアルカクテルです。
 レモンジュースとジンジャエール、そして砂糖と卵、レモンライムで作ります。
 コクが有り、蕩けるような舌触りが特徴です。
 別名を恋人たちの夢、『Lover's Dream』と言います」
 「流石はマスター、随分と粋なことするじゃないの?」

 千雪は満足そうに私と乾杯をした。

 「私たちのしあわせな未来に」
 「乾杯」

 私はこのマスターの作るギムレットが全身に沁みた。

 すると高畠会長が話し掛けて来た。
 
 「ここのギムレットを超える店は中々ありませんよ」
 「会長もお好きなんですね? マスターの作るギムレット」
 「私のことをご存知ですか?」
 「よくテレビで拝見しますから」
 「あはははは あれはよそ行きの私ですよ。
 今が本当の私です。
 初めまして、四菱の高畠です」

 会長は私に名刺を渡してくれた。

 「ご丁寧にありがとうございます。
 すみません、私は自由業なので名刺を持っていないもので。
 小説家の三島慶と申します」
 「私も何冊か読ませていただきましたよ。
 今どき純文学とはめずらしいですからなあ。おっとこれは失礼。
 私もあなたのファンです」
 「ありがとうございます」
 「私にもご著書にサインをいただけますかな? そして握手もよろしいか?」 
 「こちらこそお願いしたいくらいです。
 高畠会長のような方こそ、総理大臣に相応しいと思います」
 「総理になって日本が変えられるものならそうなりたいものですな? あはははは」

 すると奥からマスターが私の本を2冊、持って来た。
 
 初めに高畠順三と会長の名を書いてサインをし、握手をした。
 人間力の溢れる、パワーのある手だった。

 「マスターのお名前は?」
 「冴島浩二です」

 私は冴島さんにもサインをし、握手をした。
 
 (んっ? 軍人の手?)

 冴島さんの手は、以前中南米で取材をした時に握手を交わしたゲリラ兵の手と同じ感触だった。
 人を殺めた手?


 私と千雪は1時間ほど会長とマスターと談笑をして帰った。



 「冴島、久しぶりに旨い酒を飲んだよ。
 あのふたり、しあわせになるといいなあ」
 「そうですね?
 ところで会長、いいんですね? そのまま任務を遂行しても」
 「ああ、いつもすまんな? 嫌な仕事ばかりをさせて」
 「お互い様ですよ会長」
 「仕方がない。この国のためだからな?」

 そして店の看板の明かりが消えた。

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